ナラティヴにおける外在化

前々から、ナラティヴ・セラピーの外在化の部分に関しては、何かちゃんと考えをまとめたいなと思っていた。というのも外在化する会話について「こりゃすごいなぁ」と感じつつも、それを説明するための言葉をまだうまく持ち合わせていないような気がしていたからである。それと、実際に理解するのも使ってみるのもまだ手に余る感じもあり、言葉にするのがためらわれたというのもある。何度か書き始めてはあきらめてを繰り返して、今少し、思考の途中までという括弧つきでまとめてみてもいい気がし始めている。
外在化する会話はナラティヴ・セラピーの非常にベーシックなところにある技術だと思う。ただ、それを説明しようとすると、「問題がその人の外側にあるように質問したり話したりするんだ」という、結局シンプルな言葉になってしまう。そこから連想される一つのイメージとしては、問題をメタファー化・擬人化してしまうことで、問題が自分の外のものになり、外にある問題に立ち向かうという構図でセラピーに取り組むことができる、という考え方だろう。マイケル・ホワイトのスニーキープーの話もそうだし、それも一つのユニークで非常に大事な側面であることは間違いないと思う。けれども、外在化する会話の理解をそこで止めてしまうと、マイケル・ホワイトがそこに含めた他の多くの大事な面を見落としてしまうのではないかという感じがある。例えるならば、サッカーのドリブルを、「足をボールでけることだよ」というレベルで理解して終わりにしてしまうような、「間違ってないどころか外しちゃいけないポイントだけど、奥深さを説明しきれてはいないだろう」という、そんな感じである。
・近代的権力・個人主義的なものへの解毒剤
『物語としての家族』をちゃんと読んだのは今年の初めだった。フーコーの思想から、近代西洋的な価値観が規範化してきた個人主義的なものの見方が、どのように人々を規律化していくのかとかが書かれていて、ナラティヴ・セラピーの背骨みたいなものを見ることができる一冊な気がする。
ここでマイケルらは、「この手の実践は、人々のアイデンティティを特徴づけていた。そこで導入された人々の特徴とは、「落ち着いた」とか「自制心のある」というように極めて個人主義的なものであった(『物語としての家族』新訳版 pp.90)」という。ここで「この手の実践」というのは、もちろん近代権力的なものである。ちなみに、『ナラティヴ実践地図』ではこの辺りのことについて、こんなことも言っている。
「こういった特質こそが称賛されるべきものであるとする規範を再生産する努力にも関わらず、ほとんどの人々は、日常生活において自分自身を他者に提示するとき自らがまったく「冷静」でないことを秘密裏に自覚している。多くの人々にとって、この不一致が、個人的無能力さと不適格さに関する結論の基礎を提供する。(『ナラティヴ実践地図』pp.225)」
つまり、近代的権力の様々な規律・訓練を通して、私たちは、自分の身体を標準と照らし合わせて、自分がどのくらい理性的で自律的な個人であるかを自己監視するように仕向けられてきたということ、そして、そうした標準化がいきわたった結果、誰もが、自分の逸脱をひそかに経験し、自分がいかに無能力で不適格であるかを思い知ることができてしまう可能性を持つ、そんな潜在的な装置ができてしまっているということだろう。
ここで問題となるのは、こうした権力は押し付けられるものではなく、私たちが自ら進んで自己監視に励むような形で、自律的に再生産されて行くような形式となっているということだ。それはつまり、日常的に、当たり前とすら思わずにやっている会話や思考、行動を通して、そうした自己や他者や世界の理解を循環的に生み出しているということだ。
私たちは、悪い成績をとれば気落ちして、感情的になれば反省するということを、もはや自発的に行える。(このことを考える時、「それの何が悪いのか」という話にならないよう、それが良い悪いという次元からはいったん離れて議論を進めていく必要がある。)
私たちが、「怒る」ことでトラブルを起こす人を見たなら、そこには「怒りっぽい」という言葉が当たり前のように出てくるだろうし、自分が人前を苦手とするに悩むときには、「恥ずかしがりや」とか「人見知り」として自分の状態を定義することになる。ここで起きているのは、自分自身を一つの観察や分析の対象として客体化し、個人主義の推奨する標準との差異によって「怒りっぽい」とか「恥ずかしがり」と自分を位置づけているということである。そして当然そこには、科学的な理解様式や、統計などの近代に現れた標準化ツール、分類的なものの見方といった近代的な実践の影響がある。
