“reflexive”と“reflective”の違いについての考察―能動態、中動態の違いとして―

 ナラティヴ・セラピーを学び始めたり、あるいはその中で、カウンセリングの文献や言葉に英語で触れるようになってから、“reflective”ないし、“reflexive”といった単語に触れるようになった。最近では、トム・アンデルセンのリフレクティングチームという言葉や、ショーンの言うような、反省的実践家(The Reflective Practitioner)という概念も含め、どうも「reflec-」の仲間の単語が様々に使われている。個人的には、カウンセラーなどの実践家が、自身を顧みながら実践に取り組むような態度を述べる時、reflexiveという言葉を使うようになっている。ただ、あるワークショップの際、なぜreflectiveと言わないのか、どのような違いがあるのか、と聞かれてうまく答えられなかったことがあった。

 基本的には、reflectiveにもreflexiveにも、自己を顧みる省察(反省)や、省察的態度(反省的態度)のような意味が含まれている様である。ただ、微妙にスペルの異なる両者の意味の違いはなんだろうかと言われると判然としない。英語話者ではないながらも、思いつく印象としては、自分自身の内省をぐるぐる回すような行為の際はreflexive、他者に向けて行われる行為のような際はreflect(ive)という感じがする。個人的には、内省的な態度を表わす時、reflexiveと言いたい気がしている。ただ、調べてみるとreflectiveも「反省」といった意味が含まれており、両者の言葉の差を感覚的なところ以上には説明できないもやもやがあった。

 しばらく、そんなことを考えたり考えない時期が1年くらい続いたのだが、自分の研究のために、中動態の概念を改めて勉強し直している中で、なんとなく〈能動態―中動態〉の違いとして、このことを説明できるのではないか、と思い始めた。

 自分は言語の専門家ではないので、どんな文献をあたったらいいのかもいまいちわからず、この試論をするにあたり、ネット検索ばかりに頼っているので、そもそも根本的な仮定の誤りの指摘を受けるかもしれない。あるいは、ある程度見当はずれでないにしても、逆に、後にも書くようにreflexive自体が「中動態」を示す意があり、もしかしたら、改めて書いてまとめるほどでもない、といわれるかもなという気もする。ただ、一応それなりに考えてみたので、仮説としてここにまとめておくことにした。

・reflex-群とrelect-群の意味の違い

 ここまでreflexive、reflectiveとして対比させてきたが、この微妙な違いを反映していそうな単語はいくつかある。reflex-群とでも仮に呼ぶものにはreflex, reflexion, reflexive, reflexivityが、relect-群とでも呼べそうな方にはreflect, reflection, reflective, reflectivityなどがある。reflec-という基本の部分を持ちながら、その次にxが来るかtが来るかで、微妙に変形した単語の派生があるといえる。reflexive、reflectiveの違いを検討するにあたり、reflex-群とrelect-群の単語の意味の違いについてざーっとみていきたい。

 そこでまずは、ネット辞典のWeblioを見ながら、両者の違いを見てみる。Weblioは色々な辞典の意味がまとめて載っているようなので、引用されている辞書名も一緒に書いておく。

 まず、一番短い、reflexとreflectの意味をまとめてみると、Eゲイト英和辞典からの意味では、次のようになっている。

 まず、reflectの意味としては、

 他動詞として「1(光・熱)を反射する;(音)を反響する」「2(鏡などが)…を映す」「3(考えなど)を反映する,表す,示す;〈…かを〉反映する」「4よく考える,熟考する;〈…を〉反省する」「5(不名誉・不信など)を〈人に〉もたらす」

 自動詞として「1(光・熱が)反射する;(音が)反響する;(鏡などが)映る」「2〈…を〉よく考える,熟考する;〈…を〉反省する」「3〈人に〉(特に悪い)影響を及ぼす;〈人の〉不名誉となる,体面を傷つける」

