「アセスメント」について今考えていること

そろそろニュージーランドで過ごす時間も予定の半分を通り過ぎ、帰った後の仕事のことも考えるようになりました。私が今まで身に着けてきたスキル(主に発達についてのアセスメントと対応方法)と、今向かおうとしている方向性とをどんなふうに実践に落とし込んでいくかが結構切実な問題になり始めて、しばらく考えているところです。

日精研の国重浩一さんのビデオカウンセリング講座「ナラティヴ・セラピー入門」を視聴して、さらにそれについてのディスカッションを通して、特にアセスメントのことについて今考えていることを少しまとめます。まだ全く考え途中の内容ですが、とにかく今どこにいるのか自分でも知りたくてまとめます。

ビデオの講座の中で浩さんは「名の話」をしています。この場にビデオで浩さんが説明したことを引用しようかと思いましたが、本と違い、ライブ感のある説明の言葉の一部を抜き出すのは難しいと感じたので、添付のパワーポイントの文言だけ少し引用します。是非、ビデオを見てください。

*「名」は、「そのこと」を想像させてくれると同時に、「そのこと」を限定していく。

*人は、「そのこと」をその歴史や変遷から理解するのではなく、その「名」から「そのこと」が何であるかを作り出す。

*ひとくくりにする描写

一言で要約され、わかったような気持ちにさせられるもの。ナラティヴの用語で「薄い描写」。対をなす用語は「豊かな描写」。

*私たちの「想像力」という問題

・容易に想像できることとは?

・一般的な表現でくくられる状態は、容易に思い浮かべることができる。

・たとえば、「つらい」「くるしい」「悲しい」

・このような描写から、私たちは、その人たちの内面が、「常にそのようである」と、想像してしまうのである。

・簡単な描写から「物語全編」想像できてしまう。

(日精研クラウド学院カウンセリング講座「ナラティヴ・セラピー入門」オンラインテキストより)

こうした名前についての話から私が理解したことの一つに、「名前が付く」ことで良くも悪くも名前をもとにしたストーリーが語れてしまうというものがあります。ここで今の私が一番に思い浮かべるのはアセスメントのことです。自閉症という名前がついてしまうことで、良くも悪くも本人とは別の次元でこだわりのことや過敏性のこと、コミュニケーションのパタンなど自閉症の話をすることが可能になるのです。「発達段階が3歳」という名前が付くだけで、本人がどうかに関わらずいろんな素材を使った遊びや、見立てつもり遊び、体を思い切り使えるような少し長いお散歩や水遊び・泥遊びに取り組もう…と勝手にイメージできることが増えるのです。こういうものが、どんなふうに役に立って、どんなふうに役に立たないんだろうと考えています。

私が知っているたくさんの保護者や保育士さんたちが、こういうアセスメントやそれに伴う情報をよく利用しています。不可解なことがこれで納得できた、とか、「なんで!」「どういうこと?」「私のせいだ…」というパニックから少し距離を置いてよく観察したり話をしたりできるようになった、とか、どうしたらいいかわからなかったけどなんか新しいアイディアがわいてきた、とか、そんな話を聞きます。中には、本人からも「知れてよかった。そうじゃないかと思ってた。」なんていう言葉も聞きます。こういう役立てられた話からは、アセスメントの情報を足掛かりに新しい見方や考え方の発想を得ているという経験や、自分の位置づけが安定したような安心が感じられます。アセスメントを学ぶ際に強調されるのも、こうした結末です。

一方、役立てられなかった話もたくさんあります。アセスメントによって当事者の別の側面が否定されたと感じる人もたくさんいます。逆に、アセスメントを通してしか本人を見られなくなって、専門家に頼りっきりになってしまうこともあります。そして本当によく起きるのは、アセスメントの通りに対応してもうまくいかないことです。そういう事態は、当事者に関わる人に無力感を植え付けたり、アセスメントをする専門家に多大なプレッシャーを与えたりします。私はその専門家の立場だったので、いかに細かく詳細なアセスメントをするかという努力(アセスメントを外さないようにする努力)を強いられることもありました。知的な趣味としての探求という側面の面白さはありましたが、アセスメントが細かくなればなるほど、当事者や当事者に実際に関わる人たちとの距離は開いていくように感じることがありました。こういうアセスメントには、変化や工夫の余地があまりありません。アセスメントを伝える側もできる限り誤解がないように説明する努力が求められ、受け取る側にも自分なりの理解や解釈をする余地があまり許されていないのです。その「名前」がほかのすべてのことを規定してしまいます。そのストーリーから外れることは無視され、時にはできそこなった、失敗したかのように感じさせる支配的なストーリーです。

