「監獄の誕生」を読んで(長いまとめ)

 ここ1,2か月くらいで、フーコーの「監獄の誕生」が読んでいた。マイケル・ホワイトの著書を含め、ナラティヴ・セラピーはやはり、多くの思想や哲学、文化人類学といったところからの影響を感じるが、そのもっとも基盤となるところをフーコーに負っていると思う。なので、ちょこちょこと読み進めている。
 監獄の誕生は、フーコーの著書のなかでも有名なところだし、しかもかなりボリュームもある。また、最近、こういった本を読むとき、1回じーっと最後まで読むと、なんとなくわかった感じにもなるが、いまいち全体像がつかめないという所がある。それで、冒頭からざーっと読み返しつつ書いてまとめてみるということをしていて、そうすると、本の全体像や諸々の要素のつながりについてはっきりしてくるところがある(労力が半端ないので、必要な時にしかやらないが)。全部で約34,000字と長いし、あくまで自分用にまとめたにすぎないが、せっかくなので載せてみる。読む人がいるかはおいておいて。
 今回のは「監獄の誕生」をなるべくそれに沿って自分なりにまとめるという形式。ナラティヴ・セラピーとのつながりや考察については、また別に書きたい。

・身体刑の時代から
 「監獄の誕生」は、1757年に行われた一つの極刑についての記述から始まる。それは、火あぶりや車裂き、むち打ちや、身体の切断といった、荒々しい身体刑の時代についてのものである。この身体刑を通して、この時代の処罰がどんなものであり、それが時の権力(当時は一人の君主の権力)や民衆との間でどのような位置を示していたかといった諸側面をフーコーは最初に明らかにしていく。
 この「身体刑」は、多くの民衆を集め、その罪状を読み上げ、盛大に行われる「祭式本位」の形式をとる。フーコーはそこに、ある構図を見て取る。そこで受刑者(法を犯したもの)は、法や秩序を乱したという意味で王、君主に仇なしたものとして現れる。この大掛かりな祭式は、その君主の力を極大の形で示すものである。だからこそ、その様は民衆に見せつけられる可視的なものでなければならない。民衆はそれを通して、王の力とその強大さを見ることになる。受刑者は、自分の犯した罪をなぞるような形で身体に苦痛を負わされる。それは、極刑であっても、殺されるまでに最大限の長い苦痛を与えられ、また死んだ後もその身体をさらされ、人々に身体への直接的な攻撃を意識させる媒介である。犯罪への抑止となるのは、このぞっとするような処罰の光景による。ただし、この身体刑はあくまで法律とともにあるのであり、「法律抜きの極度の凶暴さ」ではないと、フーコーは同時に指摘する。そこには、どのような身体刑を課すかの評価や比較、段階付けといった厳密なプロセスを伴うのであり、「身体刑は一つの技術」なのであった。
 なお同時に、この司法において、王の力は処刑の中断というもう一つの形でも現れ得る。ここで現れる王の力は、つまり法や司法をもしのぐものであり、そのようなことが許される唯一の力として、また君臨するのである。やはり民衆はこの大いなる力を見届けさせられるのである。いずれにしても、君主の力が最高のものとして誇示される。
 一方、王と囚人の関係はどう描かれるだろう。この祭式の中で処罰は、王と王に仇なすものの闘いという形をとるという。そこで処刑人は、王の力の代理として最大限の力をふるうことになる。ただ、ここで読んでいて面白いと思ったのが、それ故に、この代理人は失敗することが許されないということだ。国王側の代表の決闘者なのであるから。そして、もしも万が一、処刑に失敗したとき、代理人が窮地に追いやられるだけでなく、受刑者はその刑を免れさえするのだという。この祭式本位の処刑、身体刑というものは、そうした決闘の側面を持つのである。身体刑を耐え抜いたものは、ある意味では勝者となる。
 また、同じ構造を「自白」と「拷問」の関係にも見て取ることができる。この時期においてどう有罪を判断するか。一つには「証拠調べ」がある。つまり調査である。これは、被告人なしにその真実を打ち立てる作業である。そしてもう一つが「自白」。これは、何の客観性も性質として持たないながらも、証拠の一つとして計上されるものであり、しかしながら「他のいかなる証拠よりも勝れている」。この感覚は、今でも何となくわかる気がする。さて、ここで「自白」もまた、言わば祭式の中に埋め込まれているのがこの時代であった。その際、「自白」を得る一つの手段として「拷問」があるが、これも拷問官がやりたい放題できるというシステムではないらしい。この時代の拷問は、規則に基づいて記号体系化されており、拷問される時間や方法などは、ある慣行に基づいて規定されている。つまり、真実を言うまで永続するようには用いることはできないのである。拷問は、神明裁判や決闘、試罪法とむすびついており、もしもこの拷問に耐えきったならば、それは最上の無罪の証明であり、むしろ裁判官の方が職を辞すことになるのだという。そして、拷問を耐えきったならば、もはや囚人に死刑の宣告はなされなかった。先ほどの身体刑と同じように、ここにも祭式として、決闘の様相が見て取れる。
 身体刑の時代においては、処刑に至る一連のプロセスは、ある意味で記号体系化された、祭式本位の、対決、決闘という華々しい形式において王の力を誇示し傷つけられたことへの報復という形態をとる、といえる。
 ここで、処刑に呼び集められた民衆の役目は2つある。観客として、そして処罰の保証人として。これは、前者が、観客として見る義務を課すという意味であるのに対して、後者は、民衆の側の権利である。民衆は、処刑に立ち会い、それがやましいところなく行われるものであることを見届けるよう請求する権利を一面で持つのである。確かに、決闘において、最大の力が誇示されるなら、それは曇りのある力の振るわれ方であっては、民衆は納得しないだろう。
 しかし同時に、このために、時の権力の側が設定した祭式本位のこの処罰の形式は、民衆の側が単なるその受け取り手ではなく、時に暴動を起こしたり、処刑人を非難したり、被告人を助け出したり、そんな事態を引き起こす余地をはらんでいる。「人々を戦慄させる国王権力のみを明示するはずのこうした処刑のなかには、〈お祭り騒ぎの無礼講〉の一面がそっくり存在していて、それぞれの役割は逆転し、権力者が愚弄され、罪人は英雄視される」(p71)、そんな事態をはらむものだったのである。特に、高い身分のものが不当に軽い刑に処せられるようなときや、下層民という理由で死刑に処せられるようなとき、民衆はその事態に介入してきさえするのである。
 また、処刑の周辺で流布される文書にもこうした両義性が見られる。司法の側は、自身の判断を真なるものとして、その証拠立てや、そこに見出せる道徳性を物語る文書を流布するが、同時に世間には、死刑囚はその最後に罪を償った聖人としてや、あるいは権力に抗った英雄として描くような文書もまた出回ったというのである。
 さて、もう一つ、この時代における「違法行為」というものが、この社会においてどのような位置を占め、認識されていたかということもフーコーは述べている。簡単に言えば、「当時はこの違法行為が、きわめて深く社会に根をおろし、各社階層の生活に極めて必要であった」(p95)のである。つまり、違法ではあるものの、権力側の黙認や、人々の無視される領域があり、あるいは「法を守らせたり、違反者を罰したりが実際には不可能な事態も起こった」という。特に最も不利な社会層の人は、特権を持たない代わりに、そうした周辺部での黙認される部分が生活条件となり、それを守るときには蜂起の構えを見せる場合もあったし、経済的な運動の中で黙認される慣例のようなものもあったようだし、またある社会において居場所を失ったものの折衷案として「放浪」(王令では処罰の対象ではあったが)も許容されていたのである。もちろん、全く侮蔑される犯罪はあるものの、違法行為はこの意味で両義的な位置を占めていたのである。
 ただし、18世紀後半の頃から、富の増加や人口の増加等、社会の変化の中で、犯罪の質や位置づけも変わっていく。例えば、集約農業への移行によって、土地の所有権が厳密になり、曖昧さの中にあった農民層の黙認事項は犯罪と定められ、その反動としてさらに犯罪的な反動が生じるなど。同じような事態は、商業や工業においても生じたようだ。法典により厳密な民衆の取り締まりの要請。その中で「放浪」ももはや、犯罪者の温床と見なされていく。
 このような変化の中で、「処罰」の位置づけが変更される必要が出てくる。それは、様々な違法行為を厳密に記号体系化する必要が出てくるだろうし、その点で従来の慣習的であったり違法行為の黙認が含まれる制度であってはならない。華々しく過剰な力による(が適用には危険も伴う)懲罰ではなく、つまり「無駄と過激さを生み出した例の経済策に替わって、連続性と恒久性が生まれる経済策」(p101)によるものが必要として生じてくる。
 フーコーは、この処罰の改革を、こうした事態に際しての、社会体に適した懲罰の技術、その経済策や技術論を打ち立てる必要性という、そうしたところにこの改革の本質的な存在理由があるだろうと述べる。フーコーが、この社会体の変化からの要請を本質的とし、理屈上の、おそらくは明言されているもののレベルと分けていることは面白い。その水準では、つまり社会契約論が持ち出されたのであり、犯罪者は契約を破ったものとみなされる。先ほどの身体刑の時代、傷つけられたのは君主であり、懲罰は傷つけられた「君主による報復」であるが、ここで、傷つけられたのは社会体となるのである。それに際して、君主の力を見せつける過度な力は処罰には用いられない。むしろ、「《人間的な》処罰」を課すべきという原則が生じる。処罰する権力の新しい経済策が持ち込まれる。
 犯罪とは、社会体に無秩序を及ぼすことであり、悪い見本を放置すればそれは手本となって一般化する可能性がある(この点で、数少ない重大犯罪より、むしろ日常的で軽微な犯罪に焦点が当たる)。そして、見せしめという点で言えば、それは古くからあるものの、この時、新しい経済策の中で、処罰について新しい原則が認識される。まず、罰は犯罪の利益よりも不利益が最小限勝ればいいということ(最小限の量の規則)。また、身体ではなく表象を利用すればいいこと(充分なる観念性の規則)。そして、当の罪人本人よりも、それを見る民衆に効果を持てばいいこと(側面上の効果の規則)。それは、法を犯せば必ず罰せられるという確実さを与えること(完璧な確実さの規則:これにより、「司法の装置は監視機関によって裏打ちされねばならないという観念」(p110)が生まれる)。自白に頼ったり、祭式的な真実の上演に頼るのではなく、証拠により確実な真実が基準となる必要となること(万人に共通な真実の規則:これは、後に出てくる、「証拠調べ」、そして「試験」(診断や検査)へと発展していく規則だろう)。そして、犯罪と懲罰が分類され、そして個々の犯罪者の個別性に応じた「刑罰の個人化」の必要(最も望ましい種別化の規則:個人化も本書で何度も繰り返される主題である)。(最後まで読んでからこのあたりを振り返るとわかるのだが、この刑罰の改革の規則は、のちに述べられる、「監視」「試験」「個人化」という規律・訓練の諸特徴とつながる気がする。ただ、こうした改革者の声よりも、監獄のそれがいきわたるということだから、規律・訓練的な社会に司法が植民地化されていくときの流入点のようなものとして理解したらいいだろうか)。
 また、この「個人化」を契機として、一つ大きな認識の変化が生じてくる。それは、犯罪と処罰という事態に際して、どこに何を見いだしているかということに関するものだろう。以前、犯罪は「行為」であり、その行為自体の性格によって、刑罰が定められていた。しかし、ここで輪郭を見せ始めているのは、犯罪という行為ではなく、犯罪者という個人、その性質や生活・思考の様式といった、個人の性質である。後に心理学的な知が司法に大きな位置を占めるようになることの発端をここに見ることができるだろう。
 さて、ここでフーコーは二つの流れが生じるという。一つは犯罪者の客観化であり、犯罪者は、やがて科学の客体となり、その相関として治療の客体となる。そして、こうした事態に対しての、新しい処罰する権力の再編成である(つまり荒々しい身体刑本位の処罰制度からの移行)。そして、この後者は、〈観念学派〉の既存の言説と結び合わさり、「観念を制御することによる身体の隷属化」(p117)へと向かう。それは、人々の頭の中にある観念の連鎖を作ってしまえば、鉄の鎖がなくとも人々を支配できるという考え。こう対比してよければ、祭式本位の君主の過大な力の誇示は、鉄の鎖であろう。そして、後者は、規律・訓練という技術によって、やがて具体的な形を成していく。

