読了「ドゥルーズの哲学原理」國分功一郎著

ナラティヴ・セラピーの領域において、ジョン・ウィンズレイドがドゥルーズを引用し、検討をしているためどこかで、ドゥルーズのことについて、ある程度理解しておく必要があったため本書を手に取りました。原著から入り込んで迷子になる前に、だいたいに当たりをつけておきたいと思うのです。

結果として、本書によってジョン・ウィンズレイドが引用している視点についての理解を得ることはできませんでした。しかし、今まで社会構成主義のことに取り組んでいて、しっくりしなかったところに対する理解を得られたという点で、実に大切な本でした。

また書籍として、本書は実に素晴らしかったです。考察の深さ、論旨の展開、考察する際に軸とする視点の一貫性など、見事でした。すべてを理解できないのですが、論点がずれていないので、読み続けることによって、理解できるところが確実に増えてきます。

【ディスコースと、非ディスコース的なもの】

さて、ディスコースという視点を理解していくときに、私自身は、ディスコースで扱えないもの、漏れ落ちているものがあるのではないかと考えていたのですが、自分ではそれが何であるのかについて、見いだすこともできませんでした。ただ、ディスコースだけではないだろうと考えていたところがありました。

著者は、ドゥルーズが、フーコーの「監獄の誕生」において、言説的編成と非言語的編成の関係を見いだしていることを述べていきます。それは、フーコーがそのようなことを語っていないのにもかかわらず、ドゥルーズがそのことを執拗に扱っていることに興味を持つのです。

「ドゥルーズには、おそらく、言語内の現実だけでは現実は捕らえられない、言語外の現実に迫らねばならない、という確信がある。フーコーは『監獄の誕生』にいたって、ドゥルーズの確信に到達した。(184頁)」

しかし、これを「言説的編成と非言語的編成」という二元論で論じてはいけないと見なします。この両者に一貫して流れているものがある、それを含めていく必要があるというのです。

「両編成を貫く共通原因とは何か? (中略)ドゥルーズは答える。答えは簡単である。「権力」こそが、その共通原因に他ならない。権力こそは、2つの編成を結びつける「第三の審級」である。(196頁)」

ところが、権力はそれだけでは、「消滅しやすく、未発達で、潜在的なままに留まる」というのです。それをある程度留めておける状態にするためには、「知」が必要となるというのです。フーコーの「権力/知」をこのようにしっかりと説明してくれると、私にも理解できます。

「権力は「諸々の力の関係」と定義される。「権力とは諸々の力の関係であり、あるいはむしろ、あらゆる力の関係は一つの「権力関係」なのである。この権力関係は、しかし、それだけでは「消滅しやすく、未発達で、潜在的なままに留まる」。したがって、権力関係はそれを「統合」する「知」というパートナーを必要とする。たとえば、学校で生徒たちをまとめ上げるには、教育学などの学問知が必要である。或る土地を占領し、利用するには、測量などの技術知が必要である。権力と知の共謀は、フーコーが常に強調していた点である。ドゥルーズは、この対について、権力はしなやかに作用し、様々な「点」を経由するのに対し、知は硬い「形態」を構成する、と述べている。知は、学問や技術として一定のまとまりをもち、伝達や継承が可能なものでなければならない。知は、教科書を作ったり、そのための学科を設けたりする。知は、その意味で、一定期間存続する硬い形態をもつ。それに対し、権力は、たとえば学校一人一人の生徒、工場の一人一人の労働者などといった「点」に対してしなやかに作用する。(199〜200頁)」

【権力を発動させるもの】

ドゥルーズの視点の凄みは、「権力」の先を考えたことにあります。

「権力は行為に働きかける行為であり、それは一定の戦略をもって、一定の目的へと向けて、人間に行為させるものだ。だが、そもそもそのように行為させるという戦略と目的は、どうやって発生し、維持されているのだろうか?(214頁)」

「フーコーは、その装置がどうやって作動しているのかを極めて詳細に分析した。しかし、そもそもこの装置はどうして作動し続けることができるのか?(214頁)」

それを、ドゥルーズは、「欲望」とする。

「つまり、ドゥルーズは「権力」ではなく「欲望」を選択している。欲望という観点から社会を描き出そうとするドゥルーズ=ガタリの試みは、権力の視点よりも先に進み、権力の観点からは不可能である課題を達成しようとするものである。(214頁)」

【エイジェンシー】

ディスコース、あるいは「権力」という視点から眺めるとき、最終的に自分自身の中にある主体性(エイジェンシー)を見いだすことは難しいのです。なぜならば「権力の概念で眺められたとき、人は何かをしているのではなく、何かをさせられているのだから(220頁)」。

ところが、「欲望」という視点から見るとき、あるいは、「欲望」というものの存在を認めるとき、その主体性(エイジェンシー)を見いだすことができるようになります。

「政治哲学の問題は、なぜ、そしてどのようにして人々が何かをさせられるのか、ではない。なぜ、そしてどのようにして人々が進んで何かをしようとするのか、である。(222頁)」

「この問いかけは、次のように言い換えてもよい。なぜ人は自由になることができないのか? いや、なぜ人は自由になろうとしないのか? どうすれば自由を求めることができるようになるのか? これこそが〈政治的ドゥルーズ〉が発する問いなのだ。(222頁)」

長い考察の後で、このような論旨が、心理臨床について言及することで要約されることに、一種の感動、そして、可能性への期待を読み取ることができました。

「つまり、あらゆる場面にようよう可能な抽象的モデルを提唱しない。ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなくここの患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その暫定なる欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。そこから、自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。(222頁)」

今年一番の本でした。おすすめです。