 といった意味があるという。

 対してreflexは、

 名詞として「1≪生理≫反射(刺激に対する無意識の動作)」「2反射的な動作;反射神経,反射能力」「3(光などの)反射,反映;反射光[音],映像」

 形容詞として「1≪生理≫反射の;反射的な」「2(光などが)反射された」「3反動の,反作用の」

 という意味があるらしい。

 なんとなく、どちらも「反射する」という動きが根本にあり、reflectの方は光や音などの物理現象や、考えを反射させたり、あるいは他者への悪い影響、という方向へ派生しているようだ。対してreflexは、似たような意味を持ちながら、人体の生理的な反射や、力学としての反動、反作用という点で固有の意味を持っているようである。とはいえ、光の反射という意味なんか両者でかぶってもいる。

 また、日本語WordNet(英和)でのreflexの意味はもう少しユニークで、

 形容詞として「意志も意識的なコントロールもなしで(without volition or conscious control)」

 名詞として「無意識的な反応(an automatic instinctive unlearned reaction to a stimulus)」

 という意味があると書かれている。上記の意味とはだいぶ違っていて面白い。同じく日本語WordNet(英和)の「reflect」の方の意味にはこうした意味合いはなく、「Eゲイト英和辞典」と被らない意味としては「品質の証拠を与える」「ある種の行動の証拠を示す」「イメージを見せる」といった意味が書かれている。

 なおWiktionary英語版における語源の説明は、両者の語源の違いを示唆している。まずreflectは、古いフランス語の”reflecter”や、ラテン語の”reflectō”で、re- + flectō (曲げる)を語源とする、ということである(From Old French reflecter (“to bend back, turn back”), from Latin reflectō (“I reflect”), from re- (“again”) + flectō (“I bend, I curve”))。対して、reflexはラテン語のreflexusに語源を持つと書きつつ、reflectionという名詞と同じような意味である、と書いてあるように読める(From Late Latin reflexus, past participle of reflectere (“to bend back”). Photography sense is from noun sense meaning “reflection”.)。

 続いてreflectionとreflexionについて調べてみた。まずreflectionの方は、reflectで出てきた意味に近似のものがほとんどで、逆にreflexに特有だった、生理学的な反射や、力学的な反作用、また日本語WordNetにあったような「意志も意識的なコントロールもなしで」とか「無意識的な反応」といった意味に関わるようなものは載っていなかった。

 一方、reflexionを調べてみると、辞書によって微妙にその意味が違って、reflectionとほぼ同じ意味が載っていたり(日本語WordNet(英和))、なんならその意味を「((英))=reflection」として同じ意味と表記するもの(Eゲイト英和辞典)もあれば、「反射運動;反射」とだけ書かれているものもある(JST科学技術用語日英対訳辞書/これに関しては、reflectにもある光や音の反射のことか、reflexに特有の生理学や力学的な意味合いのものかはわからない)。reflexionという単語は、現代では、ほぼreflectionの意味の使用に吸収されてしまっているのかもしれない(いつごろかまで、reflexion独特の意味や用法が残っていた時期があったのかも、個人的にわからないが)。

 最後に、reflexiveとreflective、reflexivityとreflectivityの違いについて。これについては、そこまで多義的でもないので、見つかった訳をある程度まとめて表に書いてみる。

Reflexive
形容詞「1反射的な,反省的な」「2【文法】 再帰の」(Eゲイト英和辞典) 「再帰性の, 再帰的な」(ライフサイエンス辞書) 形容詞「1それ自体を振り返るさま」「2意志も意識的なコントロールもなしで」名詞「1動作主の行為が動作主自身に作用することを示すために-selfが付加された人称代名詞」(日本語WordNet(英和))
Reflective
形容詞「1反射[反響,反映]する」「2内省的な;熟考する,思慮深い」(Eゲイト英和辞典) 「反射の, 反射的な, 反映的な」(ライフサイエンス辞書) 形容詞「1心の問題に取り組んだ」「2物理的に光か音を反射することができる」「3深く、またはひどく思慮深い」(日本語WordNet(英和))
Reflexivity
名詞「1それが要素とそれ自体の間で保たれる関係」「2再帰代名詞とその先行詞の同一指示的な関係」(日本語WordNet(英和)) 名詞「《生理》反射性」(英辞郎)
Reflectivity
名詞「2 〔光・熱・音などの〕反射性」「2= reflectance《物理・光学》反射率」(英辞郎)

