読了「協働するナラティヴ」野村直樹(著・訳)、ハーレーン・アンダーソン(著)、ハロルド・グーリシャン(著)

協働するナラティヴ──グーリシャンとアンダーソンによる論文「言語システムとしてのヒューマンシステム」
野村直樹(著・訳)、ハーレーン・アンダーソン(著)、ハロルド・グーリシャン(著)
遠見書房
2013年

長らく積ん読状態においてあったのだが、「ナラティヴ・ターン(物語的転回)」または「解釈学的転回」のことを書いてあるものがないだろうかと思いながら、手に取って読み始めました。以前にもパラパラとめくっていたのですが、どのときには読み始めることができませんでしたが、今回は書いてあることの意味や大切さがより確りと伝わってきたので、一気に読んでしまいました。

著者であり、翻訳者である野村直樹さんが、あとがきに次のように書いています。

論文「言語システムとしてのヒューマンシステム」の全文を日本語で出版することはぼくの長年の夢だった。ナラティヴに関するどの文献よりもこの一論文が、認識論として、実践形式として、もっとも大きな示唆を与えるものである――というのがぼくの正直な感想である。もちろん、そこは人によって解釈や価値観の相違があるだろう。が、この論文がジャーナル『ファミリープロセス』誌上もっとも引用同数が多い論文の一つと言われることそれ自体、何かを物語っているように思う。

アンダーソンとグーリシャンの論文の中で、ナラティヴ・セラピーにおいて大切にされていることがしっかりと表現されています。

ハロルド・グーリシャンという人についても、野村直樹さんが書いてくれていて、私は大変参考になりました。

野村直樹さんのあとがきで、ナラティヴ・セラピーとのつながりに触れて終わっているのも、ナラティヴ・セラピーに取り組む私としてはうれしいところです。

ポストモダニズム、ポスト構造主義、社会構成主義を基盤としたセラピーを形作っている考え方に触れたいのであれば、是非おすすめしたいところです。

本書内で、いくつかアンダーラインをつけたところを引用してみます。

私たちの興味を引いてきたことに次のような引実がある。それは、セラピストの使う言語や語り口が変わると、クライエントの心理的な問題がかたちを変えたり、ある種の現れ方をしたり、あるいは消滅したように見えるという事実である。(40-41頁)

人がかかわってできる(いわゆる機械ではない) システム、つまりヒューマンシステムは、意味という制域においてのみ、また相互に変化しあう言語的リアリティとしてのみ、存在する。前に述べたような構造や役割による社会システムと違い、意味の領域における社会システムは、行き交う言葉の中で、また言葉の意味によって識別されるコミュニケーションのネットワークである。言い換えれば、それは人々がお互いコミュニケーションをして、会話を交わし会話とともにいる、というそのことを指す。(47頁)

「ことばのなかにいる」がヒトという種にとっての特徴だと言えるだろう。なぜなら、ことばをとおしてヒトは変化しつつも、そこにある「意味のコミュニティ」を形成するととができるのだから。言葉を介して創り上げた意味こそ、私たちが生きる現実なのだから。(49頁)

言葉は出界を映し出しているのではなく、言葉はそれぞれが知るべき世界を創り出している。(52頁)

社会組織は、人々の間のコミュニケーションの産物であって、社会組織の結果としてコミュニケーションがあるのではない。ジェイ・ヘイリーは、権威の階層を変えることによってのみコミュニケーションを変えることができると考えたが、私たちの見解はそれとは大きく異なる。コミュニケーションや会話のしかたが社会組織のありようを決めていくのである。そして、現実とは刻々変わっていくなかで対話が創り出す結果なのだ、と私たちは考える。(53頁)

言語哲学のプラテンは、社会-文化的システムとは、人と人が関わりをとおして意味を生成していく集合体だと言い、その集合体内での共通理解をもとにそのアイデンティティは形成され形を変えていくとした。この共通理解は、主観的(サブジエクティヴ)でもなく、客観的(オブジェクティヴ)でもない――それはインターサプジエクティヴな(双方向的に共有される)ものであるから、それは主体的なものと客観的なものが補い合ってできるものである。いわば対話がつくる「観点の交差」とも言えるだろう。(53-54頁)

問題によって招集されたシステムの出演者たちは時とともに人れ替わり、会話の内容、取り組む問題の定義も言い表し方も変化していく。だから問題自体もそこに組織されたシステムも、問題が解決するまであるいはことが修復されるまで不変であるというような確固としたものではない。問題もそのシステムも、ひっきりなしに変化し、あっという間に解釈し直されていくという貝合である。(57頁)

