「人が問題ではなく、問題が問題である」

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大学生や社会人のキャリア支援をしているキャリアカウンセラーの「たく」です。
2年前にニュージーランドでナラティヴ・セラピーを学び「これは身近なものにしてみたい!」と日々、キャリア支援の場で活用してうまくいかずにへこんだり、今まで聴いたことのないような豊かな物語からきてくれた方の劇的な変化を見て、驚いたりの日々です。「日常にナラティヴ・セラピーを!」という想いから、仲間とともに毎月「practice」できる場で実践練習しています。
対人支援者や専門家だけではなく、もっと日々の生活にナラティヴ・セラピーは使えることを実感していて、「市井の人のナラティヴ」の事例共有ができればいいなと思い、日々のちょっとした奮闘などをリアルにかいていきたいと思います。週1回のペースで書いていくこの内容が、誰かの「ナラティヴやってみようかな・・・」という第一歩につながることを願って。
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「人が問題ではなく、問題が問題である」
ナラティヴ・セラピーを学んできて、テクニックよりも何よりも大事だな、と思うのがこの考え方。だからこそ、外在化の会話法があるのでは、なんて思っています。

文章にすると一文、文字数では16文字しかないこの考え方ですが、実際に自分のものにしようと思うと、とてつもなく難しい感覚が、自分を襲ってきます。今までの自分になかったもの、頭では「そうだよな」とわかっているけれど、実際にこれを信じることができるかどうか、は、なかなか難しいです。
電車で足を踏まれたり、疲れて帰ってきたときに家族から「買い物してきてっていったじゃない!」なんて起こられたり、列の割り込みをされたり、仕事の同僚ばかりが目立ったり・・・。
ボクたちの周りにある日常のほんの些細なことでも、むっとしたり、誰かのせいにしてしまうことってありますよね。

ナラティヴ・セラピーを、キャリアカウンセリングや対人支援のセッションの場「だけ」で使うことができるのか。ボクは、そうは思いませんでした。
これを使うためには、普段の生活から「人が問題ではなく、問題が問題である」というスタンスでいることが必要だと。そうなると、今度は別の考えが襲ってきます。
「これは聖人君主でなければ実につかないのでは・・・」と。

そうなんです。日ごろの些細なことで、つい「この人はなんで・・・」と考えてしまうボクは、「問題が問題である」と捉えようとすると、息苦しさを感じ始めました。
うーん、難しい。
いい考えなのは間違いないし、確かに相手の話の豊かさは今までと比べるまでもなく豊かになり、効果も出ている。それでも、自分の息苦しさとともにやらなければいけないものなのか。

不器用なボクは、今でもこの問題と付き合っている感じがあります。理想は「問題が問題である」ということを、24時間まごうことなく信じられること。これがナラティヴ・セラピーを身近にするコツであることは間違いないと思うのですが、その考えは「聖人君主」たる潔白な自分を強要されそうで・・・。

国重さんに何度がいろいろな文脈で伺ったときには納得できるのですが、しばらくすると、この考えがボクのもとにやってきて、息苦しさや「こう考えられない自分はダメだなぁ」なんて言葉をささやいています。自分なりの距離感をつかんでいくための試行錯誤は続きます。
他の人がどうなのか、こういう考えはどうなのか、などなど、会話を続けていくことも、距離感をつかんでいく手助けにもなりそうなので、よければお付き合いいただければ、なんて妄想しています。

そして、「市井の人のナラティヴ」は続いていく・・・。