そして、マイケルが言うには、「問題の外在化実践は、人々やその身体、そしてお互いの「脱客体化」に彼らを従事させる対抗実践と見なすことができる。(『物語としての家族』新訳版 pp.89)」
もちろんそこには既に、問題を外に出すことで取り組みやすくするとか、自分を責めないですむ構造を作り出すとかいう大事な意味があるだろう。しかしもう少し別の思想的な背景のところでは、クライエントが、そしてセラピストが、その人を客体化してしまわない見方を言語のレベルで採用するという意味があるのではないか。マイケル・ホワイトは自分の提案する実践を、度々「解毒剤」という言い方で表現している。個人的にも好きな言い回しだが、外在化実践は、個人主義的、自己の客体化実践への解毒剤なのだ。
ただ、やっぱりここで注意しておきたいのは、マイケル・ホワイトはこれらすべての実践を捨ててしまえとか、全て拒否してしまえとかいうことは全く言っていないし、そんなことは言っていないということをどの本でも強調している。こうした社会状況はある種所与のものであるし、それをただ批判してみたところで、目の前の人との会話には何の意味もなさない。単に批判だけすることを対抗実践とは言わないだろう。むしろ、それを否定することを前提にしてしまったら、また身動きの取れない領域ができてしまうだろうし、手段と目的を取り違えてしまう感じがある。否定するとかではなく、それとは異なる見方を採用しようとしているだけなのだ。
各々の文化が持つ適格性に自分で自分を統制することが当たり前な社会空間の中で、潜在的・顕在的に人を周縁化する力への解毒剤、対抗実践として外在化する会話というものが意味を持つのだろう。
そして、外在化実践は、思想的なレベルに加えて、明らかに言語的なレベルで行われる側面を大きく持っている。ナラティヴ・セラピーは、思想的なものをどのようにして言語のレベルで実現していくかにかなり注意を払っている実践であることは間違いない。日常生活でも、専門的なレベルの話でも、私たちの会話がこのような近代的権力と客体化実践の社会の中にあるということは、私たちの話す言葉の一つ一つ、その隅々にまで、内在化するような言葉遣いや単語が入り込んでいるかもしれないということだ。問題なるものを口にする当事者の言葉はもちろん、専門家やセラピストも例外ではない。むしろ、専門的なタームというのは、内在化する言語の最たるものだといえる。だから、言葉に対して非常に注意深くならなければ、おそらくは自然にその言語を使ってしまうだろう。何気ない言葉の一つ一つが、客体化実践を再生産してしまう可能性を考えたとき、もはや自分の言葉に注意深くならないという選択肢はない。
とりあえずここまで考えてきたとき、外在化する会話、という言葉に託されているのは、もはや単に「なにがしかの問題を外在化する」という意味ではない。それでは問題にフォーカスする形でしか外在化する言葉を使うことができない。それは、明確に問題的なものが見えてきたときに、それを外に出す、という所までは行けるかもしれないが、そのほかのところには届かないかもしれない。自分たちが使う何気ない言葉の一つ一つに気を配っていくならば、その言葉が人を客体化実践に導くニュアンスを含意しないか、問題を再生産してしまうような力に加担していないかを考えなければらない。それはもはや、「問題を外在化する」という局所的な戦略的思考では追い付かない部分のことだろう。だから「問題の外在化」という入口から、その先に「外在化する言葉遣い」とか「外在化する会話」とか「外在化する言語」とか、そういうレベルの話も出てくるのではないかと思う。
マイケル・ホワイトの逐語録を見ていると、一部の文法の話とかではなく、英語と日本語くらいのレベルで、もはや異なる言語として「外在化する言語」を使っているような気がしてくる。
・発達の最近接領域と足場がけへのツール
「責任」「私的行為体」「発達の最近接領域」「足場がけ」あたりの議論は、マイケルの本の中にあるアイディアの中でも好きなものの一つである。このあたりが厚く話さなれているところと言えば、『ナラティヴ実践地図』の第6章「足場作り会話」とか、『ナラティヴ・プラクティス 会話を続けよう」の第7章「責任:暴力加害者男性との仕事」と第8章「外在化と責任」あたりがぱっと思いつく。
