アセスメントについて今考えていること 続き

とうとうあと2週間で帰国するという地点まで来ました。時々、「やり残したことは本当にないのか?」などという焦りがかすめますが、そんなものは何回来たってあるに決まっていると思うので、きっと最後まで、今日することは今日考えるという時間の使い方を満喫して暮らすように思います。ただ、ここで過ごしたことがどんなことだったのかということは、ゆっくりでも言葉にしていこうと思っています。

さて、前回の投稿からずいぶん経っていますが、何かどうにか落ち着くところに一区切りつけたいと思うのでアセスメントのことをまた考えようと思います。前回、「問題を特定して解決する」流れにのってアセスメントを発動してしまうことはあまり役に立たないというところまで考えました。それで、「役に立つアセスメントは本当にないのか」とこれまでつらつら考えていたのです。そのために、アセスメントってなんだとか、一つ一つの場面をイメージするとか、いろいろなことを試みていたのですが、かえって分からなくなる状態が続いていました。ふと気づくと、まんまと問題にはまってしまっていたようです。

いろいろと試した末、「問題を特定して解決する」流れに乗らないことを考えていくと、アセスメントが役立つかどうかは問題ではなくなってくるというところへようやくたどり着いたような気がします。後々自分がまた迷ったときのためにも、私がどんなことをぐちゃぐちゃ考えていたのか、少しここでシェアしようと思います。

 

私が「役に立つアセスメントがあるのか」という問いにどうしてもひっかかった背景には、アセスメントの情報を伝えたり診断を受けたりした本人や保護者が「役立った」「安心した」というのを聞いていたからだと思います。たとえば、新しいアイディアが見つかっただとか、何が起きていたのか分かって安心しただとかいう話です。アセスメントのあり方には何となく疑問を感じていながらも、この反応をどんなふうに考えたらいいのか分からなかったのだと思います。

 

私が携わっていたような子どもの発達に関するアセスメントの場面では、基本的に専門家は「手立てのためのアセスメント」をしようと努力します。アセスメントをとって分析したり判断したりするだけでは意味がないとよく言われます。そこで、役に立つ、具体的な手立てや子どもへのかかわり方の提案に結びつくアセスメントを目指そうとしていました。実際に、「子どもへのかかわり方を知りたい」とアセスメントを希望し、提案された手立ての情報を受け取って帰る方も多くいました。これは前回考えたように「問題を特定して解決する」流れの中のアセスメントです。この危険性は前回も考えたようなことですが、このようなやり方が成り立つわけの一つに、本人や保護者が何かしらの手立てについての情報やアイディアを持ち帰る場合があると思います。ただしこれも、しばらく付き合っていくと、こちらの提案が必ずしもその通りに実行されてはおらず、本人なりに違うやり方を見つけ出していることが多いことに気付きます。

このような成立の仕方を擁護しようとするときに一つ浮かぶのは、「具体的な提案そのものは本人なりの工夫が優先されて結局破棄されるものであっても、その工夫やアイディアのきっかけになるような新しい視点や考え方を提案できたのではないか」という説明です。

もしも、アセスメントの目標を「手立て」ではなく「新しい視点や考え方の提案」にシフトするなら、アセスメントは問題解決の流れから離れるのでしょうか。もしかすると、アセスメントを受けた経験を新しい視点に気付けた、アイディアが浮かんだ、と言える人にとってはそうなのかもしれません。けれど、そこに「専門家」が「科学的な根拠に基づいた」アセスメントを提供するという文脈がある限り、その圧力の影響は存在します。この影響を受けずに視点や考え方を広げられる人にとってアセスメントの情報は、たぶん、本やインターネットの情報を得ることとあまり変わらないのではないかと思います。そこに「個別の」という違いがあったとしても、自分にとって必要な情報を必要な形で吸収できるのです。いくらその情報が、専門家が苦労して知識や技術を磨いたうえの高度で詳細なものであっても、本人にとって役立てられるかどうかにはその努力や技術はあまり影響しないように感じます。そして、人と対面して対話をするカウンセリングや相談の仕事を目指すなら、こういうアセスメントがもたらす圧力の影響を受ける人たちのことを考えたいと思います。その場合、前回考察したような事態を考えると、やっぱりこういうアセスメントのあり方はあまり役立たないという結論がやってくるのです。

 

アセスメントや、その視点に基づく判断について保護者と話をするときに、もう一つ起こるのは「そうなんです!(専門家だからやっぱり)わかりますか?」という反応です。時には、まだ本人や保護者から語られていないことまで予測して言い当ててしまい、びっくりされることもあります。特に、これまでどんなに話をしても周りに分かってもらえなかったような不思議な行動や反応についてのエピソードについて、ちゃんと知っていて分かってくれる人がいるというのは、大きな影響を与えるようです。こういうアセスメントの使い方について、「本人や保護者が安心して話ができ、信頼してもらうために大事だ」と教わったこともあります。