 監獄の誕生は、こうした、ある時代の華々しい身体刑について、そこに生じていた様々な事態を描くところから始まる。まずそれ自体が刑罰の歴史として興味深いが、ここを出発点とし、この論はどこへ向かうかという所はまだ見えない。
 全て読み終えてからこのあたりを振り返ると、それはまず、これから描き出される、規律・訓練的な社会が形成されるその時代の、ひとつ前の人々と権力の関係を描き出している気がする。つまり、これから描き出される歴史の記述の出発点であろう。それと同時に、社会における権力の現れ方、司法との関係(それはのちに監獄を包含する)、人々に対する技術という点で、規律・訓練的な社会のそれと対比を描くことになる。そして、すでにのちに定着していく規律・訓練的な処罰権力とつながっていく点もここに垣間見える。

・改革者たちの思い描いた刑罰の条件
 処罰が身体に対するものでなく、表象に関するものとなったとき、その意味で、刑罰には新しい条件が課せられることになる。それは、言わば刑罰を「おだやか」なものとしていく、ということだ。この刑罰制度の時の改革者(この語、「改革者」という言葉は、このことを指す)たちは、新しい処罰に関するいくつかの条件を設定していった。その条件とは、まず、恣意的でないこと。「懲罰は犯罪を基とすべきであり、法は事態の必然的な成り行きであるかのように見えるべきであり、権力は自然の穏やかな力の陰に姿を隠して作用すべきである」(p125)。
 ついで、処罰が、犯罪への欲望を減少させて刑罰への恐ろしさを増大させるような経済策となること(フーコーは、ある制度や技術、それを取り巻く知と権力がある種の形式で結びつく仕方を説明する際、経済策というメタファーを取っている)。ここで、犯罪はある種の他者の権利の剥奪であるから、犯罪者自身がその自由の剥奪を通してその関心をよみがえらせるという発想が出てくる。
 ただし、同時にここで、処罰が言わば「矯正」という色を帯びることで第三の条件が出てくる。つまり当人が「有徳の人に戻る」という前提で処罰が行使される以上、処罰はそこを目指さなければならないし、それは終期のあるもの、さらに言えば変容が完了すればそれ以上行う必要のないものであるべきだという条件。
 さらに、懲罰は犯罪を犯していない人々を対象とする。これはつまり、懲罰を通して、その社会成員に犯罪をとめるような言説を流布する必要があるわけである。だから、その懲罰はやはり人々に見られる必要がある。その発想の中で、公共土木事業という刑罰が改革者から、一つの刑罰の理想形として提案される。
 この、刑罰の言説の「広報活動」は、以降、「公共道徳に関する教訓・言説」といった形でなされる。人々は刑罰に「君主の現存を見るよりもむしろ、法じたいを読み取るようになる」(p129)。懲罰は市民に対して可視的であるべきで、それが市民教育となるべきということ。
 さて、こうなったとき、かつて犯罪がある意味で雄々しいものとして語られたり、犯罪者を英雄視するような言説は排除されるかもしれない。「言説が法の運び手となるだろう、言説ことは普遍的な再記号体系化を生み出す不変不動の原理だからである」(p132)というわけである。つまり、言説として法がいきわたるとき、それは日常の隅々にまで波及するということだろうか。
 以上の一連の、新しい刑罰の条件の中で刑罰は可視的なものとなり、かつて身体刑が大掛かりな祭式の中で恐怖をばらまいたのと違い、日常の一風景の中で、懲罰を、その教訓・言説を流布する小舞台をいくつも設けることになる。さて、面白いことに、この新しい条件において、本書の主題出る「監獄」はむしろ遠い。それは、一般大衆から隠れてしまう処罰であるし、画一的で各犯罪に対応するものでもない。そして実際、懲罰としての監獄の仕様は時の改革者にはそのように批判され、刑法改革の草案の中にもなかったとフーコーはいう。また、それまでにあった監禁は、あくまで慣習法であり、むしろ身体刑として廃止されるか、刑罰とは差異化されていた。あるいは、監禁は「専制政治の特権的な姿ならびに道具である」(p139)と改革者から弾劾さえされていたのである。今日では、軽から重までの刑罰の中間領域を覆いつくしている拘禁という刑罰の在り方は、この時代には考えつかない。
 しかしながら、奇妙なことが起こる。フーコーによれば、「またたくまに監禁が懲罰の本質的形態となった」(p135)のだ(1810年の刑法典で、死刑と罰金の間の処罰のほとんどが監禁)。フーコーはこのことを問題として設定する。法や刑法という領域で生まれた改革的な動きと全く異なる、むしろ相対するような監獄というものが、しかしなぜかその直後にヨーロッパに広まっていったのはなぜか。

・監禁の歴史のもう一つの系列
 ここでフーコーが参照するのは、処罰としての投獄の見本が古典主義時代において形成されていたということである。その最新の見本がイギリスとアメリカという影響力の強いところにあったために、先の矛盾を超えた監禁の台頭が生じたのではないかと。フーコーはこの歴史を追い始める。
 拘禁施設の見本の最古のものは1596年に創設されたアムステルダムの〈研磨の獄舎〉であるという。犯罪者と未成年の犯罪者に充てられていたそこには3つの主要な原則がある。一つは、刑期を被監禁者の行いに応じて、ある範囲内で行政機関が決定できる(司法機関でなく)。二つ目に、労働を義務とすること。三つ目に「厳しい時間割、禁止や義務の体系的な諸事項、絶えざる監視、激励、宗教中心の読書など、「前へ導き、悪から遠ざける」ための一連の措置が、被監禁者の日常を規制していた」(p141)こと。
 フーコーはつまり、ここにある「絶え間のない訓練による、教育面と宗教面における個々人の作り替えという、十六世紀独特の理論と、他方、十八世紀後半期に想定されていた罪人帖地懲治技術(行刑技術)との結び目をなしている」(p141)と考える。この時に生まれた発想や技術は、後の監禁制度に結び合わさっていく。
 まずゲントの牢獄(おそらくベルギー)における、経済中心の人間(ホモ・エコノミクス)の復興。犯罪者は労働者ではなく「物乞いに熱心な遊び人」という調査結果によって、労働中心の普遍的教育法を実施するという考え。その際、刑期はやはり矯正の必要な分だけということになる。
 この労働の原則に、「独居」が矯正の本質的条件として加えられる。1775年イギリスのハーンウェイがその図式を示し、消極的理由としては被監禁者同時の脱出や悪い例となること、将来の共謀の可能性を消し去ることをあげ、さらにより積極的な理由として、独居は「自身の良心の底で善の声を再発見する」(p143)ための自己反省のための技術として位置づけられる。道徳主体の諸要請。それは、キリスト教の修道生活における独房生活を道具として採用し、宗教的良心を再建しようとする道具として現れる。イギリスでは、(アメリカ合衆国独立によって妨げられた)流刑の代わりに、こうした一般原則に基づいた監禁が市民法に流入する。
 アメリカのウォルナットストリート監獄もこうした見本を真似ていた。特にここでの特色は、刑罰非公開の原理であり、「監獄の壁のむこう側で被監禁者が自らの刑をはたしているという、この確信だけで見せしめは十分に作り上げられなければならない」(p145)。そしてもう一つ、ここで監視に関する技術の展開を見ることができる。囚人の更生によって調整される刑期という性質上、被監禁者は監禁の間ずっと監視され、その行状はノートに取られ、この性質の上で囚人は四つの階級に分けられる。ここにフーコーはある一つの契機を見て取るようだ。それは「個々人の知の形成について」。個々人を監視し、記録し、配置する、そのような「個人分化の一つの知全体が組織化される」場所として、監獄は知の一つの装置として機能する。