 こう書いてみると、どちらも何かしらの現象としての「反射」的な意味や、そこから派生したのだろう、思考を反射させるようなイメージからの「内省」や「熟考」といった意味が、ある程度重なりながら含まれているようである。両者の違いを強調するのであれば、reflexive/reflexivityの方は、「再帰」という性質や文法的な意味、生理学的な「反射」が含まれるのと、reflective/reflectivityの方は光や熱、音などの物理現象の反射が強調されているという点だろうか。また、日本語WordNetでは、reflexivityに、「1それが要素とそれ自体の間で保たれる関係」というユニークな意味が載せられている。

 以上、reflex-群とreflect-群の意味の違いを見てきた。ちなみに、そもそもの語源としては、どうやらラテン語の合成語としては、「re+flectre」や「re+flexio」から来ており、どちらもre(後ろへ)+曲げる(flecteleやflexio)、つまり「後ろへ曲げる」という言葉が大元ということらしい(https://gogen-wisdom.hatenablog.com/entry/2019/09/09/120000)。

 確かに、これまで見てきた意味を見ると、「後ろへ―曲がる」という意味の派生を様々な現象に当てはめたものとして理解できる。例えば、熱や光や音の反射は、まさにそうした物理的な要素が何かにあたって後ろに折り返す運動を示しているし、鏡や水面に何か映るという動詞は、この光が折り返す現象の結果である。内省や熟考は、思考や心的過程として、自分の考えたことや自己を折り返してみてみる事から派生した意味と考えることができるだろう。力学的な反動や反作用も、一方向に向けた力の後方への折り返しであるし、生理学的な反射も、例えば触った刺激が人体に跳ね返るフィードバック的なイメージと考えることができる。「再帰」という言葉も、書いて次の通り、主語に再び戻るという動きのイメージがあるだろう。reflectに固有にあった、「(人に)悪影響を与える」「名誉を傷つける」とかは少しわからないが、おそらくこうした語源の延長上で意味が遷移していったのだろう。

 まとめるなら、reflex-群とreflect-群は、どちらも語源として大元はおそらく同じ「後ろに―曲げる」という意味で、そのため「反射」「内省」といった意味は大まかに重なっており、しかしreflex-群には生理学や力学的な意味や再帰というニュアンスが与えられ、reflect-群は物理的な要素(光や音)の反射といった意味を主に反映している、といえるのではないか。

 一旦ここまでまとめたところで、次のような疑問が残る。この意味の微妙なずれは何に由来するのだろうか、ということである。単純に考えれば、そこにはreflex-群とreflect-群それぞれに固有の意味合いの様相が反映されていると言えるだろうが、だとすればそれはなんなのだろうか。また、もともとのこの疑問の出発点としては、「内省的」な動きを表現するときに、reflectiveとreflexiveという言葉のニュアンスに違いがあるだろうか、という疑問があった。ひょっとすると、同じ「内省」や「反省」という意味合いとしてくくられているとしても、両者には微妙なニュアンスの違いがありはしないのだろうか。微妙なスペルの違いであっても、単語が違う以上、そこにはニュアンスの違いがあると考えることもできる。言語というのは、違いを孕むものも同じ言葉でくくってしまうことができる厄介さがあるものである。例えば「川」という大きなくくりのなかに「渓流」「河口」も含んでしまうような。「川」と「河」は同じ意味といっても間違いではないが、しかしそのニュアンスの微妙な違いを探求することは、「かわ」が意味するものの様相の多面性や奥深さを知ることにつながるかもしれない。

 もし、reflex-群とreflect-群が持つ固有の様相を検討することで、「内省」という言葉が含むものの中に在る「違い」をもう少し丁寧に腑分けすることができれば、reflexiveとreflectiveの違いをはっきりさせ、よりこの言葉に奥行きを見ることができるかもしれない。

・reflectiveは能動態、reflexiveは中動態では?