このあたりの逐語録で中心になるのは、若者や男性の暴力に関する会話である。そこには、「暴力に対して責任をとろうとしない、責任をとる能力がないとみなされた人」が、マイケルとの会話で、どのようにして自身の行為の責任を引き受けることに誘われていくか、そんな会話を通して成し遂げられる、自分の責任を引き受けるということができるようになるまでの、当人の様々な概念発達のプロセスが描かれている。この議論を読んだりしていると、平木典子先生のアサーションの本で読んだ「責任をとる権利」の話を思い出す。どちらも、責任という概念とどう向き合うことができるのかについての納得させられる話で。別に、何かアクロバット的なことをしているわけではないくらいすとんと腑に落ちるのに、その作業がアクロバット的に見えるのは、世の中で「セキニンヲトル」という言葉がどんなにか訳の分からない形であふれかえっているからなのかもしれない。
外在化の会話というのはここでも、単に「問題を外に置く」以上の意味を持っている気がする。「足場作り」という言葉で述べられているのは、「経験の直接性」「身近な既知のもの」から「距離を漸増させ」、「未知ではあるが知ったりやったりできるもの」へと領域を広げていくことだ。この2つの領域の間のことを、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」の概念にインスパイアされながら議論している。(そういえば、この辺りで出てくる「連想鎖」とか「複合的思考」とかの概念が、数か月前に『会話・協働・ナラティヴ』で出てきたときにはわからず四苦八苦読み返したのが、今回は割とすとんと腑に落ちてきたので、やっぱりいろいろ本を読むというのは大事だなぁと思う。)
このあたりの足場作りの会話は、説明するより逐語録を読んだ方が体感できる(特に、『実践地図』のピーターとトゥルーディーの会話は、「お手本か」とツッコミたくなるくらいきれいな流れが見れる)。簡単にそのプロセスの流れを追うなら、「今起きている問題を経験に近く描写し」、「その影響をマッピングし」、「影響を評価し」、「その評価を正当化する」、という流れである。この4つの会話における質問を具体的に挙げるなら、「今起きていることは、なんて表現したらしっくりくるだろう」「それは、どんな影響をあなたに与えているのだろうか」「その影響は、あなたにとってどんな感じ? OKなのか、そうでないのかとか」「それがOKでないのは、なんでなんだろう」とかだろうか。こうした質問をもとにした会話を通して、「むかつくから殴ったんだ。それだけ」といった、お決まりの表現から離れ、いったい何が起きているのか、それは自分にどんな影響を与えているか、そのことは自分の人生にどう位置づけられるのか、といった、そのことにまつわる、あるいはそこから離れた様々な領域を見て回ることができる場所へと足場を作っていくことがサポートできるようになる。さて、この4つの質問カテゴリーが、外在化する会話でも典型的な4つの質問とパラレルなものだということを理解した時、こうした少し高次の理解は、外在化する会話を、単に「問題を外在化して取り組みやすくする」という入り口の理解から発展させてくれる気がする。
ここで外在化する会話とは、今起きていることを理解するときに、お決まりの表現、既知の理解、経験の直接的な場所からの理解を出て、そのことが自分にとってどんなものであるか、それにどんなスタンスをとるか、それは自分がどんな人生を送りたいからか、あるいはどんな価値観を持っているからか、という場所にまで会話を運んでくれる可能性を持つものになる。外在化する言葉遣いは、今ある理解を少し外において距離をとることにつながるだろう。それは、今まで当たり前としていた表現の地点を当たり前のものでなくすことを通して空白地帯を作りだす。そのギャップに言葉と理解を与えていくことで、会話と理解はさらに発展的なところに進んでいくことになる。こうした会話の在り方もまた、ナラティヴ・セラピーの大きな魅力のひとつな気がする。
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外在化する会話について、なんかこんなようなところはあるんじゃないかと思っている。その理解をちゃんとしておきたいという目的のために、とりあえず自分の思考がまとまればいいという感じで書きなぐったので、なんのこっちゃ読みづらい。ただ、とりあえず現段階で言いたいことは言ったのでいいだろう。
外在化する会話は、こうなってくると、「よっしゃ、ここで外在化の質問使ったろう」という感じではなく、カウンセリングの言葉全てを作り変えていくようなものとなるだろう。もはや異なる言語を習得しようとしているような気がしてくる。NZのカウンセリングコースとかに出ていると、日本語に英語にナラティヴの言語と、3つくらいの言語をやっている気分にさせられる。むしろ、「内在化する言語」も「外在化する言語」も、日本語か英語とかいうレベルでは同じ言語でもある、その感覚をつかむのはさらにややこしいことになってくる気がする。難しくもあり、四苦八苦が楽しくもある。