・「改革者」と「矯正施設」の方法の近似と相違
 さて、こうした刑罰の二つの系列(一つは身体刑の改革者、もう一つは矯正施設の系列)において、いくつかの近似点が見られる。第一に、処罰は、ある犯罪の消滅ではなく再発防止という、未来に振り分けられるという点(処罰の時間上の反転)。そのために、処罰は罪人を作り替えるという目的を持ち、矯正技術を含むというもの。また、そのために、刑罰を囚人の個人的性格に合わせて調整しようとする点。
 一方で、その個人への接近手段という方法の面で、相違が生じてくる。改革者たちの方法では、さまざまの「表象」を手段とする。まず、個人の利害という表象。犯罪は処罰という観念に、犯罪の利得は懲罰の不利益という観念同士で結びつけられる。公共土木事業に従事する犯罪者は、市民に見られる際、そうした表象を映し出す。また、矯正とは、法主体の個人の再規定となる。
 しかし、矯正施設はこの点で全く異なる。刑罰の適用地点は「身体であり、時間であり、毎日の動作と行動であり、さらに精神、ただし習慣の座である範囲の精神である」(p149)。それらは、強制権の諸形式として、つまり拘束であり、訓練として作用する。また、この強制技術によって再構成されるのは、法的主体ではなく「服従する主体であり、習慣や規則や命令への服従を強制される個人であり、個人のまわりで個人に対してたえず働きかける、しかも個人としては自分の中で自動的に機能するままに放置しておかねばならない或る権威である」(p149)。
 つまり、この時代に、3つのモデルが出会う。一つは、古い君主権力による、力と烙印と儀式として、罪人を「打ち負かされた敵」、身体刑に付される身体と捉えるモデル。一つは、社会体において、表徴と表象によって、罪人を再規定の途上にある法的主体、その表象が操作される精神を目がけるモデル。そしてもう一つが、管理装置として、訓練を方法として、罪人を服従せしめられる個人、訓育を受ける身体と見なすモデル。フーコーはその3つは、もはや法理論や道徳といった同一次元に還元することも、ある制度に同居させることもできないという。しかし歴史的に明らかなのは、第三のモデルが選び取られたということ。「したがって問題はこう設定される。いかにして第三番目が最終的には圧倒的なものになるにいたったか」(p152)。

・フーコーの分析と記述の展開について
 少し論を先取りしたい。この後、フーコーは、規律・訓練が言わば醸成されていく歴史的プロセスと、そこで確立されていった技術についてみていくわけだが、展開としてはやや唐突な感がある。読み直さないと、本全体の構造がいまいちわからなかった。だって、この記述が先ほどの問いにどうこたえるのかという所まで行くのは100ページほど後のことである。それと、先ほどの、なぜ第三のモデルが最終的に選び取られたかという問いについて、「こういう理由です」といったたぐいの、シンプルな理論的な理由を求めながらこの論を読み進めると、恐らくは誤読するというか、一層混乱する。これは、おそらくフーコーの歴史的分析の特徴でもあるのだが。
 せっかくなので、少しこの点をメタファー的に考えてみたい。ある人がある人と結婚したときに、「なぜ結婚したのか」と問うてみる。その時、「優しいから」「お金があったから」「性格が合うから」と理由を述べることは可能だが、恐らくこの記述はフーコーが目指す方向とは異なる。何か単一の(ないし複数の)論理的理由の帰結として、この現象が生じたというレベルでは考えない。フーコー的な問いの立て方では、そこに至る歴史の系列を追っていくことで、この問いに応えようとする。そこでは、偶発的な出来事(たまたま出会った)や、その地点に至るまでの準備としての流れ(家族関係の調整、両者の関係の調整、生活を共にする諸技術の発展)も、その歴史の系列として記述されるだろう。これは、人々の意志や決定を否定することではない。それも、この歴史を織りなす系列の一つとして見られるだろうから。
 フーコーはこの後、規律・訓練が言わば醸成されていく歴史的プロセスと、そこで確立されていった技術についてみていく。それは、この第三のモデルが最終的に圧倒的なものとなる歴史につながる、別の舞台で進行していた歴史なのである(そういう意味では、これはある種の群像劇的な描き方ともいえるかもしれない)。だから、この転換期に拘禁中心の刑罰制度へ移行したのは、ある意味で「すでに他の場所で磨き上げられてきた強制権の機構への招きいれた程度」のものなのであり、突如としてなぜか圧倒的に普及したかに見えた監獄、矯正施設中心の処罰制度の台頭は、明確な理由に還元されるというより、こういってよければ、それまでに積み上げられてきた慣性の力の流れのように説明されるのである(卑近な例で言えば、ピンチにご都合主義的に登場したヒーローが、なぜそのタイミングで登場できるにいたったかを描いた結果、それが特に劇的ではない段階的な展開として説明されるようなものかもしれない)。

・規律・訓練に関する種々の系列
 フーコーはここから、軍隊、兵士といった系列の歴史の説明を始める。それは、従順な身体に関する、規律・訓練の技術が展開した一つの系列である。この領域において、兵士の身体の見方は変化してきた。17世紀初頭、兵士の理想像は、「頑健さや勇気」といった生まれ持った表徴として見られる。しかし18世紀後半、兵士は「造りあげられる」ものとして見なされるようになり、「徐々にではあるが、計画にもとづく拘束が、身体各部にゆきわたり、それらを自由に支配し、身体全体を服従させ、恒久的に取り扱い可能にし、しかも自動的な習慣となって暗黙のうちに残りつづける」(p157)そんなものとなるのである。例えば、直立の姿勢から歩き方まで、事細かに規制され、自身の進退を服従させることで、兵士として造り直されるのである。「古典主義時代には、身体は権力の対象ならびに標的として完全に発見されたのであった」(p158)。
 今回のこの身体への拘束や義務の適用は、取り締まりに関するいくつかの側面で、従来のそれと異なる新しさを持つ。一つには、尺度という点で非常に細部までが規定されること、次いで、その客体(対象)として表彰ではなく身体の運動そのものに目掛けられたこと、最後に、その様相として、絶え間ない恒常的な強制権として行われること。「身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、《規律・訓練 discipline》と名づけうるものである」(p159)。この(これまでも多数実在していた)規律・訓練が、この17,18世紀に支配の一般方式となっていったのである。ただし、その起源を単一のものに還元してはならない。「むしろ、起源のさまざまな、出所もばらばらの、しばしば些細な過程の多種多様な集まりとして理解する必要がある」(p160)。始まりは私立学校、小学校から、次第に軍隊や高等中学校へ、工場などへ及んでいく。

・規律・訓練の空間配分の技術
 この規律・訓練は、個人を配分するという点で、いくつかの技術を使用する。一つには、規律・訓練は、それが行われる閉鎖された場所を要求する「閉鎖の原則」。私立学校、寄宿制度、兵営、工場などである。しかし、閉鎖の原則では不十分であり、規律・訓練を旨とする空間は、その内部における配分の技術を持つ。それは、配分する必要のある身体、要素の分だけに空間を小部分に分割し、そこに一つ一つの要素・身体を配置する「碁盤割りの原則」。これは「個々人の行状の監視と評価と賞罰、その質もしくは長短の測定をたえず可能」(p166)とする。この点で、規律・訓練は「独房」と結びつく。三つ目に、「機能的な位置決定の準則」、つまり、その空間が有意味な機能を果たすように練り上げていくことである。これは、軍隊や港、病院、工場などでそれぞれに異なる意味合いを持つが、取り締まりや人々の行状観察のために、「監視」のための機能的な配分が行われていくことにつながる。そして四つ目に、規律・訓練は、個人を序列の上に位置づけ続けること。例えば、学校において生徒の座席を指定すること、しかも、学力順に並べるような仕方、それも単一の基準というより、性格の良さや勤勉さや両親の社会的位置や、そういった種々の系列の結節点として行われる個人化と配置である。それは「分類本位の視線」を可能とする。規律・訓練は、こうした種々の個人の空間への配分に関する技術を持つのである。
 ちなみに、この配分に関して「表(タブロー)」がある機能を帯びる。表は、それが活用される領域に多様な効果を生むが、規律・訓練における表の作成は「多様性をそれじたいとして取扱い、それを配分し、そこから可能な限り多くの結果を引き出す機能を持つのである」(p172)。つまり、「個のままでの個人の特徴表示と同時に、ある所与の多様性を秩序立てることが可能になる」(p172)。

