『NZ×ナラティヴ・セラピー 日本の「あたりまえ」から抜け出す二時間半(鹿児島県伊佐市)』に参加して

今回、「NZ×ナラティヴ・セラピー」をとおして、私自身が気づいたことを書かせていただきます。今回のセミナーの中で「あなたにとってのあたりまえは何ですか?」「それはどのような影響を与えていますか?」という2人一組で行うワークがありました。私の出したあたりまえは「時間を守るあたりまえ」でした。

 

相手方 それはどの程度影響を与えていますか?

松尾  朝起きて寝るまで四六時中付きまとっているので大きな影響です

相手方 それはあなたにとってどのような影響を与えていますか?

松尾  いい影響も悪い影響も与えています。悪い影響はそのことに縛られることのストレス、いい影響は自分の段取り通り進んで完結させた時の快感です。

相手方 では、その悪い影響が無くなった世界はどんなものでしょうか

松尾  一見、居心地が良いようですが、私が時間を守らなくていい世界では恐らく相手も時間を守らなくていいという世界だと思います。となるとこちら側が時間を守らなくていいストレスからは解放されるけれど、逆に約束していた相手から待たされるストレスを抱えてしまいます。

 

大体この時点で持ち時間の10分が経過したので役割交代になりました。

 

上記のやり取りから気づいたことは、自分にとって「あたりまえ」というのは他者からすれば理不尽な思い込みであったり、そこまでする道理もない物であったり…

しかし、自身を縛り付けているからこそのストレスであるにもかかわらず、自身を守るために築き上げたマイルールでもあるのだと今回の「あたりまえ」から気づきました(もちろん今回のようなケースばかりではないと思いますが…)

私は「脱あたりまえ」と意気込み、当初「あたりまえ(ルール)」を少しだけ悪者にしていた部分がありました。「この当たり前を捨てれば新しい世界が見えてくるんだろう」「新しい道が開けるのだろう」と安直に考えていました。しかし、10分と短い時間でのワークで結論?を出すことは些か性急だとは思いますが、しかし、自分の持っている「あたりまえ(今回の場合は時間を守ること)」の物理的な影響のみならず、ついつい簡単に言ってしまいがちな「ストレスを感じて…」といったように表面的ではなくもう一つ進んだ、もう一段掘り下げた影響に気付けたと思っています。それは、「そんな理不尽なあたりまえより他の選択肢をとってみたら?」と安直に提案するのではなくまた、「気づかせる」でもなく、他人にとってはなんてことないルールだとしても、その人を形作っている大切なパーツであり、人生で色々なものから学び、積み重ねた結果の現時点でのルールであり、とても大切なものなのではないだろうか。では、今後その「あたりまえ」をどう扱うか。どうのように人生の中でその「あたりまえ」と付き合っていくか、あたりまえとは捨てるものではく、悪者にするものでもなく、向き合い、話し合い、より豊かなものを作り上げていく礎なのではないか。「抜け出す」とは今持っているものを捨てることではなく、今あるものと一緒に新しい可能性を探していくことではないだろうか。これが、問題を問題として扱い解決していくではなく、一人の人として今起こっていることに向き合うことに繋がっていくのかなぁと…その新しい可能性をどう模索していくかを言葉と気持ち?心?重ねて見つけていくのがナラティヴなのかなぁと今の時点での理解です