自閉症やADHDの診断を受けた子どもたちと関わっていると、彼らの行動や反応が受け入れてもらえない場面が本当に多いことに気付きます。話を聞くより以前の段階で、あり方を否定されるのです。そういう行動や反応があることを知っていること、それについて否定しない、驚かないところから話ができることは、今でも私が大事な前提だと思えることです。しかし、彼らに対してなぜそういう風に応答できるかということについて、アセスメント…つまり、「専門家」の「訓練された特別な」視点によって見通したかのようなイメージで(言葉にしてもしなくても)説明し、それを利用して信頼を得ることは、カウンセラーとクライエントの間の権力関係を増幅させ、クライエントの力を奪うことにつながるのは明らかです(このやり方の限界は次々思いつきました)。そして、最終的には「先生、それで、どうしたらいいんでしょう」という会話になるのです。これも結局、問題を特定して解決する流れに引き込まれていくのです。

私がどうして彼らの行動や反応について驚かず、いくらか知っていることがあるようにふるまえるのかを「アセスメント」と説明するのではなく、ほかの同じような立場(自閉症やADHDと診断を受けた)の人から教わってきたものとしてオープンにすることは、同じような態度をしていてもその意味が少し違ってくる気がします。このことは、透明性であったり、誠実さであったりするかもしれませんが、セラピストとクライエントの関係で閉じられたところを離れ、その間にある力関係とは別のところからクライエントが自分で選び取りたい選択肢にたどり着く可能性を残したやり方に感じます。(当然、それだけでできることではないとも思います。このことを考えるときに、いつも私の頭にはマイケル・ホワイトの「ナラティヴ実践地図」に出てくるAHDをもつジェフリーと彼の両親との、マイケルの会話が浮かびます。この会話は、読み返すたびにいろいろな意味を持って私に響きます。もっと勉強して理解する余地がある気がしています。)

こうした可能性から、私には当事者グループや保護者同士で相談しあうコミュニティ実践のことが思い出されました。同じような立場を経験している人たち同士のコミュニティでは、不思議な行動や反応についてもみんなが体験していて分かりあえます。さらに、押しつける形ではなく、実際にお互いが試したアイディアやその試行錯誤の過程をシェアすることができます。こうした場が、彼らにとって実際に大きな支えになることをいつも実感させられていました。一方で、そうであればこそ、アセスメントへの疑問を感じ始めていた頃の私は、カウンセラーができるのはこういうコミュニティを作ることやそこを紹介することぐらいなのではないだろうかと思うことも度々ありました。そうした思いもあって、NZに来るまでは、カウンセラー以外の職業を選択する可能性も考えていました。しかし、ここでナラティヴ・セラピーに以前よりもたくさん触れる機会を得て、「分かってもらえる喜び」や「具体的なたくさんのアイディア」だけではたどり着くことが難しい地点があることに少しずつ気づき始めています。特に、クライエント体験から私自身が経験したことは、そういう類の地点への旅だったように思います。「わかる」という言葉は強い安心と励ましをもたらすと同時に、自分のオルタナティヴな経験や感覚を覆い隠すことがあります。具体的なアイディアも、役立つと同時に義務感や徒労感を生み出すことがあります。それらをひっくるめて仕方ない、励ましあって頑張るしかない、と思えることやそういう仲間がいることは重要だと思います。けれど、マイケル・ホワイトが言うように、“良い人生とは97%の先導的行為が行き詰った結果であり、問題の多い人生とは98%の先導的行為が行き詰った結果”だとしたら、「分かってもらえる喜び」や「具体的なたくさんのアイディア」の支えで行けるところとは別の場所へたどり着くことを求めてくる人たちについて私は考えたいし、そこに挑戦したいと思うようになりました。

このように考えてくると、私の経験や私が今まで出会ってきた人たちとのつながりが何かしらの信頼感や安心感をもたらすことがあるかもしれなくても、そうしたことに頼って信頼を得る必要はないように感じられます。ここでも、「アセスメント」の出番はすっかりなくなるのです。

 

このあたりまで来て、だいぶ“アセスメントが役に立つかどうか”というところから離れてきたように思うのですが、最後にもう一つ整理しておきたいことが残っています。それは、アセスメントや診断が下りた後の「安心した」「ほっとした」という表現についてのことです。これをいっぺんに書くのは、私もちょっと疲れてきたのと、読む人はもっと疲れただろうと思うので、また「続く…」にして一旦休憩したいと思います。