・規律・訓練の時間使用に伴う一連の技術
 空間の配分の他にも、規律・訓練は様々な技術を持つ。例えば「時間割」。古くからあるこの技術は、しかし次第に時間をさらに細分化していき、しかも、時間の質を確保するための絶え間ない取締り、監視が行っていくようになる。これは、分単位で時間を区切り、授業中や仕事中のおしゃべりを禁止するといった例を出せば十分だろう。そして時間という面でもう一つ、時間と対応させた行為の規定が行われる(「時間面での行為の磨きあげ」)。例えば、軍隊で「速さは小股歩きと並足では一秒とし、早足ではその間に二歩進むものとし、止め足の速さは一秒強とすべし」(p174)のような、身体や身振りと時間との相関である。さらにそこから、「身振りと身体の全面的な姿勢のとの間の最良の関係を強制する」という「身体と身振りの相関」。つまり、ある身振りは、体全体との関係のなかに規定され、「無駄」が排されていく。正しい直立姿勢の強制において、背筋から頭の位置から、手指ののばし方、配置から、前身の所作全体が規定されるのである。それはさらに、自身が取り扱う客体(道具)との関係にまで伸びていく(「身体=客体の有機的配置」)。さて、こうした時間の技術によって、時間使用の原理が変わる(「尽きざる活用」)。つまり、時間というものは、細かく細分化され、整備されることで、最大限の速さで最大限の効果と結びつくようになる。そして、ますますそこには監視の視線が展開され、規制され、一瞬一瞬が秩序ある活動で満たされていくのである(これは、得られる効果という経済的な面で有益だろうが、それを強制される側としては、息が詰まるたまったものではない気がする)。こうした服従強制の技術によって、身体がそのように扱われるようになると、それは権力機構の標的となると同時に、知の新しい形式の対象となる新しい客体としてくみ上げられていく。
 さて、規律・訓練は、言い換えれば訓育に関する技術であり、人々をある方向に変化させるという動きを伴うだろう。例えば、優秀な兵士として、生徒として、労働者としてといった。そうなると、個々人のそうした比較的長い時間についても、技術的介入が行われる。それは、段階的形成として現れる。つまり、そこにある時の流れ(兵士になっていくまでの過程)をいくつかの段階に分割するのだ。しかもその各段階も、またいくつかの段階に分けられていく。それは、教育において、数字の読み、一桁の足し算、引き算、二けたの足し算引き算、一桁の掛け算、など、順々に進んでいく教育課程に見ることができるだろう。個々人はその段階のどこかに配置され、試験を通して次の段階へと進んでいく。ただし、この際生じたもう一つの事態として、単なる個人の進むプロセスとしての段階ではなく、「他の者との比較で区分される個々の生徒の、集団的で果てしのない競争試験」(p186)という色合いを帯びていった例もフーコーは述べている。鍛錬は「悲願を目指して高まるのではない。それは完結が絶対におこらない服従共生を目標にしている」(p186)。
 さて、さらに集団行動という点でも技術が発展する。ここは手短に言おう。つまり、規律・訓練は、人々の身体をある規律に服従させるが、そこには社会にとって易になる方向性があるのであって、それは単に個々人の効力を最大化するだけでなく、集団での力の発揮を最大限にすることの要請にもつながる。だから、個々の身体は他の身体に連結され、また諸段階にある個人の組み合わせによって最大限の効果を生むような配置が行われ、また集団として信号への即座の反応が可能となる身体へと作り変えられるのである(最小限の命令のサインで、即座の行動を可能とする)。こうして練り上げられてきたのは、「規律・訓練を課せられる身体の建築術・解剖学・力学・経済学というわけである」(p191)。

・良き訓育の手段-監視/規格化/試験
 ここで、良い規律・訓練のための(訓育のための)、3つの技術についてフーコーは語る。古典主義時代において、この3つの技術が確立されていった。一つ目は「階層秩序的な監視」。規律・訓練のその成功は、既にここまでで何度か出てきている「監視」の技術によるところが大きい。規律の強制は、視線のある所で発動するものである。例えば、誰もいない深夜の方が、視線を感じる日中よりも我々は信号無視をしやすいだろう。だからこその監視の技術の発展。それは例えば、軍の野営地において、テントの幾何学的配置によって作られる相互に見張る視線の網目。患者の観察を可能ならしめる病院の組織化。軍官学校で各個室に設けられた覗き穴や、ガラス仕切りのアイディア。監視者のための高い台。また、望遠鏡やレンズといった技術は、物理学や宇宙論というアカデミックな意味だけでなく、相手に見られずに相手を見る視線に関する、監視のための諸技術をも提供した。規律・訓練においては、彼らを監視し、評価する必要がある。そこで理想となるのは「唯一の視線だけで何もかもをいつまでも見ることを可能にする」(p201)ような装置である。また、監視人や管理者として、監視の職務が生まれる。しかも、監視者もまた常時監視されるという多層化によって、規律・訓練は階層秩序化された監視の権力となる。しかも、その結果として、この監視は、一つの機械仕掛けとして、半ば自律的に機能することが可能となる。単一の、力ある視点が恣意的にこの権力をふるうのではない。細かな空間の配置と多層化された監視のシステムによって、規律・訓練の機械仕掛けが生まれるのである。
 二つ目に、「規格化をおこなう制裁」。規律・訓練的な組織の中には、ある種の刑罰の機構が機能する。遅刻したら怒られるという馴れ親しんだあの技術。よくよく考えてみると実は奇妙なことに、教育や会社など、それは司法領域ではないにもかかわらず、疑似的な裁判と処罰の制度が含まれるのである。しかも、そこで適用されるのは法ではない。規則に沿わない一切のこと。逸脱というあいまいな領域での処罰が可能となる。例えば、テストの点数が悪くて怒られるという時、それは法を犯したわけでも規則を犯したわけでもない。それは、「所定の水準に達しない」という『罪』なのである。ゆえにここでの処罰の機能は、「逸脱をなくす」というものである。それゆえ、罰は「本質的には矯正感化的でなければならない」(p208)。それ故、その罰とは「訓練」となる(テストの点が悪ければ居残りで勉強させられる)。さて、そして一方ではここで、よくできたものへの「褒賞」も一つの作用として取り組まれる。これが一つのシステムが生じる契機となる。つまり、良い評点と悪い評点という二つの極のスペクトラム上の評価であり、人々はそこに配分される。同時にそれは、そのような数量化を可能とする経済策、技術の導入でもある。ここで一つの転換が起こる、ここで評価とは行為に対する点数ではなく、個人自身の性質や能力、その水準や価値についての差異付与となるのである。しかもこの時、罰されることだけが処罰なのではない。フーコーが「序列それじたいが褒賞もしくは処罰にひとしい」(p210)と述べる点も重要だろう。ようやく「規格化」という言葉の性質が見えてくる。つまりある価値体系に人をたえず置くことによって、ある価値に沿うようにするのである。それは、良い点を取ったとしても免除されるわけではない。また、こうした点数にもとづいて人々はある階層に分類されるが、そこには最低限度の境界を定めるクラス「汚辱のクラス」が設定される。それは、消え去るために存在するクラス。いわゆる『赤点』のような。それは、その領域で、最低限度の境界を設定するのである。「全員に常時圧迫を加えるという効果。全員が相互に似かようようにするためである」(p211)。規格化とは、「比較し差異化し階層秩序化し同質化し排除する」(p211)ことなのだ。規律・訓練を通して出現するのは、規格を旨とする、等質性を強制しながら、絶えず人々の逸脱を測定したり、水準を規定したりしながら、個別化を行う権力である。ちなみに、この規律・訓練の刑罰制度は、一つ一つが法律上の刑罰制度と対立する。にもかかわらず、規律・訓練は、このような多領域でその技術と実践を浸透させつつ、法律的な処罰制度を攻囲していくのである。
 最後に、規律・訓練の手段として「試験」がある。「それは規格化の視線であり、資格付与と分類と処罰を可能にする監視である」(p213)。試験は、個々人を可視化する装置と言えるだろう。この試験とは、検査や診断も含めて、個々人を評点記入する技術と言えばいいだろうか。例えば、この試験(診察や検査)のための施設として病院が組織されるや、回診が儀式化され、医師は訪問者から駐在へ、さらには階層の上位へと移動する。ちなみに、それまで救済施療の場としてメインにいた宗教的スタッフは、看護人として従属的な立場に置かれるようになったという。また学校での試験とはもちろんあの試験のことだが、病院も含め、この試験はある一つの大きな契機となる。それは、各空間を、知の形成の場として組み替えるということである。例えば病院は、検査や診断として、継続的な客体の記述が可能となり、それによって知を構成する場となる。学校も、同じように教育方法の磨き上げの場となる。その意味で、「試験は、権力の行使にあたって可視性という経済策を転倒する」(p216)。つまり、従来の権力、君主が自身の力を見せつける類の権力においては、スポットライトを浴びて可視化されるのは権力者の姿であり、人々がそこに視線を向けるような配置が重要だったが、今や可視化する必要があるのは個々人であり、権力はむしろ人目につかなくてもよくなるのである。「規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する」「規律・訓練における個人を服従共生(臣民化、主体家でもある)の状態に保つのは、実は、たえず見られているという事態、常に見られる可能性があるという事態である」(p216)のである。試験とは、この可視化の儀式である。「今や、際限のない試験ならびに強制的な客体化の時代に入っているわけである」(p218)。
 また「試験」に置いてもう一つ重要なのは、「試験はまた個人性を記録文書の分野の対象にする」(p218)ということである。それはつまり、記録文書が確立されることで、可視化された個々人をしっかりと書き留めておく技術である。これは、各領域で必要に迫られたためであろうというのが一点。しかし、この技術によって、記録文書の累積と系列化が可能となり、分類したり、平均を求めたり、規格を定めたりを可能とする比較中心の分野を組み立てるのである。今や、逸脱について定め、個々人を標定する仕組みがそろうのである。ここで、さらにいくつか重要な指摘がある気がする。それは、こうした記述が、知の分野の中への個人の登場を可能にする、という指摘。規律・訓練という言葉の響きにおいて、人々の個別性は軽視されたり無視されたりするような印象を半ば持つかもしれない。しかし、フーコーによれば、それは技術の発達によって個人個人に視線を向けることを可能にするのである。しかしそれは、個々性が尊重されるとかそういった意味ではないと個人的には感じる。人々を、個人という単位で、記述され標定され測定され他の個人と比較され、訓育されたり分類されたり、規格化されたりする、そうした操作や分析を個人という単位で行うことが可能になるということである。だから、そこで詳細に聴取される個人の記述や生活史的な物語は、かつて英雄の生涯をつづるような調子のそれではなく、「客体化(対象化でもあるが)および服従強制の方式として機能するのである」(p221)。だからここでいう個人化や多様さへの対応とは、おそらく、可視化される側の市民が、もはや雑な単位ではなく、個人ごとに隅々に監視され、記録され、介入される、そうした細かい網目を意味するのである。
 以上が、規律・訓練を置こうなううえでキーとなる方法として描かれた。ここでまたフーコーはいくつか重要な指摘をしている。この規格(ノルム)という視点を持ち出すとき、個人化は、逸脱の強さという形で成される。だから、健康な成人よりも、子供が、狂人が、犯罪非行者が個人化される。しかも、健康な「普通」に近い人を個人化したい場合においても、その記述は、どの程度逸脱しているか、によって記述されるしかないのである。
 そして、フーコーはここで、ポジティヴな権力の作用についても述べるに至る。ここで権力は、知を構成し、人々を客体として構成し、規律・訓練という技術論によって積極的にある現実を作り出していると言える、と。フーコーは指摘する、権力とは、排除や抑制、抑圧、取締り、隠蔽といった否定・消極的な関連でのみ述べてはいけないと。そうではなく「権力は生み出している、現実的なるものを生み出しチエル、客体の領域および真実についての祭式を生み出している。個人、ならびに個人について把握しうる認識はこうした生み出しの仕事に属している」(p223)と(ちなみに、この真実についての祭式というのは、恐らく「試験」のこと)。 

