文学的に優れた治療(「物語としての家族」再読)2

まだ「はしがき」から出られないでいます。

「はしがき」カール・トム

 

2.知と権力はもつれ合って関係している

ホワイトは、問題が典型的に記述される記述される様式のなかに制圧的効果があるだけではなく、記述する知識そのものの中に構成的で人々を服従させる効果が存在することを明らかにした。
そうする中で彼は、存在論や認識論というすさまじい領域へと突入していった。
人生のこのような側面は日常生活からはかなりかけ離れたところにあるように見え、おそらくはすこし私たちをおじけづかせるだろうけど、私たちは明らかに、いつもそこに根を下ろしている。
たとえば、個人的アイデンティティは、私たちが自身について知っていることの大部分は、私たちが組み込まれている文化実践(記述することやラベルをつけること、分類すること、評価すること、隔離すること、そして排除することなど)によって定義されている。
言葉を使う人間として、事実、私たちは、前提的言語実践と暗黙のうちの社会文化的協働パターンの目に見えない社会「制御」に服従しているのだ。
言い換えると、家族の誰かや友人、隣人、同僚、そして専門家が、ある人をある特定の性格ないし問題を「持つ」人と考えたならば、彼らは、その知識をその人について「遂行すること」によって「権力」をその人に行使していることになる。
つまり、社会領域において、知と権力はもつれ合って関係しているのだ。
(iv頁)改行は引用者が適宜挿入した

私は、この一節の中に詰め込まれた濃厚で、凝縮された含みをどのように反応できるのだろうか。たぶんここの節を理解できるようになることが、マイケル・ホワイトやデイヴィッド・エプストンが目指そうとする、ナラティヴ・セラピーに接近できることになるのだと思う。
それでは、少しずつ、自分なりに言い換えたりして、考えてみてみたい。
まずは、精神科医としてすでに知名度も実績もあったカール・トムをして、「すさまじい領域」と言わしめるほどの存在論や認識論とは何かということに思いを馳せる必要があるだろう。
この段落が「知と権力はもつれ合って関係している」と締めくくられている以上、マイケルがミッシェル・フーコーの業績から得られたことについて言及していると考えるべきである(権力/知)。つまり、フーコーの論旨がすさまじいと言い換えてもいいのだろう。
そのすさまじさとは、私たちが信じて疑わないこと、本当だと思っていること、を木っ端みじんに砕いてしまったことにある気がする。

「フーコーが一貫して立ち返る原点は、真実は存在しない、ただ真実だとする解釈があるのみ、という考えなのです」(Madigan, 2011/邦訳p.43)。

ここでの議論は、私たちとは無縁のところにある学術的な議論でしかないかのように見えて、実は、私たちが日々の生活に無縁のものではないということである。
それは、言葉を使う人間として、「社会制御」、私の訳語を使うとすれば「社会統制」に服従してしまっているいうのである。
何に服従しているのか? それは、人が私について何かを語るとき、その語るという行為が持つパフォーマティヴ性(遂行すること)によって、私に権力を行使していると言うことなのだ。発話(口に出された言葉)を聞くことを防げない以上、その権力の行使に対してなすすべがないということであろう。
確かに私たちは、自分が誰なのかについて「私たちが組み込まれている文化実践(記述することやラベルをつけること、分類すること、評価すること、隔離すること、そして排除することなど)によって定義されている」だろう。この文化実践の外に、私が誰であるのかについて述べる術はない。
ただ、それによって私たちは常に屈するしかないというのだろうか。
ここまでの理解だと、身も蓋もない、希望のかけらさえない話にしかならない。
ところが、フーコーのすごさは、ここから、まるでアクロバットのように、希望への可能性が見えてくる。そこに、ナラティヴ・セラピーがユニーク・アウトカムというものを重要な要素として取り上げることの理論的背景もみえるのだ。
その段落がきたら、そのことを取り上げたいと思う。