ナラティブを学んでいる私に起こっていること

時間がたっぷり使える生活を満喫している間にいろいろなことが起きて、箇条書きのメモばかりが増えてしまっています。5月のワークショップで出会ったジェニー・スノードンさんのツリー・オブ・ライフの研修に参加したり、しばらくぶりに相談のお仕事をさせてもらったり、今まで自分が携わってきた分野のことについて少し整理する機会をもらったり、NZにいるメンバーと浩さんの日精研の研修のビデオを見て勉強会をしたり、マイケル・ホワイトの本を読んだり、と、どれも強い影響力を持っていて、この間に私はまたずいぶん違うところまでやってきた気がしています。
綾さんが丁寧にまとめてくれていますが、浩さんの研修ビデオを見た後、ナラティブの実践の中でセラピストの持っている知識や情報をどのような形で表現できるだろうかということや、ナラティブ原理主義的判断に対しての疑いをディスカッションしました。それをきっかけに、私が今まで少しずつ学んでくる中で感じていたもやもやが少しはっきりして、扱える感じになりはじめたので、ちょっと考えを進めてみました。
この頃、ナラティブ・セラピーについて学びながら「ああでもない、こうでもない」と考えが行ったり来たりする感覚をもち始めていました。“結局どういう位置に立っているんだろう…?”というもやもやするのです。ほんの一例ですが、構造主義的な考えに基づくセラピーとは明らかに違うことを考えるけれども、「そうじゃなくてこっちがいいよ」という提示ではない、とか、支配的な権力関係の再生産をセラピーにおいて免除することはないけれども、歴史や文化の権力関係から完全に逃れられるとも思わない、とか。(※あくまで勉強の過程での、“私の考え(理解)”の行ったり来たりです)もっと大雑把で自分に身近な感覚として表現すると、ナラティブの考え方がとてもストイックに見えたり、結構幅広く「それもありだね!」と言っているように見えたりする、という感じです。結論付けることはできないと分かっていながらも、「わからない」ともやもやしたり、自分がどちらかに偏りすぎたと感じて気になったり、いろいろな人の話を聞いて考えがあっちに揺れたりこっちに揺れたりしています。
似たような感覚を、発達障がいについて学ぶ過程でも味わったことがあります。例えば、「自閉症」について、「障がいについてちゃんと理解して特別な配慮をすべきもの」という考えと、「障がいと言っても、何か特別なラインで区切られた別世界のことではない、みんなと変わらない」という考えの間で行ったり来たりしたことがありました。これらのことは、今でも考え続けていることではありますが、以前ほどわからなくてもやもやしたり混乱したりすることは減りました。今は、どちらかを優先的に採用するわけではなく、どちらも同じように同時にもっていられる気がしています。おそらく、実際の人々と知り合うことで、私を行ったり来たりさせたような考えはどれも、同じ人々についてある特定の状況や文脈で切り取って表現しただけのものだと知ったからかもしれません。今、そういうことを考えるときに私がイメージしているのは、たくさんの、とても具体的な人々のことです。そういう具体的な人々は、常にいろいろな(矛盾も含む)関係や文脈の中に生きているように思います。
こうしたふり返りから、私は自分の今の「行ったり来たり」や「もやもや」に対して私の落ち着きを取り戻すアイディアを見つけました。ナラティブを擬人化してしまうのです。私にとっては、「理論」や「心理療法の一つ」というイメージから考えるより、「人」というイメージから考えるほうが、いろんなことが同時に存在して、変化する過程にある柔軟なものと思えるのです。何かアイデンティティのような方向性はあるかもしれないけど、固定的でどんな場面でも一貫していて本質的な定義づけや結論づけができるものじゃないと思えます。ほかのいろんな人(考え方)とつながりながら、そこに存在するその在り方としてイメージできます。人と思うと、ナラティブを習得するとか利用するという感覚からは距離が生じる気がします。また、ただ特徴を理解して判断するだけの対象でもなくなり、逆に、付き合う、結びつく、やりとりする、支えあう、という関係を創る可能性が見えるのです。それは、言葉一つ一つのやり取りや、日々の出来事への反応を知ること、お互いのお互いへの貢献を積み重ねること…という具体的なやりとりのイメージを浮かび上がらせます。そして、そうした経過の中で、少しずつお互いが身近な存在になっていくことや付き合いを続けていくことができるのではないかという将来への期待ももたせてくれます。この擬人化で、私が今まで「理論」や「心理療法」という言葉から当たり前に連想させられていた文脈の影響から少し離れられるのは、かなりポジティブな可能性が広がる気がします。
そんな風に考えていくと、私とナラティブの今の関係についてこんなストーリーが描けるのです。出会った当初は、正直、よくわかんない人…と思ってちょっとスルーしてしまっていました。けれど(幸運なことに)仕事で一緒になる機会が増え、同時に私自身しんどい状況に置かれていたときに、ナラティブが私を支持してくれて、助けてくれました。大変ベタなシチュエーションで、私は恋に落ちたわけです。そして、とうとうナラティブを追いかけてNZまで来てしまいました。彼(または彼女?)のことを「もっと知りたい」と知っていくうちに、今まで見えなかった面も見えてきて(今は優しさよりもストイックな面が気になってしまうのです)、時々「自分は彼にふさわしくないんじゃないか…いや、彼はきっと受け止めてくれる」とか、「もっときれいにならなくちゃ」とか、「こんなことをしたら嫌がられるかしら、こっちのほうが好きかしら」とか、それこそ右往左往しているようです。(それは恋愛の醍醐味でもありますが)
自分の今の「行ったり来たり」や「もやもや」も、恋の始まりにどうしてもそこが気になるのはかわいい乙女心と思うことができます。それはそれで楽しみつつ、それでも、相手の好みばかり気にせず、たくさん話してたくさん具体的な関わりを作っていくことを考えようと思えます。なぜなら、彼の表現はきっと具体的な経験(実践)から生まれてきたものだろうし、それを知らずに言葉に振り回される必要はないと思うからです(金髪が好きと言っても、昔憧れていた人がたまたま金髪だったということだけかもしれないから)。そのうえ、いくら頑張って彼に合わせようとしても、私は彼と全く同じ考え方をする人にはなれないし、彼を「手に入れる」ことも当然できないからです。そういうことを目指したいわけではないのです。
この関係がこれからどうなっていくのかは全く予測できません(あまりにたくさんの可能性が浮かぶから)。危機も来るかもしれません(相手の評価を勝手に気にして引いてしまうとか、自分の話ばかりして相手の言葉が聞けなくなるとか)。けれど、幸いなことに、ナラティブにも私にも仲間はたくさんいるので、1対1で行き詰ることはあまり心配しなくてよさそうです。仲間からは、「最近振り回されてない?」とか「彼そんなつもりじゃなかったと思うよ」とかいうリフレクションも受け取ることができるのです。
なんだかちょっと濃すぎる感じもする表現ですが、このイメージは私が今まで繰り返してきた勉強の仕方に、新しい可能性と変化を与えてくれる気がします。それに、自分がこの関係において今どんなところにいるのかも分かりやすくなる気がするのです。何かができるようになるとか、上手になるとかということだけで自分の取り組みやその価値を測らなくて済むようになる気がするのです。どんな可能性があるか分かりませんが、今は、このアイディアを少し探索してみようと思っています。
長くなってしまいました。浩さんの日精研のビデオについてディスカッションして考えた具体的なことは、また次の機会にまとめます!