・「ペスト」がもたらした規律・訓練の極
 さて、ようやく、フーコーの仕事として言及される言葉が出てきた気がする。規律・訓練、服従強制、規格化などなど。そして、そろそろ監獄の誕生が引用されるたびに出てくる、一望監視方式(パノプティコン)というあの有名な概念が出てくる。ただ、その前にもう一つの記述がある。それは、「ペスト」がもたらした、都市の空間的な配置や監視方式についての話である。
 ペストが発生した都市で取られる措置として、17世紀末に次のようなものがあったという。まず、その都市の封鎖、さらに各人の家からの外出も禁じられ、違反すれば死刑。各街路には監視者(世話人)がつくが、その監視者も持ち場を離れれば死刑。各人の家の扉は外から施錠され、鍵は地区担当者の管理で、食事は決まった仕方で配給される。「各人はその場に結び付けられる」「巡視はたえず行われること。いたるところで視線が見張る」(p226)。各街路の世話人は、毎日その街路に住む家族全員の生死や病の状態を検分する。当然、詐称すれば死刑。監視されたものは帳簿に記入され、上の階層に報告されていく。この中で、全住民の名簿が完全に作成される。
 重要な文章だと思うので、長いが引用する。「閉鎖され、細分化され、各所で監視されるこの空間、そこでは個々人は固定した場所に組み入れられ、どんな些細な動きも取締られ、あらゆる出来事が記帳され、中断のない書記作業が都市の中枢部と周辺部をつなぎ、権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定され検査されて、生存者、病者、死者にふりわけられる――こうしたすべてが規律・訓練的な装置のまとまりのよいモデルを組立てるのである」「厳重な分割であり、法律違反ではなく、人間の生存の最も細部への、しかも毛細管にも似た権力の運用を確保する完全な階層秩序を媒介とした規則の浸透であり、着用したり外したりする仮面ではなく、個人の《真の》姓名、《真の》位置、《真の》身体、《真の》病状などの各個人への決定である」(p228)。
 つまり、ペストという未曽有の感染症への対応によって、ある都市における規律・訓練的な権力運用が一つの極として実を結ぶのを、フーコーは見たわけである。そして、フーコーは「狂気の歴史」で分析したハンセン病(文中では「癩病」の表記。引用の際はそのまま引用するが、地の文としてはハンセン病で記述する)に対してとられた排除の図式とペストに見られるそれとを比較する。以前、ハンセン病に対してヨーロッパ内で見られた対応は「排除」「大いなる閉じ込め」のモデルであった。つまり、人々を大きく二分し、一方をもう一方の社会の外へ「追放=封じ込め」として行ったということ。しかし、ペストにおいては、二分法ではなくどこまでも個人を追いかけてその個々人を監視し、閉じ込める代わりに規律・訓練を行うという図式がここに見られる。
 しかも、これは単に対比されて終わるのではない。フーコーはここで「徐々に両者の図式が接近するのが見られる」「排除空間へ、規律・訓練的な碁盤割りに特有な権力技術が適用されたのが、十九世紀の特色である」(p230)と述べる。つまり、「正常」に対置された「異常」の図式によってある人々が、ある施設の中に排除されて隔離された後、その排除空間の中では、さらに規律・訓練的な絶え間ない監視と訓育が行われていく。二つの図式が合わさり、そのような図式が発展していくのを見るわけである。

・一望監視装置(パノプティコン)
 監獄の誕生と聞いて、パノプティコンという言葉を連想する人も多いのではないかと思う。フーコーは、ベンサムの考え付いた「一望監視装置(パノプティコン)」を、ここまで述べてきたような規律・訓練の諸形式の、建築学的な形象であるとする。その特徴は、円周上に並べられた独房と中央の監視塔に特徴づけられる。そして、そのほかの細かいいくつかの仕掛けによって、独房に配置された個々人を、監視塔にいるただ一人の監視者が見ることを可能にする。そして最も重要なことは、独房側からは監視塔に人がいるかをよく見ることができないということ。実際に見られているかどうかはわからないが、見られる状態にいることを囚人は知っている。つまり、独房に閉じ込められた個々人は、常に監視されている可能性に包囲されている。
 「その点から生じるのが〈一望監視装置〉の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められるものにうえつけること」(p232)。もはや、実際に監視されているかどうかは問題ではなくなる。「囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、十分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(p232)。
 フーコーは「権力を自動的なものにし、権力を没個人化する」点で、一望監視装置が「重要な装置」であると述べている(p233)。どういうことか。もはや、この装置には、権力の行使者すら必要がない。一望監視装置とは、建築学的な配置によって、現実の監視者、権力の行使者がなくとも、機械仕掛け的に、自動的に、規律・訓練的な権力を行使し続ける。「ある現実的な服従強制が虚構的な〔権力〕関連から機械的に生じる」(p234)。もはや、以上の条件がそろっていれば、鉄格子も鎖も錠前も必要ない。「権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へ――権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知するもの(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任を持ち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる」(p234)。
 テストのカンニングで考えてみる。監視する教師が目の前にいるときは、もちろんカンニングをすることはできない。しかし、教師がそこにいるとき、その教師の目を盗んだり、タイミングを見計らって我々はカンニングという逸脱行為を目指すこともできる。しかし、教師の代わりに、どこを映しているかわからない監視カメラが一台置かれていたらどうだろうか。そのカメラが今自分を向いているかどうかはわからない。向いている可能性だけは常にある。であれば、もうカンニング行為はできない。その人物がカンニングをしようとする意図を持ち込む余地ももはやなく、むしろその人は、不正行為をしないことを自らに課し始める。もしカメラの電源が入っていなかったとしても。巧妙な視線の配置によって、権力の側が課す規律は、被監視者自身が自己監視によって自ら服従するものとなる。
 さらにフーコーは、この一望監視装置を、ペストに襲われた都市と比較することで、一望監視装置の応用性に言及する。一望監視装置は、言ってしまえば建築的、視覚的効果の仕組みに過ぎない技術なのである。故に、この仕組みは多くの施設に応用可能なものである。「応用面ではその施設は多価値的である。囚人の素行を改めさせる役目だけにとどまらず、病者を看護したり、生徒を教育したり、狂人を見張ったり、労働者を監視したり、乞食や無為怠惰なものを働かせたりに役立つ」(p237)。しかも、この技術は、被監視者の数を増やせる一方で、監視者の数を減らすこともできる点で経済的である。あらゆる場所において、どんな機能にも統合され、権力をいきわたらせ、人々をおのずから服従させるこのシステムは、「政治の次元での一種の《コロンブスの卵》でもある」(p238)。しかも、すでに暴力的な機構はこのシステムにおいて必要ない。すべての社会成員が、すべての施設を見学、査察することができるという点で、「規律・訓練の装置は民主的に取り締まられていくだろう」(p239)ともフーコーは述べている。その上、規律・訓練はもともとが、ポジティヴな生産性の増大を目指しているという点で、「社会の諸力を一段と強くすること――生産を増大し、経済を発展し、教育をひろげ、公衆道徳の水準を高める」(p239)のである。フーコーはそこまで明確に言ってはいないが、つまり、一望監視装置をモデルとした規律・訓練の仕組みは、発展を目指す秩序ある社会体という視点において、人々を統御する手段として非常に強力でマッチする装置なのである。
 さて、ベンサムは、ある一つの建築物という、つまりある閉鎖空間における、規律・訓練の一つの究極系のようなものを示した。フーコーはさらに次の展開を問う。「いかにして規律・訓練を《閉じ込めの外に出して》、それを社会体全体のなかで、広く多様に多価値的に機能させうるかを占めることもまた重要である」(p240)。