 結論から言ってしまうと、reflectiveは能動態、reflexiveは中動態の違いとして説明することができるのではないか、という推測をしている。中動態は、インド・ヨーロッパ語族の古語において存在した態である。現在の英語では、態は能動態と受動態で説明されるが、かつては能動態と中動態によって態が説明されていたという。reflectiveとreflexiveは、この態の違いからくるニュアンスを汲んでいるのではないだろうか。

 まず、そう考える乏しいながら根拠として、reflexiveは文法用語として「再帰の」という意味を含む。例えば”a reflexive pronoun”は「再帰代名詞」の意となる。「サンスクリット語文法概略」(千葉大学)においては、「中動態とは本来「再帰動詞 reflexive」を表わす、「反射態」と呼ばれることもある。」と書かれており、要するに、reflexiveという言葉は、それ自体が中動態を意味する言葉でもあるわけだ。

 実際に、“reflect-”と“reflex-“の語形の違いが、古代の文法的に、もともと同じ動詞の能動態と中動態となるのかまでは少し調べがつかなかった。そのためreflexiveが言葉の意味として再帰、中動を示すからと言って、態として中動態であるかもわからないし、そうだとしても、reflectの方が能動態ということが保障されるわけでもない。

 ただ、reflexiveの方だけが再帰や中動態を示す語として使われているという点と、能動態が中動態に対立する項であったことを考えるならば、消極的な理解として、reflexiveが中動態のニュアンスを、reflectiveが中動態ではない態=能動態のニュアンスを持っていると理解するのは、そんなに的外れではないのでは?という気がした。

 もっとしっかり調べてから議論すればいいだけの話だが、ちょっとそこにそこまで余力を割くところまでいかなかったので、もっと詳しい人の鶴の一声でそもそも論がひっくり返ることも十分念頭におきながら、reflexiveが中動態、reflectiveが能動態、という違いがあるのではないか、として、両者の意味を考えてみたい。

・中動態の意味の諸相

 さて、そもそも中動態とは何か、という点を考える必要があると思われる。ここで一度、その意味を改めて検討したい。中動態は、インド・ヨーロッパ語族の古語において存在した態である。現在の英語では、態は能動態と受動態で、こう言ってよければ二項対立的に説明されるが、実はかつては受動態ではなく、能動態と中動態の対立構造の中に態という文法があったとされる。実は中動態の定義や意味は、どうも今でさえ本当にはっきり確定しているか微妙なようである。ただ、今のところ、言語学者のバンヴェニストの定義が、代表的なものとして使われているようである。

 そして、この中動態概念は、ただの一つの文法的な要素でありながら、非常に示唆に富むものとして、様々な哲学者や思想家に引用されてきた。そこには、まず現在の言語体系や、私たちが往々にして自明と感じるものの考え方に、能動態と受動態の対立構造を前提とするものがあり、言ってしまえば、思考の枠組みにその方向の制限がかかっているという状態があって、その中で、中動態概念がこの前提に疑問を投げかけ、新しい視座を開いたり、ものの考え方を可能にしてくれるとして、言及されるようである。ただ、ここで厄介なのは、この中動態概念から引き出される特徴というのは多面的で、またそこから読み取れる視座、そしてその視座をもってどのような現象に考察を加えるかは、それを引用する人の視点や関心によって様々な展開を見せているということである。

 まず、そもそものバンヴェニストの中動態の定義を見ておく。バンヴェニストは、『一般言語学の諸問題』の中で次のように定義している。

「能動態においては、動詞は、主辞に発して主辞の外で行われる過程を示す。これとの対立によって定義されるべき態であるところの中動態では、動詞は、主辞がその過程の座であるような過程を示し、主辞の表わすその主体は、この過程の内部にあるのである。」(邦訳p169)

 おそらく、このバンヴェニストの定義だけを一読してもその意味するところはよくわからないだろう。しかし、様々な人が、このバンヴェニストの定義を基に、もちろんそれ以外の記述や、具体的な中動態の例を取りあげながら、中動態が示唆する特徴を様々に導き出している。ここでは、いくつかその例を上げることで、中動態の特徴と中動態が示唆する視座にどのような側面があるか見ていきたい。