意味ということも、問題ということも、世間が言うところの社会構造や定義には由来しない。問題が家族の「中に」あるとか、ある社会的な集団の「中に」に何か問題がある、というような言い方を私たちはしなくてもよいのだ(ホフマン)。問題は、人と人との間にあるのであって、コミュニケーションに関わる人々が参与して作る共同精神(インターサブジェクティヴ・マインド)のなかにある、常にに変化していくものとして。(58頁)

哲学者ガダマーはハンス・リップスの言うところの、「どのような言語的説明にも必ず表現されていない領域(a circle of the unexpressed)がある」、を好んで引用するが、ガダマー自身はこれを「語るべく残された無限」( the infinity of the unsaidE)と呼んだ。これらが言わんとするのは、どのような説明も言葉も、コミュニケーションされる限りにおいて、完壁であること、百パーセント明確であるとと、意味は一つだけ、なんてことはないということだ。すべての表現が、まだ表現されていない部分をもち、新たな解釈の可能性をもち、明確にされ言葉にされるととを待っている。それは、元の言語表現に欠陥があるからではない。むしろ、すべてのコミュニケーション行為が無限の解釈と意味の余地を残しているということなのだ。(60頁)

そこで私たちは、この「語られずある」部分を言葉に直し、その言葉を広げていくことがセラピーだと考えている。(61頁)

セラピーに求められるのは、ほかでもない、会話を維持していくことである。問題の内容は、論理的に疑問を挙げていくことで精査され、そういう探索を粘り強くつづける中で、これまでとは異なる表現や意味が生じ、やがて「問題」と言う名前で呼ばなくてもよくなる。これが変化の経緯である。(62頁)

対話という機会をもった場合、人は不変ではいられない。セラピーにおける変化とは、対話や会話から生じた意味の変化にすぎないのだ。(64頁)

セラピストは会話のアーティストである。対話をつくり出し維持していく技をそなえた職人である。そこで求められるのは、話を促進させ絶えずそこにスペース(余白)を創っていくことで対話の中に踏みとどまることなのだ。(71頁)

公平な立場に身を置くためには、私たち自身が異なる意味や意見をこころに抱いてみるという、いわばリスクを覚悟しなければならない。クライエントにそれまでの古い考えから離れてほしいと私たちが願うように、私たちセラピストも自らの古い考えから出て行かなくてはならない。白分も変化するというリスクを冒すことによってのみ、お互いを認め合える会話、つまり対話は、新たな展開を見せてくれるのだから。(73頁)

問題をどう表現しどう理解するか、そのしかたを転換してみよう。つまり、社会関係やパターンなど構造的にものをみる見方から、言語のドメイン(領域)での出来事としてみる見方へと転換してみよう。そうして初めて、私たちは観察イコール客観性という考え、表象としての言語観から離れていくことができるのだ。しかし、それはたやすいことではない。「そこには現実というものがあり、発見されるべき事実が存在する」という世界観をあきらめ去ることは、たやすいことではない。(77頁)

ジョーンズは、心理学調査においては調査者の探したいものが見つかるという傾向について指摘した。診断名を探す私たちの作業もおそらくそれに近いだろう。情報を取捨選択できるという主体性によって、セラピストは自己肯定感を得ることになるが、ここでジョーンズはより重要な点に言及する。それは、セラピスト自らの筋書き(理論)でもって相手をそのように見ていくと、期待するところの筋書きに見合った行為を相手から期せずして引き出してしまっているという点である。(80頁)

セラピスト自身の先入観や価値観は、なにを見るかに影響を与える。したがって、その際の情報を処理していくプロセスそのものも選択的である。この点は、臨床家の多くがすんなり認めるところである。しかし、セラピス卜の側の見立てと予期が、クライエン卜の行動を決定し、”発見” されていく項目までも決めている点に同意できる臨床家は、そう多くはない。私たちは臨床家として、この点を長い間見過ごしてきた――見立ての正否や診断の確認に、セラピスト自らが積極的に関わっている点をである。(81頁)

サイコセラピーの基本は、行き交う理解、お互いへの敬意、耳を澄まし相手の言葉を聞こうとする意思である――病理から離れて、語られたととの「真正さ」へと重心を移すことができる偏見のなさと自由さである。これらが治療的会話のエッセンスであろう。自分が誰でまた将来どのような人になっていくかは、対話がその基点にあるのだ。(中略)セラピストの専門性は何に根ざしているかと言えば、対話や会話への参加にあえて賭けていくという”能力” にである。また、自分も変化するリスクを負うということに根ざしているのである。専門性の基準はそこにある。