・規律・訓練的な社会の形成
 規律・訓練について、多領域的な素朴な起源から始まり、多くのものを見てきた。その歴史上の流れを振り返るとき、フーコーはある極からある極への移行を見る。始まりとして「一方の極には封鎖としての規律・訓練が、つまり、周辺部で確立される閉鎖的な仕組みがあり、しかもそれは、悪の阻止、情報伝達の遮断、時間の中断などの消極的機能を完全に目指すのである。反対の極には、一望監視方式を含む機構としての規律・訓練がある」(p241)。つまり、局所的に、ある行為の禁止や阻止といったネガティヴな効果を発揮していた規律・訓練は、この17,18世紀に拡張され、全社会体までをその射程に収めるまでに至った。「概括して名付けうるとすれば規律・訓練的な社会の形成である」(p241)。フーコーによれば、こうした拡張は、規律・訓練についての、もっと深部に起こった変化の一側面に過ぎないという。
 まず、「規律・訓練の諸機能の逆転」。当初の規律・訓練の役割は、どちらかというと、「無為怠惰な者や凶暴な者を一箇所にとどめたり、極端に多数の人々の集まりがもたらす不都合を避けたりすることであった」。例えば、共謀やもめ事につながる囚人同士の交流を禁止したりという。しかし、規律・訓練はポジティヴな効果を持つものとして求められる。それは例えば教育の効果や工場における生産性の向上のように。
 さらに「規律・訓練の諸機構の分散転移」。フーコーによれば、規律・訓練は、制度化を脱し、閉鎖された場所での重々しい形式から、より自由でしなやかな形式として社会の中に不広がっていく傾向を持つという。つまり、ある隔離施設の中だけで機能するのではなく、より社会の中にいきわたっていくようになると言えばいいか。例えば、交番や小規模の病院がいきわたっていくようなと言ったらいいか(もちろん、そういった施設の単純な批判とか、ここでいいたいのはそういうものではないだろう)。あるいは、各種の宗教団体や慈善協会の運動といった形で、あまり形式にとらわれずに、社会体の中にいきわたっていく。
 そして、「規律・訓練の諸機構の国家管理」。それは、治安の仕組み、治安職として、国家は、市民、民衆の些細な細部すべて、「埃のような(細かい、無限に多い、つまらない)出来事・行動・行為・意見――「起こるすべての事柄」」(p245)を取り締まるようになるのである。
 こうして、一望監視方式的なモデルを多様化し、多領域にいきわたりつつ、治安という次元で規律・訓練は国家単位で行われ、しかもそれが、社会における一番小さい単位までを射程に捉える。

・規律・訓練の経済、法律=政治、学問との結びつき
 さて、こうした規律・訓練は、経済、法律=政治、学問というそれぞれの歴史的過程と結びついている。経済的過程については、既に述べてきたところとも重なる気がする。規律・訓練においては、権力の行使における経費はなるべく少なくすることができ、しかもその効果を巧妙な仕方で遠くまでいきわたらせ、効果を増大させる。フーコーによれば、ここには18世紀ごろの「人口動態のつよい圧力」(つまり人口の増加)、「生産装置の増大」(収益性の増大の要請)といった歴史的な要請があったという。つまり、多くの人を管理する必要と、さらにそうした人の力を最大限効率的に活用して収益に結び付ける必要が生じたのである。規律・訓練はこの要請にこたえる技術的側面を持っていたのだろう。
 さらに、法律=政治的過程との関係は奇妙である。何が奇妙かと言えば、語弊を恐れずまとめれば、「規律・訓練は一種の反=法律」(p255)でありながら、しかし法律の中心の社会の在り方の土壌となっているという関係がそこにある。例えば、雇用関係は法律上平等である。しかし、規律・訓練において、そこにある権力関係は明らかに不均衡である。また、法律は、法的主体として人々を平等なものと規定するが、規律・訓練は、人々を分類し、階層秩序化し、特定化する。しかも、法の範囲外でありながら、人を罰したり、何かの資格をはく奪したり、無効化したりさえするのである。しかし、このような相反するものでありながら、今や規律・訓練は、社会の統治に決定的にかかわっているわけである。ちなみに、このあたりから、フーコーの規律・訓練や監獄に対する、現実のどうしようもなさみたいなものを描く言葉が出てくる。「そこから生じるのが、こうした規律・訓練の代わりのものが見出せないにもかかわらずそれを手放す結果にならぬかという心配」(p256)であるという。明らかなおかしさがありながら、しかし、余りにも現実の統治の隅々にまで根を張っているがゆえに、動かないもの。
 最後に学問との結びつき。フーコーによれば、規律・訓練の方式が一般化された中で、「知の形成と権力の増大がある円環的な過程によって規則正しく強化し合う、そうした水準に達している」(p257)という。規律・訓練とその周辺の知の形成(臨床医学、精神医学、種々の心理学や教育学、労働合理化などがあげられている)は、言わば共犯関係ということだろうか。規律・訓練は人々を客体化し、ある方向性の成果を仕向ける。この客体化によって可能となった知の形成(学問)は、その方向性の成果を知という形で保証するだろうし、増大に寄与することもある、おそらくはそんな関係のことではないかと思う。また、フーコーは人間諸科学の歴史的にも、学問が規律・訓練と近い関係にあるという。フーコー曰く「自然科学は部分的には中世末期にこの証拠調べ(アンケート)の実践から生まれた」「この証拠調べが自然諸科学にたいしてもつ関係は、例の規律・訓練上の分析が人間の諸科学に対して持つ関係にひとしいのである。最近一世紀以上ものあいだ、われわれ《人類》が夢中になっているこの人間諸科学はその技術的母体を、規律・訓練およびその探査の、些事にこだわる陰険な精密さの中にもっている」(p259)(ちなみにフーコーは続けて「権力が違えば知も違ってくるのだ」とも述べている)。

・監獄の堅固さの基礎
 ここでフーコーは、監獄、すなわち刑法としての拘禁に立ち返る。まず明らかになったのは、この監獄という形式は、司法装置の外部で、それに先立って存在していたものであるということである(種々の矯正施設として、規律・訓練の場として)。刑法としての監獄の大きな広まりとは、18,9世紀に、「刑罰制度をすでに他の場所で磨きあげられてきた強制権の機構へ招き入れた程度」(p263)のことであり、しかし逆に言えば、規律・訓練の機構が「司法制度をいわば植民地的に支配する契機」(p263)でもあったのである。しかしながら、監獄、刑罰としての拘禁が司法の領域に満ちる一方で、実はそこに様々な矛盾も生じる。そして矛盾が生じつつも、監獄はその地位を維持するという事態が生じるとフーコーは言う。「監獄のあらゆる支障、無駄でなければ危険だという点が人々にわかってくる。だが、その代わりに何をとなると「検討がつ」かない。監獄は忌むべき解決策である、人々にはそれを節約する手立てが見つからないだろうからである」(p264)。フーコーは、「われわれが手放すわけには監獄の《自明の理》」について説明する。
 それは、自分の卑近な言葉で言ってしまえば、監獄は都合がいいのだ、ということだと思う。監獄はまず、「自由の剥奪」という形式を基礎に置く。閉じ込められた時間分、人は自由をはく奪される。これは非常にわかりやすいのである。自由はお金よりも平等主義的な罰として感じ取れる。また、時間(刑期)という非常に計算しやすく正確な数量化も可能であるし、言わば借金を返すような交換の原理として作動でき、人々も了解しやすい。
 加えて、監獄はその役割、機能として矯正、つまり個々人を変容する装置という側面を持つ。このような意味において、監獄は「いささか厳重な兵営、寛大さの欠ける学校、陰鬱な工場だが、極端な場合でも質的な差異は何ら存在しない」(p265)のであり、それらはこの社会に既にあるものでもあるのだから、このコンセプトは非常に自然に受け入れられるということ。この二重の基礎によって、監獄はその堅固さを手に入れたのである。

・「完全で厳格な制度」としての監獄の原則
 ここで、監獄がどのような原則のもとに動いているか、改めてフーコーは記述する。そのいくつかは、規律・訓練の起源となった矯正施設のそれと重なるように思う。第一に、孤立化という原則。ここには様々な側面がある。まず、ひとところに受刑者が集まることで生じる不都合の消去。例えば、陰謀や共謀の阻止のために、人々は孤立化させられる。それは同時に、矯正の一手段としても位置付けられる。孤立した状態において自己反省が起きるというあの考えである。また、フーコーは、孤立化は、規律・訓練の影響力を最大化するということも述べている。「孤立状態こそが、被拘禁者と彼に行使される権力との対話を確保するわけである」。(この点は、カウンセリングについて考えることにも大きな意味がありそうなのでどこかで考えたい)
 原則の二つ目は「労働」である。「孤立化とともに労働は、〔受刑者の〕監禁本位の変容の一つの動因として定義されるわけである」(p272)(つまり、刑法改革者が述べた、一般大衆への見せしめや社会への有益な償いという意味の労働ではない)。ちなみに、この当時、囚人に仕事が確保されているのはおかしいとか、一般人の経済が脅かされるとかいう批判もあったらしい。それに対する当時の政府や管理当局の見解に、労働を矯正とみなす論理を見て取れる。「労働は秩序ならびに規則正しさの本源であり」「興奮動揺や不注意を除去し、階層秩序と監視」といった「労働の論理」を「受刑者の行動の中に組込」むのだということ。つまり労働によって「規則が監獄の中に導入され」「暴力的な手段を用いずともそこを支配」でき、被拘禁者には「秩序と服従の習慣をつけさせる」というわけである。そこにはこんな側面もありそうだ。つまり、仕事をしないものが囚人となり、だからこそ、労働者として人間を組立て直して社会に戻すといったような「個人=機械装置の製造、だがやはりプロレタリアの製造」(このあたりまとめてp275)。
 そして第三に、監獄によって、刑罰の軽重の調整が可能となる点をフーコーは上げている。情状酌量や、その後の行状による刑期の調整などであろう。ここにはいくつかの入り組んだ事情がある。まず、判決時点で刑期が固定されてしまうと、頑張っても頑張らなくても刑期は同じなので矯正という目的が無効化される危険がある。逆に言えば、刑期の調整は矯正という目的に資する。ただし、ここでもう一つの事態が現れる。拘禁施設、つまり監獄は、司法上の審級(裁判と刑の判決といった機構)からは離れた領域にある。監獄の管理者は司法上の審級とは違う領域の者であるから。つまり、刑期の調整といった本来司法の領域にあるものが、規律・訓練施設の管理者に移譲されることになるのである。もちろんこのような論に司法側からの反駁もあるだろうが、フーコーはここで司法に対してけっこう辛辣で、そうした司法側の論理において「大多数の法学者は」「必ず故意の言い落としを行うのである。我々はその原理を〈監禁機構の独立宣言〉と呼びたい」と述べている。