 例えば、國分は『中動態の世界』で、中動態が行為の動作主を特定せず、ただ出来事が成立するという過程を表わす、という特徴に焦点をあてている。この点に焦点が当たる背景として、現代の能動―受動の対立構造の中で、ある事態を記述するときに、誰が何をしたという動作主が特定されてしまう言語観や思考の方向性が生じていること、そしてそこには主体の意志を前提とする思想があることがあり、國分はそのような事態への問題意識があるようだ。主体やその意思を前提とする考え方が自明化する中で、現実には様々な影響力に制限を受けながら、必ずしも自分の意志だけで行為を決定できない状況があるにもかかわらず、過剰に行為の主体に原因が帰属され、責任を負わされていないか、それがある種の生きにくさにつながってはいないか、と。そんななか、中動態という、主体を名指しせずに、ただ「出来事を描写する言語」という特徴に、近代的な考え方や語りの在り方を脱構築し、また別の語り方を探求する可能性が示唆されている。

 例えば、「見る」と「見える」という動詞はどちらも見ることに関わる動詞だが、微妙にニュアンスが異なる。込み入った議論は置いておくが、日本語においては前者が能動態的、後者が中動態的な表現といえるようだ。「私は黒板を見た」と能動態で言えば、そこには私という主体が意図的に黒板を見た、というニュアンスが前に立つ。しかし、「私には黒板が見えた」と言う時、そこには、主体が意図的に黒板を見たというニュアンスは薄れ、私の意図というよりも、ただ黒板が目に入るという出来事がニュートラルに記述されるニュアンスを帯びる。ここでは、中動態が表現できる、出来事性や動作主の不在という特徴に焦点が当てられているわけだ。

 しかし、中動態から見えてくる視座にはそれ以外の側面に焦点をあてるものもある。森田の『芸術の中動態』という本では、國分の論で大きく取り上げられていた出来事性、動作主の不在も特徴の一つとして踏まえながらも、また違う側面に焦点をあてている。以下は、それを示す一文である。

「中動態は生成変化の態である。しかもそこには「差異ともいえない差異」が用意されていて、後から振り返れば、主体-客体、精神的意味的なもの―物質的感覚的なもの、等々の二元的対立が遡行的に見出される。その遡行まで含めて、言い換えると事後性の問題を含めて、中動態を考えなければならない」(p222)

 能動態と受動態はする側とされる側に主辞を分類し、そこには、主体と客体をはっきりと描き出す言語という特徴が備わる。この主客構造を前提とした考え方においては、動詞で表される出来事は、別々に存在する項の、一方が他方に一方向的な影響を与える、という考え方での思考や事態の説明の仕方が提供される。しかしながら、森田は芸術活動について考察する中で、そうシンプルに分けられない事態が往々にしてあることを捉える。例えば、芸術家が創作活動をする時、芸術家は頭の中に在るすでに出来上がったアイディアを現実にコピーするように何かを作るわけではない。まだ判然としないながらも湧き上がるものを、創作過程や、創作に使う素材と関わり、その影響を受けながら、少しずつ形にし、作品が出来上がったときにはじめて「これが作りたかったんだ」と事後的に発見する、そのような過程がそこにはある。

 森田によれば、主客がはっきりと分かれ、外側から一方的にかかわるような動作を描く能動態(-受動態)の言語や思考では、このような事態を描き出すことはできず、主辞が動作の過程に巻き込まれ、影響を受けながら過程が成立していく中動態によって表現するのが適切ではないか、というのである。さらに森田は、この過程において影響を受ける主体が、その始点であると同時に終点でもあるという差異ともいえない差異をはらむ、しかしその差異がありながらも同一のものでもあり続ける、という様相も中動態が表現する事態の特徴として、また芸術活動を考察する視座として重要視している。つまり創作という過程において、過程の座である主体は、その過程に携わる始点でありながら過程に巻き込まれて影響を被る終点でもあり、その意味で差異をそのうちに含んでいるわけだが、しかしながら同じ主体でもあり続けるという特徴を持ち、このような事態は中動態的であると述べるのである。ここでは、中動態の特徴として抽出されるもののうち、主辞が過程の座でありながら、その過程に巻き込まれて影響を被りながら進行するような事態を表わすこと、そして、その過程の座である主体が、その影響の過程で同一の存在でありながら微妙な差異を内包し、主体の同一性を保ちながら主体を更新していくような過程を表わす、という特徴が導き出され、焦点が当てられているようである。

