人生におけるひとつの悲劇

カウンセラーとして、人の考え方や理解の仕方に触れることが多々あります。このときに、私が切なくなる気持ちになるのは、人生を生きていく時に大切な、ある種の認識様式が十分に見えないことにあります。すこしそのことについて述べたくなっています。

それは、自分にめぐってきている好意、思いやり、配慮について、それが、そのようなものであることを、うまく認識できにくいということです。

私は、相手が押しつけてくる、恩着せがましい行為や、到底感謝できるようなものではない行為について述べているのではありません。叱咤激励の類いでもありません。

よく見聞きする言説に、何事にも感謝するということがあります。この実践にも大切な教訓が含まれている気がしないでもないのですが、ここでは、ものを選ばずに感謝しましょうという話ではありません。

それは、その行為、配慮、思いやりを理解することができたら、ありがたい気持ちになれるようなものについて述べています。

通常、そのようなものは、「配慮してあげている」とか「思いやっている」という説明付きで、自分のもとに届けられるわけではありません。それは、多くの場合、自分には気づかないように、あからさまではないように、おこなわれるものです。

本当の気持ちから配慮や思いやりを提供できる人は、「そのようにしてやってあげているのよ」と恩着せがましくいうことなどしたくないでしょう。

つまり、自分がどれほど配慮されて、今ここにいるのかについては、自分で気づくか、それを気づかせてくれる人が必要となります。

当然のことながら、すべてのことに気づくこともできるわけもないでしょう。ところが、どの範囲で気づけるのかという点において、比較的タップリとある人と、比較的少ない人では、「自分の人生がどのようなものか」という認識に、大きな違いが生じるのではないかと思っています。

自分は、多くの人に支援されている、配慮されているという気づきが多ければ、それだけ、幸せな気持ちになれそうです。一方で、その気づきが少なければ、幸せな気持ちから遠ざかってしまいそうです。

自分に巡ってくる行為や配慮、思いやりというものは、当然のことながら、人によってその量において違いがあるでしょう。しかし、どの程度そのことに気づけるのかという点において、自分が受けていると感じるものの量において、絶対的な違いを生じさせるのではないでしょうか。

このことに気づけないこと、それを、人生における悲劇なのではないかとすら思います。

どうすればいいのでしょうか。私は、カウンセリングの対話において、そのことが気づけるようになって欲しいという願いを持っています。「○○に感謝しなさい」などとは、けっして言いませんが、視点を変え、立ち位置を変えて、見えるようにならないだろうかと、願っている自分がいます。相手の話をしっかりと聞くということは、怠ることはしたくないのですが、このところに取り組みたい自分がいるのです。

英語で、blessという言葉があります。自分が、この人生において、どれだけBlessされているのかと気づくとき、自分の人生の見方が変わると思えるのです。