・「法律違反(者)」が「非行(者)」に置換される
 監獄がどのような場かだんだんと分かってきた。フーコーはこの流れの中で、ある置換が行われたと述べる。それを説明するために、別の歴史的流れを追う必要がある。ベンサムの時期と同様の頃、「精神報告」制度の義務化が行われるようになってきた。「つまり、全ての監獄に共通の画一的な見本による個人別の報告」(p283)。これは、行刑上の実務的な意味以上のものを持つ。つまり、そうした検査、観察の蓄積の中で、監獄が「知を組立てる場」として作り変えられるのだということ。その知は、監獄に入れられる者を客体とした知であろうし、その強制技術についての知であろう。それらは一周して監獄をより強固にする。
 さて、ここで先ほどから言っている置換が起こる。こうした知は、犯罪を行うものの「非行性」として知を蓄積し、「非行者」という個人を認識可能にする。そこで個人は「法律違反(者)」ではなく「非行(者)」として構成されるのだ。つまり、判決が下され行刑装置に渡されるまでは「法律違反(者)」としていた個人が、その後「非行(者)」に置換されるのである。
 そこでは、法律云々ではなく、その個人の非行性が探求される。生活史や素質、社会的位置や教育といったものとの間で因果関係が定められるだろうし、それは刑罰という点ではそれに応じた処罰=矯正の裁定を可能にする。当人は、犯行の当人であるにとどまらず、本能、衝動、性格、傾向といった束全体で犯罪に結びついてしまっているものとみなされる。「非行の体系的類型論」(p286)において、非行性は病理学的な逸脱として、客観的な知として構成されていく。
 「行刑技術と非行的人間はいわば双生児である」(p288)とフーコーは言う。つまり、非行性に関する知とそれに対応する行刑技術は、こう言ってよければ一つの(ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム的な意味での)「ゲーム」を打ち立てるということだろうか。そしてフーコーは、「非行性および非行者はこの犯罪司法全体に寄生してしまった」(p289)と述べる。18世紀の改革者たちが思い描いていたのは、犯罪者を以下の2つの形で把握しようというものである。一方では、「社会契約の外にはみ出してしまった道徳上もしくは政治上の《怪物》」として、そしてもう一方では「処罰によって再規定される法的主体」として(p289)。ここでは、あくまでも社会契約や法によって犯罪者が理解されている。しかし、非行という概念において、もはや非行者は法によっては成り立たない。そこにあるのは医学や心理学や犯罪学であり(それらは規律・訓練の権力の装置に依拠して構成された知である)、それは科学のようなもので確固とした一つの足場を提供し「犯罪司法は《真実》の一般的地平の上で機能を果たすことが可能になった」(p289)のである。というよりここでは、なってしまった、というニュアンスの方がしっくりくるかもしれない。

・監獄の失敗の告発から見えてくる監獄の役割
 監獄というものは、もちろんそれ自体の論理を持っていた。特に監獄のわかりやすい正当性は、「矯正」という機能に存するところが大きいだろう。ここまでは監獄の論理を強く見てきたため、それは説得力を持って見える。しかし、実は監獄というのは、ごく初めのころから、その失敗も含めて批判され、しかも同じような形で批判され続けているとフーコーは言う。
 まず、「監獄のおかげで犯罪発生率が減少するわけではない。どんなに監獄を拡張したり増加したり変えたりできても、犯罪ならびに犯罪者の数は一定であるか、もっと困ったことに増加している」(p303)。しかも「拘禁が再犯を生みだすのであり、監獄を出たあとの人間のほうが、その経験のないものよりもそこへまい戻る機会が多い」(p304)。こうした点は、当時の、それこそ統計的なデータを見ると、かなり明瞭にわかるようである。
 加えてより根本的に次の批判がある。「必ずといっていいほど監獄は非行者をつくりだす。そうなるのは、監獄が被拘禁者に行わせている生活様式のせいである」(p304)と。どういうことだろうか。既に述べてきたように、監獄の規律・訓練は法の規定の外で行われるもので、そこで振るわれる力は法外な理不尽のものである。それにさらされた囚人は、当然怒るし、司法自体を非難するというわけである。また、労働の教育的性格を謳おうとも、それは強制労働的なものである。「その意味で、はたして囚人たちは誠実の教訓を受け入れるだろうか。それ以上に彼らはこうした嫌悪すべき搾取の見本によって堕落させられてはいないだろうか」(p305)というわけである。
 結局のところどんなに気を付けようと、監獄は、非行者同士がひとところに集まるという点で、彼らの将来の共謀や連帯の場となってしまうのだという批判もある。また、出所後に課せられる諸条件こそが、再犯を避けがたいものにするという見方もある。ある再犯者は、法廷において、自分は正直な人間に戻りたかったが、囚人という身分のために就職もできず、社会でつまはじきにされ、しかし別の土地へ行くことも禁止され、生きていくために盗みを働いてしまった、と述べた(p306)。また、監獄は、被拘禁者の家族をも貧困状態に落とすために、間接的に非行者をつくりだすという批判。これは、家族の長を失った状況を考えれば容易に想像できる。
 さて、こうした批判の数々に(繰り返し)さらされながら、監獄は自身を維持し続ける。そしてこうした批判に関する応答は、自身の定める監獄の原則の繰り返しの主張という形をとるという。つまり、『監獄作っても全然、囚人の矯正できてないじゃないですか。監獄という制度そのものに問題があるんじゃないんですか』『えー、ですから、そもそも監獄の機能として、しっかりと囚人の矯正にあたっていけるよう、多方面からの見直しと改革を行っていく所存でございます』といった、そんなやり取りを繰り返していると考えたらいいだろうか(遅々として進まない国会答弁のような)。ちなみに、ここで繰り返されるその原則についても再度書かれている(p307~309)が、そのほとんどがこれまで規律・訓練施設や監獄の特徴として述べてきたものと被るのでここでは割愛する。
 さて、ここでフーコーの考察は面白い。それは、なぜ監獄が、このように同様の批判を繰り返されながら、しかし同じような命題を逐次的に繰り返して己を維持してきたかについての考察である。「いわゆる監獄の《失敗》は、したがってその運用の一部分であるのではないか」(p310)。批判者がとり上げる監獄の失敗は、実は失敗というよりも、当の監獄、監禁制度に組み込まれた事象なのではないかということである。

・ある社会階級を法の下に管理する体制へ
 まず、監獄の失敗をも組み込んだ機能とは何なのかについて。この点は、フーコーを直接引用しよう。
 「だが多分、この問題を裏返しにして、いったい監獄の失敗はどんな役に立っているかと問う必要があるに違いない。監獄批判の立場から終始告発される各種の現象、たとえば非行の温存、再犯の誘発、一時的法律違反者の常習的非行者への転化、非行をはぐくむ閉鎖的な環境の設定などは、どんな役に立っているのか、と」「われわれはそこに〔刑罰制度の〕一つの矛盾よりも一つの結果を見ることはできないか。だとすれば次のように想定する必要があろう、監獄は、しかも一般的には多分、懲罰というものは法律違反を除去する役目ではなく、むしろそれらを区別し配分し活用する役目を与えられていると。しかも法律に違反するおそれのある者を従順にすることをそれほど目標にするわけではなく、服従強制の一般的な戦術のなかに法律への違反を計画的に配置しようと企てているのだと。だとすれば刑罰制度とは、違法行為を管理し、不法行為の黙許の限界を示し、ある者には自由な行動の余地を与え、他の者には圧力をかけ、一部の人間を排除し、他の人間を役立たせ、ある人々を無力にし、別の人々から利益を引出す、そうした方法だといえるだろう。要約すれば、刑罰制度はただ単純に違法行為を《抑制する》わけではなく、それらを《差異化し》、それでもって一般的な《経済策》を確保しようとするといえるだろう」(p311)。
 この箇所はしっかりと振り返っておきたい。自分なりにかみ砕きつつ解釈すると、つまり次のような感じだろうか。監獄は、その言明される目的である、収容者の矯正や、それゆえの再犯防止といった役目は、果たしていないとは言わないまでも大局的に二の次なのである。むしろ、この社会の中でより大きな戦術的役割を果たしているのだと。それは、違法行為の管理によって、人々に規範、規格化の基準、逸脱の臨界点を示すこと、さらに社会体にとって生産的で役に立つ人間を、より役立たせ、そうでない者を、社会の周縁部分(施設への収容という意味でも、釈放後の周縁部への追放という意味でも)で無力化し排除すること。つまり、労働は、矯正の手段ではなく、むしろ労働しない者が排除される仕組みにおけるある種の基準であり、また労働の周辺に逸脱の臨界と規範を示すことで、社会に有益なものをさらに労働に従事させるような。こうした一連の機能の中に監獄があるのではないか、ということだろうか。
 フーコーはここで、18世紀から19世紀の展開期において、民衆的な違法行為が新しい規模で展開したと述べる。まず、ある種の政治闘争や労働闘争、次いで、労働搾取に対する社会階級闘争、最後に規制や監視の厳しさに相関して高まる犯罪の機会の増大である。フーコーがここで述べようとしていることはおそらく、より低い社会階級において犯罪を結び付ける視点の増大であり、それに相応して整備される法ということではないだろうか。
 「したがって法は万人の名において万人のために作られていると信ずるのは偽善もしくは世間知らずといえるだろう」「方はすべての市民に義務を課すというのは原則ではあるが主として法は最大多数の、最も啓蒙されざる階級に差し向けられる」「裁判所では社会全体がその成員の一人を裁くのではなく、社会秩序をつかさどる或る社会的範疇が無秩序に身をささげる別の社会的範疇を罰するのである」(p315)。
 この達成には先ほどの置換がおそらくかかわっている。そこでは「違法」といいつつ、「非行性」という形式が認識可能となり強調される。フーコーは、非行性を「それが現す危険さのゆえに刑罰装置が監獄でもって縮小していく必要があるとは考えてはならない」(p316)と述べる。それは拘禁中心の刑罰制度の一つの結果だとフーコーは述べる。監獄は犯罪の減少に失敗している、などという代わりにフーコーは次の仮説を提出する。つまり、監獄は、違法行為を取り扱う際の「非行性」という形式を生みだすこと、法律違反者の代わりに非行者を、病理学的に扱われる主体として生み出すことに成功した、と。こうした「監獄の成功は大きいので、一世紀半にわたるその《失敗》ののちも、あいかわらず監獄は存在し、同じ成果をあげていて、人々は監獄の廃止にはひどいためらいを覚えるのである」(p316)。