 中動態から導き出される諸特徴にはこれ以外にも様々ありそうである。例えば『言語の中動態、思考の中動態』の『中動態は〈主体・客体〉の突破口になるのか?』の中で、荒金は、既に述べたような主客構造との関係で、主辞が過程を「支配」する能動態と、過程の「影響」を受ける中動態という、項と項の関係における支配性を問題としている。これはまた、國分のそれとも、森田のそれとも、重なる部分もありつつ異なる様相に焦点をあてているといえる。そして荒金は、この視点からラトゥールの考えに取り組んでいる。おそらく、中動態にどのような特徴を見いだし、それをどのような関心事に向けるのかは、まだまだ色々な広がりがあるようだ。例えば、先の森田は、芸術鑑賞における、知覚現象についての現象学的な考察にも議論を展開したり、オートポイエーシスの考えと中動態を響き合わせたりしている。他にも、今ぱっと思いつくだけでも、主体も影響を被りつつ関係を持つという点でブーバーの「我―汝論」と繋がる可能性を感じるし、荒金が述べるような、独立した「項」と「項」が「関係」する、という考え方ではなく、「関係」の中で「項」と「項」がつくり出されるという特徴からは、ガーゲンの「関係規定的存在」の議論とも関係しそうである。

 

・reflex-群(中動態)とreflect-群(能動態)と考えてみる

 さて、ここで本題に戻り、reflex-群とreflect-群について、前者を中動態的な、後者を能動態的なニュアンスを持つという仮定をもって、両者の意味の違いを再考察してみたい。そうすると、中動態、能動態の特徴として、両群が固有に持つ意味の違いを説明できる気がする。

 どちらも、「後ろに―曲がる」という根源的な意味を持ちながら、reflex-群は生理学的な条件反射や力学的な反作用を表していた。ここでは、「中動態には主辞が過程に巻き込まれてその影響を被り、同一存在でありながら変化を生じさせる」という特徴がよく表れている。生理学的な反射は、まさにある個人の内において、しかもその主体を巻き込む形で生じる過程である。また、力学的な反作用は、例えば動かない壁を押す主体にかかる反作用、というのを考えてみたらわかりやすい。ここで主体は前進する力の座であり、同時にその力に巻き込まれていると同時に、壁に押し返される反作用の力を受けて影響を被ってもいる。reflex-群にユニークな意味合いは、中動態的な様相を含む意味の派生として説明できそうである。

 これに対して、reflect-群に特徴的だった、光や音の反射は能動態的な現象として理解すればすっきりする。能動態の定義は、主体が過程の外側にあり、一方が外部の何かに影響を与えるという主客構造のはっきりしたニュアンスを持つ。少しいいかえれば、外的に独立して存在する項同士のシンプルな因果関係が描かれると言えるかもしれない。光や音が反射するというシンプルな事象の説明には、中動態的な、同一存在の内的過程や変容を積極的に表現するような側面はあまり感じられない。そして、光の反射といった現象の結果として鏡に映像が反射するといった意味につながっていくのではないか。また、reflectの持つ、「(考えなど)を反映する,表す,示す」という意味も、頭の中にあるものを、現実世界に投射する、というシンプルな図式を示すものである。先ほどの森田も、はっきりした主客構造の世界観からくる、頭の中にあるものを単に現実に写し取るような過程というのは、中動態的ではなく、能動的なものとして想定している。そこでは、主体がその過程に巻き込まれて影響をうけたり、変化を生じるような動きは積極的に読み取れない。また、reflect-群に固有の意味として見られた「〈人に〉(特に悪い)影響を及ぼす」や「証拠を与える」「イメージを与える」というのも、独立した二者関係の中で、主体が対象に一方向的に何かを与える、という能動態的な事態の描き方と重なる。

