クリフォード・ギアーツの文章の中で、幾度となく引用されている文章があります。
The Western conception of the person as a bounded, unique, more or less integrated motivational and cognitive universe, a dynamic center of awareness, emotion, judgment, and action organized into a distinctive whole and set contrastively both against other such wholes and against its social and natural background, is, however incorrigible it may seem to us, a rather peculiar idea within the context of the world’s cultures.
Geertz, Clifford (1979) “From the Native’s Point of View: On the Nature of Anthropological Understanding”. in: Rabinow, Paul & William M. Sullivan, 1979, Interpretive Social Science. A Reader. Berkeley: University of California Press. pp. 225-242
Geertz, C. (1983). Local knowledge. New York: Basic Books. 梶原景昭・小泉潤二・山下晋司・山下淑美(訳) 1999 ローカル・ノレッジ―解釈人類学論集 (岩波モダンクラシックス) 岩波書店
スティーブン・マディガンの「ナラティヴ・セラピストになる」にもこの箇所が引用されていて、どのように訳すのか結構検討しました。その時の検討については、次のブログでまとめています。
最近、ケネス・ガーゲンの「関係からはじまる――社会構成主義がひらく人間観」を読んでいて、同じ箇所があり、私の訳との違いが興味深かったので並列して並べておきたくなりました。
私の訳は次の通りです。
閉じていて、独特、おおよそ統合された動機と認知を有する存在であり、独自の統一体として社会や自然の背景と対立する、意識、感情、判断、行動の動的な中心と見なす、西洋における人の概念は、決して変化するようには見えないが、世界の文化という文脈から見ると、大変奇妙なものである。
ケネス・ガーゲンの「関係からはじまる――社会構成主義がひらく人間観」では、次のように訳されていました。
個人とは、境界をもつ唯一無二の存在であり、ある程度統合された動機的・認知的な系であり、一つのまとまりをなす意識・感情・判断・行為の動的源泉であって、他の系にも、また背景となる社会や自然にも対置されるものであるという西洋的な人間観は、どれほど根強いものに思われるとしても、世界の文化という文脈においては一つの特殊な考えにすぎない。(邦訳3頁)
自分の訳とは、結構趣が違った訳文になっています。翻訳は興味深いですね。