本書は、國分さんが「原子力問題」についておこなった一連の講義(4回分)を書籍化したものです。
本書において、原子力を使うことについて國分さんの立場は明白です。反対ということです。それを、単にあまりにも自明な理由だけで満足せず、哲学が得意とする徹底的なところまで考察し、原子力がどうしてダメなのかということを提示したいようでした。
僕の率直な気持ちとしては、一方で、原子力発電がコスト高であり経済的に割に合わないということさえわかれば、原発に関する議論はもう答えが出たも同然ではないかという気持ちがあります。原発は割に合わない。原発が持つ潜在的な危険性の話をしなくても、もう利用し続ける意味がないことは明白なのです。これをまず最初に確認しておきたい。
ただ他方で、そのことを確認したうえで、やはりもう一歩議論を進めなければならないのではないかという気落ちもあります。というのも、これだけだと、コストが安く済むなら原子力発電をしていいのかという話にもなりかねないからです。
國分功一郎「原子力時代の哲学」20頁
これと同じようなことを講義の半ばでも述べています。
もちろん僕だって死刑反対です。そして、冤罪がありうるからという死刑は廃止にすべきであるという理屈で、ほとんどいいと思っています。同様に原発であれば、核廃棄物がでるしコスト高であるから原発は廃止すべきだ、という議論でほとんどいいと思っています。
ですが、ほとんどいいとは思いますけれど、それで十分かというと何か違う気がするわけです。どこかに、何か考えないようにしている問題があるんじゃないか。このように議論するときに、何か目を背けている問題があるんじゃないか。どうしてもそういう疑問が残ってしまう。何か問題を考えないようにしたまま脱原発の運動を推し進めていくとまずいことにはならないか。
國分功一郎「原子力時代の哲学」165頁
國分さんの考察は、実に興味深く展開していきます。それは、早い時期からこの原子力が孕んでいる問題について気づいた哲学者の考察を参考にしながら、論旨を展開し、願わくば、徹底的なかたちで、人類は原子力を持つことはできないのだということを示したかったのだと思います。
その考察は、直接原子力に対しての賛否両論という形ですすむのではなく、もっと原始的なところで示したいというものだと、理解しました。
ハンナ・アレントなど始まり、ハイデッガーの考察に向かって考察していきます。そして、それを踏まえて、第4講でいよいよ原子力に対する哲学的な考察のまとめをおこないます。
この講義録は、最初から最期まで興味深く、楽しく読ませてもらいました。そして、いろいろと勉強になりました。何より、原子力のような手段を持つことが、徹底的なところでダメなんだということを言い切るのは、これほど難しいことなのだということを知るのは、驚きであり、興味深いところでした。
私は、原子力を持つことができない理由というのは、コストのこと、核廃棄物を処理する術を持てないということで、十分な論拠が示されていると思っていました。これだけ十分な論拠があるにもかかわらず、依然として原子力を推進する人々がいるのは、私の理解を超えているのです。
その上で、第4講の結論的な考察は、やはり不十分だと感じるものでした。國分さんは、原子力信仰というものがあり、それは、次のようなことあるからであると述べます。「贈与を受けない生」がどのようなものであるかについては、是非本書を読んでください。
つまり原子力を求める信仰の根幹にあるのは、「贈与を受けない生」への欲望ということができるでしょう。
國分功一郎「原子力時代の哲学」165頁
なぜ人間は「贈与を受けない生」を欲望してしまうのかについて、フロイトの精神分析の考え方を用いて検討します。
このように見ていくと、原子力がダメなんだという一つの主張を哲学的な考察で言い切ることの難しさがわかります。最終的には、どうして人は大きな危険が伴うのに、原子力を求めていってしまうのかという議論になっていることがわかります。つまり、哲学者の考察で、原子力を持つことに対して徹底的なことを言い切ることができないのです。
これだけの考察力を持っている國分さんであれば、このことに十分気づいているような気がしています。
このことに取り組むことがあまりにも少ない中で、このことに取り組んでくれたことに対して、國分さんに感謝したいと思うと同時に、このことをより展開、発展させることに取り組む哲学者が出てくるのを祈りたいと思います。そして、徹底的な哲学的考察をもって、原子力を持つことに声明を持たせてもらいたいと思うのです。