 また「日本語WordNet」が、reflexやreflexivityの定義として書いていたユニークな説明に、「意志も意識的なコントロールもなしで」「無意識的な反応」や「それが要素とそれ自体の間で保たれる関係」といったものがあった。これについても、中動態の出来事性の特徴が持つ意志の後景化や、主客が分離しきらない関係性のなかで項が存在している、という事態の表現と一致する。

 reflex-群が中動態、reflect-群が能動態という言語学的な確証があるわけではないし、推測によって見えてきた類似性から事後的に見出された証左を持ち出すというのはずるい気がするが、少なくとも上述してきたように、reflex-群に中動態的な、reflect-群に能動態的な意味のニュアンスがあると言えそうな気がする。

・「内省」を能動態、中動態のレンズを通してみると

 さて、最後にこうした特徴を踏まえ、reflectiveとreflexiveに共通で見られた「内省」「省察」という意味に、どのようなニュアンスの違いを読み込むことができるか、試してみたい。reflexiveに「内省的な」という意味があり、reflectiveには「内省的な;熟考する,思慮深い」といった意味が見られ、これらはこの字義的な意味のレベルでほぼ同一である。ただ、ここに、あえて中動態、能動態がもたらす事態説明の違いを持ち込み、「内省」という過程と主体の関係性の違いを持ち込んで考えるとしたらどうなるだろうか。

 これまでの中動態の特徴との比較で考えるならば、能動態的なreflectiveの過程は、主客がはっきりした世界観を前提とし、主体がその過程の影響を被ることのない外部から、意志や意図をもってコントロールできる過程として何らかの対象に「内省」を加える、ということになろうか。そして、中動態が描く「内省」の様相とは、主体が「内省」という過程の座であると同時に、状況の中で主体の意志だけで生じるのではない「内省」という過程に、主体自体がコントロールしきれない形で巻き込まれ、「内省」という過程の影響を主体自身が受けながら、「内省」を通して自己が変化を被り更新されていく、そのようなニュアンスを見て取ることができるかもしれない。

 また、reflexiveは「内省」する主体の内的なプロセスに焦点が当たるのに対し、reflectiveは、「反省」という行為が外的な対象との間に生じ、その外的な対象に影響を与えるようなプロセスが前景化しているとも言えるかもしれない。つまり、reflexiveという言葉は、「内省」という過程が、内省する主体を巻き込んで、内省しながら何かに気づき、気づきながらまた内省し、という循環的なプロセスの中で主体が少しずつ、なってみるまでどうなるかわからないような変化を被っていくような内的なプロセス・中動態的な在り様を描き出しており、reflectiveの方は、実際に、意識的に外界の対象との間で「内省」を持とうとしたり、響き合わせていくような、独立した項と項のあいだに比較的はっきり描き出せる一方向的な影響関係を表わすようなニュアンスを持つと言えるのではないか(つまり、と書きながら、結局ごちゃごちゃしてしまった)。

 ちなみに、中動態の議論では、ともすると「中動態の方がいい・正しい」という思考の方向性が喚起されやすい気がするが、森田や荒金も書いているように、中動態の概念があるからと言って受動―能動が提供する主客関係というものが全面的に否定されたり、絶対的な基準で価値づけられたりするわけではない。個人的にもその考えに賛成である。現状、能動―受動的な、主客構造のはっきりした思考が現代的に優勢で、それ故に中動態的な視点からの批判的検討が意味や新鮮さを持つとしても、何か具体的な文脈から離れて、その意味が価値づけられることには慎重になるべきだろう。むしろ、このような切り分け方が、様々な検討の方向性や、ここでいえば「内省」という言葉でくくられてしまう現象の、多様な側面を切り分け、認識を可能にしてくれる余地を考えることが大切だと思う。