こういうあまり役に立たないアセスメントには、「科学的」「専門的」という言葉にまつわるディスコースやそれらが隠しもつ権力の構図がひっついているような気がします。「専門家」が「科学的」な根拠をもとに分析した結果には(セラピストもクライエントも)逆らいにくいと感じさせられます。さらに、このひっつきを強力にするものとして、「問題を特定して解決する」という方向性もあるように思います。問題を作り出している原因を特定してそれを解消することで問題を解決するという歴史と伝統のあるストーリーです。

このストーリーで考えていくと、別に難しいアセスメントでなくてもその流れに乗せられる可能性が浮かびます。以前働いていたときに指導されそして自分も取り組んできたことに、相談を聞いて「相手のニーズを探る」というものがありました。「その人のニーズをまずは理解することが大事。ニーズに応じて対応しなければ的外れな支援になる…(ニーズに応じて対応すれば解決できる)」という話です。それで何をしていたかというと、相談に来た人の話を聞いて、「お金が足りなくて困っている」とか「先生とのやり取りが難しいので補助してほしい」とか、その人のニーズに名前を付け、じゃあ生活保護の申請も含めて担当課と一緒に相談していきましょう、とか、学校へ一緒に行って先生も交えて話をしてみましょう、とか、解決策の提案をするのです。中には、そのニーズに対して私たちのところでできることはないので他機関へ紹介します、というものもあります。こういうレベルになってくると、相談する人のほうでもその名前を完全に否定することは少なくなります。けれども、それで何か自分の体験していることが表現されたようにも、十分聞いてもらえたようにも感じられにくいものだと思います。何となく同意して、何となく提案通りにやってみて、一見当初の問題は解決されたようでもまだなんだかすっきりしない…というような。それで足しげく相談に来る人もいれば、「相談ってこんなもんか」とそれ以上頼りにしなくなる人もいます。セラピストの側も、ニーズが特定されるまでは多少頑張って話を聞くかもしれませんが、ニーズが特定されたらあとは相手の話を聞かなくても仕事ができてしまうことになります。そこから後の話は、解決策の提案であれアセスメントの説明であれ、クライエントではなくセラピストの話になっていきます。それは熟達するとほとんど自動的にできてしまうし、誰に対しても同じ話ができるし、それで満足してしまえればずっと同じことを続けていける方法なのかもしれません。

ここまで考えてくると、アセスメントを含め何かの「名前」がつくこと自体よりも、その名前をどんな風につけるのか、どんな文脈で使うのかで役に立つかどうかが変わってきそうな気がしています。「問題を特定して解決する」というストーリーでは、“名前を付けるために”相手の話を聞くことになります。名前がついてしまったら、そのあとは専門家という立場におかれた人が話をし、行動し、責任を負うことになってしまいます。それは、私の経験上、あまり役に立たないなと考えている結末です。ナラティブ・セラピーの方向性は、いろいろな側面(支配的な権力関係を再生産することを良しとしない感覚や、クライエントのオルタナティブなストーリーへの信頼と好奇心、人のアイデンティティや人生をひとくくりにしないこと、何より同じことを繰り返し続けることには関心を持てないこと…といったようなもの)から、述べてきたような「問題を特定して解決する」方向性はたどらないものだというのが今の時点での私の理解です。

ここから、私の考えは二つの道筋に分かれていってしまいました。一つは、アセスメントが役に立つ状況のことをもう少し考えてみたいという方向と、もう一つは私への「問題を特定して解決する」ストーリーの影響力とそこへどうやって抵抗していくかという方向です。自分なりに、この文章の使命の一つとして日精研のビデオカウンセリング講座から学んだことを書くということを意識しているので、それでいうと後者の方向でしっかりまとめないといけないと思っています(ビデオを見て私が意識したことが含まれるので)が、どうしても自分の関心として前者の方から書きたいと思っています。そして、これまでの文量を考えても一回ではまとめきれないと思うので、あと何回か分けて書くと思います。尻切れトンボ感がすごいですが、とりあえずここで一度投稿します。