「あなたはいったいどのような人になりたいのか?」

教育という文脈において、小学生、中学生、高校生でもいいのですが、問いかけて、そして一緒に対話してみたいことはがあります。それは、「あなたはいったいどのような人になりたいのか?」ということです。

これは、「どんな職業に就きたいのか?」「何になりたいのか?」という問いかけではありません。

「どのような人になりたいのだろうか?」「どうしてそう思うのか?」「そのことによって何を得たいのだろうか?」「そのことにがあなたの人生にとって大切だと思うのはどこから来たのだろうか?」ということを、たぶん一回だけでなく、同じ集団に対して何度も繰り返して語って生きたと考えています。

これは、自分が自分に対する、人に対する、意思表明になるのだと思うのです。

私は社会構成主義的な考え方に価値を見出していますので、自分の「人となり」が自分に前もって内在しているとは信じていません。ただ一方で、それが社会の価値観にただ右往左往されるような存在でもないと考えています。

自分がどのような人になりたいのかというのは、自分の一生をかけて取り組むべき課題なのでしょう。そこでは、自分の意思や願望がそれを作り上げると見なすことができるのです。つまり、自分がそれを望み、それに取り組むことによって、そのことを得ることができるはずだということです。

この種のディスカッションをすることの最も大切な姿勢は、常に自分のことについて語るという文脈を維持することです。大人が自分のことを棚に上げて、子どもに「どのような人になりたいのか」についてコメントし、それについてどのようにすればいいのかのアドバイスをするのであれば、興醒めということになっています。しらけるということです。このような大切な議論を、けっして、しらけさせてはいけないのだと思うのです。

「あなたはいったいどのような人になりたいのか?」のことを教育の場で、しっかりと議論していくことの大切さは、「人はどのような姿勢で生きていくこと」が重要なことであるのかということをめぐる価値観を積み上げられることにあると思います。このことについて語る、語り方を身につけられる場を作ることにあるとも言えます。

人が語り、そのことを聞き、自分の中に取り入れ、自分の中に体験と照らし合わせて、自分の言葉で語るのです。「どのような人になりたいのか」を。そして、どうしてそのように思うようになったのかについて語ることによって、そのことの価値が自分の中でより鮮明になっていきます。

そして、そのような語りは他の人に届くのです。それを聞いた人は、それを自分の中に取り入れ、それを自分の言葉で表現するようになるというサイクルを生じさせるためには、教育という場が絶好の場と考えるべきでしょう。

 

「あなたはいったいどのような人になりたいのか?」ということについて考えているきっかけは、ふたつありました。

今、私のスーパーバイザーでナラティヴ・セラピストのドナルド・マクミニマンの「ふたつの島とボート」という本の翻訳作業をしているのですが、そこでのもっとも大きなテーマが、この「あなたはいったいどのような人になりたいのか?」ということです。(来年には訳本を出版できるはず…)

そしてもうひとつは、この質問をいろいろと角度を変えて、大人に尋ねたときに「そのことをどのように語ったらいいのか見当もつかないような場面になんどか遭遇したからです。

これを語る言語を育めない社会文化的な環境を、私は深刻に受け止めているところです。