文学的に優れた治療(「物語としての家族」再読)1

1999年、ニュージーランドのワイカト大学カウンセリング大学院に入学したさいに、読まなければいけない文献として紹介されたので原文に挑戦しました。ところが、何回読んでも理解できないので、その時すでに訳されていた訳書を日本から取り寄せて読みました。ところが、難しいものは、英文だろうが日本語だろうが難しく、翻訳を読んでも分からなかったです。
昨年、訳者の小森康永さんが、新訳版を出版したというので、読みたいと思っていましたが、やっとその機会と時間を作ることができました。
今、できるだけ丁寧に読み返しているのですが、その時に分からなかったことはある程度自分なりに理解できるようになってきているといううれしさと、同時に、このときすでにマイケル・ホワイトとデイヴィッド・エプストンの根底をなす部分はできていたのだという驚きがあります。
そして、自分なりに理解をすすめてきたナラティヴ・セラピーがそれほど外れていないという安堵もあると同時に、分からないなりにかじりついていたことは、自分の理解様式、実践への方向性を形作ってきているのだとう気づきがありました。
本書を読みながら、いまさら、この本の紹介をしたいという気持ちは起きませんでした。今の私は、本の所々の内容が、自分にどのように生きているのか、という形で反応できるのではないかと、思っているところです。実際のところ、どの程度できるのか不明ですが、この路線で筆を進めてみたいと思います。

「はしがき」カール・トム

1.決定的な質問が可能になる

ところで、エプストンとホワイトが開拓し私たちを誘う新しい領域とは、いったい何か? 私の見たところホワイトが始めたもっとも重要な領域の一つは「問題の外在化」である。問題が個人からはっきり区別されるとき、人々と問題の間の相互作用に関するダイナミクスとその方向性を注意深く調べ上げることが可能になり、そこで、決定的な質問が可能になる。(iii-iv頁)

ここで、文章を逆から読んでみたいと思います。
カール・トムが感じている「決定的な質問」を可能とするのは、その人を問題であると見ない、問題は問題であるとみなす区別である、と読むことができます。
ここで「決定的な質問」と表現したことの大きさを私たちは受け取る必要があると思うのです。
料理に例えれば、決定的な素材、決定的な調味料、決定的な調理法などと言えますので、そのことを大きさを理解できる感じがしてきます。
心理療法の文脈において、この「決定的な質問」抜きにしては、たどり着くことができない領域があると、カール・トムは感じたのではないかと想像するのです。その料理の味の決め手がない以上、その味は得がたいということです。

ナラティヴ・セラピーの逐語録を読むと、その結末の意義深さに魅了されます。自分のセラピーでも、クライエントをこのようなところに導きたいと思うのです。
このときに私たちが安易に考える方向性は、その結末を見据えて、その結末をゴールとして、そこにどうやってたどり着くのかということです。つまり、そのゴールは、ナラティヴ・セラピーを勉強しようが、他の技法を勉強しようが、私たちの目指すべきところとして見えてしまいます。ここでの思考法は、ゴールから出発しています。ゴールにたどり着くために必要なものは何か、という思考パターンです。
しかし、ナラティヴ・セラピーにおいては、「問題が個人からはっきり区別されるとき、人々と問題の間の相互作用に関するダイナミクスとその方向性を注意深く調べ上げることが可能になり、そこで、決定的な質問が可能になる」というのです。これは、ゴールや目的から、必要な質問が作られるという姿勢とはまったく異なります。
「問題を個人からはっきり区別する」私たちの姿勢の中から、決定的な質問が生まれてくるということは、私たちが「どのように相手を見るのか」という私たちの認識のあり方が問われているということです。

それでは、その「決定的な質問」とはなんでしょうか?

問題が人々に大きな影響を与えているのか、それとも人々が問題に対してより多く影響を与えているのか?

私はこの質問が伝えようとしている姿勢は、今もなお、ナラティヴ・セラピーの本質的な方向性を示唆していると思います。本文の影響相対化質問法を見ていただければ、より理解できると思います。
会話の中で、この二つの影響を両方ともしっかりと語ってもらうということがナラティヴ・セラピーの目指すところなのでしょう。このことがどのような会話の中でも、意識できるとき、ナラティヴ・セラピーの実践をしているという状態にかなり接近しているのではないかと思えるのです。
重要なスローガンは、往々にして、短いものの、大きな意味を、多重の意味を含んでいます。これが「いったいどのようなことなのか?」というテーマで、ナラティヴ・セラピーに取り組むのも悪くない気がします。

マイケル・ホワイトとデイヴィッド・エプストンの言葉までたどり着くまで時間がかかりそうです。ボチボチ続けます。