 例えば、リフレクティングチームという実践の名称は、reflect-群の言葉で表現されているわけだが、この名称や表現はこの実践過程にある大切なニュアンスを組んでいると言える気がする。リフレクティングチームは、reflect(ing)という言葉によって、実際に、語り手とそれを聞いた聞き手、またそれを聞くさらなる聞き手、というその場にいる具体的な人達の間で、つまり比較的独立した項として認められた参与者の間で、語られたことが折り返されていく、その外的なプロセスをイメージさせてくれる。もしこの言葉が、リフレクシヴ・チームのように、reflex群の言葉で表現されると、恐らく焦点化される方向が異なってしまう。そこでは、参加する各々の内的なプロセスに焦点が当たり、生き生きとした、言葉の折合わせが生じる場としてのイメージは後景化してしまうかもしれない。実際、参加者の個々の内部でreflexiveな過程が起こっていることの重要性はリフレクティングチームでも論じられていると思うし、その大切さもありながら、その名称として、またその場で起こっていることを表わすイメージとしてはreflect(ing)という表現が、確かに適切なんだろうなという気がした。

 一方で、個人的に、カウンセラーや対人支援者が、己を内省・省察するようなことをreflexiveと呼びたいと思った感覚については、やはりそこにある複雑な事態を表現したいという意図が自分の中にあったから、と言えそうである。実践者が、自分の考え方や価値観、あるいはカウンセリングでとった己の反応を「省察」し続ける過程は、主客構造のはっきりした因果関係には当てはまり切らない感じがある。reflexiveという言葉を使うことで、内省に携わりながらもその過程に自分自身が巻き込まれ、影響を受ける二重性、内省によって何かに気づき、気づきによってまた内省に向かうという循環、その中でだんだんと自分自身が以前の自分から移り変わっていくような変化のニュアンス、そのような「内省・省察」の中動態的な側面に焦点をあてることを強調するとき、reflexiveという言葉の方が適切なような気がする。

 もしreflexiveとの違いを誇張気味に言うなら、reflectiveという言葉で表される内省の射程は「これとこれを内省しよう」と意識的にコントロールできる範囲にとどまり、自分自身の根本的な見方が変容していくような在り様はあまり含まれなくなるかもしれない。もちろん、reflectiveが意識的に内省に向かおうとする姿勢などを含むと考えれば、その在り方もまた大切であろう。ただ、自明な主客構造の前提がそこにあると捉えれば、モダニズム的な見方の中で、専門家という独立した主体が、自分自身のことは脇に置きながら、その専門意識の中で対象に省察を加えるかのようなニュアンスを持ち出してしまう可能性もあったりするかもしれない。いいすぎだろうか。ただ、確かに「内省」とも呼べてしまうような、「こうかもしれない、あぁかもしれない」という思索が、しかし、自分の持っている既定の参照枠を持ち出した理解の再生産で終わってしまうような例を想像するとき、このモダニズム的専門家の態度ともいえるものの背後には、主格構造のはっきりした世界観における能動態的な思考の在り方が顔をのぞかせているようにも感じる。おそらく中動態的な「内省」は、それとは異なる様相を示すのではないか。(ちなみに、ショーンの「反省的実践家(The Reflective Practitioner)」の概念とかは僕はまだちゃんと勉強していないので、この概念においてreflectiveに託された意味があるのかなといった考察なんかはちょっと置いておく)

 中動態的な内省は、おそらく自分の意識もありながら、意図の外から来るような「内省」の動きにも自身を開いておき、絶えざる内省過程の中で、「そうか」という気付きによって遡及的に、考えてもいなかった自身の変化を生じさせる、そのようなプロセスを意味するといえるかもしれない。

 というところで、今回reflexiveとreflectiveのニュアンスの違いを検討してきた。最初にも述べたように、そもそも論として言語学的な知識の前提で間違っていたりするかもしれないので、まぁ仮説というのも頼りない感じな気がする。ただ、仮にどこかで仮定の誤りがあったとしても、能動態と中動態の違いから、「内省」という言葉を切り分けてみたり、考察し直してみるという取り組み自体は意味があるのではないかなという気がした。できることなら、こうして選り分けてみた、内省というものが含む意味の様相を意識できるようになれたらと思う。やはり、ある種の「内省」のことは、reflexiveという中動態的な名称で呼んで、その意味合いを汲んでいきたいし、一方で能動態的な側面に焦点や重要性をあてたい時には、reflectiveという語を使えるだろうし。

横山克貴