「生成的な場」をホストするための対話

対話という言葉がいろいろなところで聞かれるようになってきています。ナラティヴ・セラピーを提供するものとして、クライエントと対話してきたつもりです。しかし、対話を目的として対話をしてきたのではありません。

 

このことは、英語を話すことの対比として、考えてみるとわかりやすい気がします。ただ単に英語を使うために英語があるのではなりません。「何か」を話すために、英語を媒体として使うのです。

 

英語を話せるとして、誰かから、何か英語を話してみてよ、と依頼されることを想像してみてください。その時に思うのは、何について話せばいいのか分からないので、うまく話せないということです。「何か」について話すことを想像しないと、英語を使いようがないのです。つまり、英語は、何かを語るために必要であるということです。

 

対話は、「何か」について意味のある、意義のある会話を持つための媒体だということだと思うのです。その「何か」をめぐって、人と人が出会い、人と人の語りを通じて、大切なことが生まれる場が必要とされているのですが、その場のことを「対話」と表現できるのではないかと考えています。

 

実際の会話のやりとりのことだけではないし、ただ話せばいいということでもないのです。事実の再確認、過去の語りの再生産、理論の確認、先生や上司など権力構造の上の人の意図の探り合い、ではないということでしょう。

 

対話という言葉によって意味したいことは、わたしたちは、わたしたちの言葉のやりとりによって、どうしたら、何か新しいもの(意味づけ、意義、価値など)に対する生成的な場を作り上げ、維持できるのだろうかということです。対話が対話としての真価を発揮しているかどうかは、その場が生成的な場になっているか否かによって、見ることができるのでしょう。