・「非行性」の効用
 このように「非行性」という認識がつくりだされたことで、社会体にとっての利点がもたらされる。例えば、それを取り締まることができる。放浪(その中でしばしば社会体を脅かす勢力が生じる)はもはや取締られる。また、規制の圧力によって、彼らを社会の周辺部に固定することができる。これは、彼らから政治的力を減らし、彼らが社会変革というより、むしろ日々の生活の犯罪行為という、政治的・体制的には危険の少ない行為へ彼らの目標を変えさせる。また、フーコーによれば、19世紀には、禁酒や違法薬物、売春といった、法律の禁止事項と関わる領野に非行性を持ち込むことで、それを取り扱い可能なものとして、利益を上げることもできるとか、あるいは非行者を密偵や密告者、おとりといった形で政治的に活用することも、非行性という形式のもたらす効用であったと述べている。
 この非行性による規制の発展は、監獄と警察(治安職)という「一対の装置」によるものだという。一方(治安警察)は、非行性を監視対象の多数の客体の一つとしながら、「住民への全般的な監視」の網目を張り巡らせることを可能とする(p320)。それは、種々の記録や書類システム、探査によって、「非行〔前科〕者自身を媒介にして社会全域の取り締まりが可能になる装置を組立てる」のだということだ。同時にこれは監獄という装置を経由することで機能するものでもあるという。法律はこのシステムにおいて、違法行為を非行性に組み直す、そんな役割に位置づけられる。
 さて、こうした「非行性」の言説、その近くの枠組みを人々に押し付けるために、新聞記事がその道具の一つとなる。「三面記事」において、種々の事件は、こうした形式にもとづいた記事を形成し、人々にそのような非行の知覚を押し付ける。つまり、民衆層に対して、非行者や非行を、一つの線で取り囲んでみせるのである。ただ、一方で、これが全面勝利したわけでもないとフーコーは言う。例えば民衆新聞においては、非行性の原点は「犯罪者個人にではなく(彼は非行性の単に機会もしくは最初の犠牲にほかならない)、社会に定める」といった論調が生じる。あるいは富裕階層における非行の見逃しの告発。「下層民の犯した犯罪の物語のかわりにその記事は、下層民を搾取して厳密な意味で彼らを飢えさせ殺害する連中がどんな悲惨状態に彼らを投げ込んでいるかを記述する」ような「反―三面記事」とでも呼ぶ事態の発生(p328)。フーコーは、ある裁判における裁判官とベアスという被告人のやりとりへの『ラ・ファランジュ』紙の考察を引っ張っているが、そこは二つの異なる社会の(一方には権力の、もう一方には規格化されていない無秩序に身を置く人間の)言葉遣い上に現れるすれ違いが興味深く記述されている。この例は、本書において最も大きな意味を持つものかもしれない。

・メトレー施設に見る監禁的なるものの両面
 最後にフーコーは、「メトレーの少年施設」を、規律・訓練の最も強度な状態における形態として、人間の行動にかんする強制権中心のすべての技術論の集約される見本として持ち出す。そこには、家族モデル、軍隊モデル、仕事場モデル、学校モデル、裁判モデルという、5つの、多様化された規律・訓練が重なり合う強力な形がある。しかも、それは医学や一般的な教育や宗教面の指導といった、他の規制形式とおなり合っている。おそらくは、既に述べた規律・訓練と知の円環的関係。
 さらにここで新しく出てくるのが、管理者、つまり規律・訓練をその施設において行うものもまた、規律・訓練において管理者として規格化されており、さらに言えばその実務自体が規格化される。規格化する技術の規格化。「規律・訓練をめざす技術が一つの《規律・訓練〔=学問〕》になり、それはそれでまた自分の学校を持つわけである」(p342)。フーコーはまた、「人間諸科学の歴史の研究家たちは科学的心理学の出生証明書の日付をこの時期(つまり一八四〇年)に定めようとするのが目につく」と述べる。つまり、こうした流れの中で心理学という、「規律・訓練や規格性や服従強制に関するこうした専門家の出現」が見られるということ。浮かび上がってくるのはつまり、規律・訓練的な規格性にもとづく取締りは、司法や法律だけでなく、医学や精神医学、心理学といった《科学性》の形式にも裏付けられつつ発展したという絵図であろうか。
 しかし、ここまで述べつつフーコーは、このメトレー施設を「不完全な監獄」と述べる。勘違いしてはいけないのは、この不完全というのは、「不当」という意味であるようだ(p343)。なぜなら、メトレー施設は、裁判所で判決を下された者以外をも収容していた、つまり、「正当」な理由なくあるものの都合による監禁をも行っていたからである。刑法の世界の外で行われる監禁の諸領域を指して(あるいは諸施設か)フーコーは「監禁群島」と呼ぶ。
 こうして、フーコーは、監禁的なものが、社会の中の明確に区切られた個所に置かれるのではなく、「監禁連続体」が組み立てられ、それらは法律違反だけでなく、不正や逸脱、異常をも非行性のように含み始めるのを見る。もはや施設である必要もない。社会の諸団体や、行政の枠組みが、規律・訓練的な装置として機能するのだから。

・監禁的なるもののいきわたった社会で
 こうして、監禁の形式は緩和されつつ、その輪を社会全体に広げていく。それがもたらす重大な結果について、最後にフーコーは述べる。
 まず、「人々は無秩序〔=放埓〕から法律違反へ、また反対方向として法律への違反から或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などから逸脱へいわば当然事でもあるかのように移しかえられてしまう」(p345)。例えば、かつては法律違反の次元と宗教上の罪悪の次元と不品行の次元は異なるものとされていたが、それらは規範、逸脱、異常にまとめ上げられ、人々はその連続体の上に置かれる。
 さらに、監禁的なるものに攻囲されたこの社会においては、非行者を、むしろ社会体に取り込み続けることとなる。それは、社会の外に追放したりしない。「自らは一面では排除するかに見えるものをそれは一面では吸上げる」(p347)。
 また、「監禁的なるものは、規律・訓練をおこなう技術的権力を《合法化する》ように、処罰をおこなう法律的権力を《自然なものにする》」(p350)。これまで何度か述べてきたように、規律・訓練における処罰は、言ってしまえば、平等な法主体という観点とは相反するものであった(権力関係を不均衡にする)。しかし、同時に、規律・訓練の技術が、司法を植民地化していった様をもフーコーはすでに描いてきた。法律的なものと規律・訓練的なものが混ぜ合わさる中で、また処罰が矯正技術と合わさる中で、そこで振るわれる力の暴力性や恣意性の匂いは消し去られ、自らを自然かつ受諾されうるものとして受け取らせるのである。
 四つ目に、規格の強調による司法権力の解体。規律・訓練の装置の側が大きくなるにつれて、司法は、そちらに託す判断を大きくする。明確な有罪判決というよりは、治療のための、社会復帰のための、という形式をとる。そして、医者や教育家といった、各領域のものが合わさって、「規格的なるものという普遍性を君臨させ」る(p352)のである。
 また、監禁は、人々を客体化する中で、人間諸科学との間で緊密に結びつけた。「人間諸科学を歴史的に見て存在可能にしたこの権力=知の骨組の一つを、監禁網が構成する。認識されうる人間(精神であれ個性であれ意識であれ行為であれ、この場合それらの区別は重要ではない)とは、こうした分析中心の攻囲の、またこうした支配=観察の、成果=客体なのである」(p352)。
 最後にフーコーが述べるのは、この監獄の「極端な永続性」についてである。つまり、誕生当初から非難されつつ、監獄が維持されつづけてきたこと。そのことをフーコーは以下のように表現する。「監獄は権力上のさまざまな装置や戦略のなかにこんなにもはまりこんでいるからこそ、監獄の変貌を望むような相手には一種の大きな慣性の力で対抗できるのである」(p353)。ここで、慣性の力、という表現は、ため息をつかされるような圧倒的な力をイメージさせる。もはや、合理性や内的論理といった話ではない。表向きの理由の成果に対する批判など、ちょっとしたノイズでしかない。それは社会体のさまざまな権力と結びつき、都合のよさによって根をおろし、深部にまで組み込まれてしまったがゆえに、取り除かれえない質量をもっているかのようである。もし監獄がそれらの批判に要請にこたえるとしても、それは監獄的なものをなくすというよりも、医学や心理学や教育学的な形式へと移っていくことで対応されるだろう。
 「監獄の誕生」の、フーコーの最後の一文を引いて終わりにする。フーコーは、監獄という装置周辺にあるいくつもの歴史の系列を描いて見せ、そこに見いだせる知と権力の構造について示して見せた。時折姿を見せるとはいえ、こうした事態に対して、フーコー自身は自分の立ち位置を明確に述べたりはしていなかった。しかし、最後の一文において、フーコーは自分の声でもって一つの立ち位置を表している気がする。「この〔監禁都市の〕中心部の、しかも中心部に集められた人々こそは複合的な権力諸関係の結果および道具であり、多様な《監禁》装置によって強制服従せしめられた身体ならびに力であり、こうした戦略のそれじたい構成要素たる言語表現にとっての客体なのであって、こうした人々のなかに戦いのとどろきを聞かなければならない」(p356)。