alternative oriented

・前置き
ニュージーランドにナラティヴ・セラピーを学びに来てから、これまで日本では会えなかったナラティヴ・セラピストに出会う機会というのができたので、それは大きな刺激になる。
そういう時、その人たちが、おそらくは何気なく言ったであろう言葉が自分の中に共鳴をもたらしてくれることがままある。そのたびに気づきと転換の感覚が起きるので、まったくもってリッチな経験をしていると思う。
そして今回、また自分の中でしみ込んできた、”alternative oriented”という言葉と出会うことができた。

NZのワークショップでも講師で来てくれたドナルドの話をまた聞く機会があって、その時に、こんな感じのことを言っていたのだ。
“We are not problem oriented. We are alternative oriented.” 
英語聞き取りはまだ全然なので、正確かと聞かれると保証はないが、あまり間違ってはいないはずだ。
日本語にするなら、「私たちは問題志向じゃなくて、オルタナティヴ志向だ」という意味だろうか。ただ、日本語にすると、なんとなくニュアンスを取りこぼしてしまう気がする。

心理療法で「〇〇志向」という言葉を聞くと、まず思いつくのは「解決志向アプローチ/solution focused approach」だと思う。そして、これはおそらく従来のアプローチを「問題志向」と対置しての立場の表明だと思う。ただ、focusedは「志向する」というより、焦点をそこにあてるような感じがあって、emotion focused therapyが「感情焦点化療法」と訳されていたのを思い出すと、「焦点化」の方が直訳的にはしっくりくる気がする。少なくとも、orientedとは少し異なるニュアンスはあるだろうと思う。
このニュアンスの違いは結構重要な気がするが、「何の方向を向いているか」という意味で、日本語での「志向」というところにいったんまとめておいて、考えていきたい。それと、「解決志向」というと、ドゥ・シェイザーとかの「Solution Focused Therapy」が思いつくが、とりあえずその理論をまだそこまでよく知らないので、ここでは心理療法としてのSFTとかの意味ではなくて、一般的な言葉のレベルと、そこからイメージした意味での「解決志向」というところでかんがえたい。
・本題

そもそも「問題志向」と「解決志向」という言葉の意味については、自分の理解としてはこんな感じだ。
 問題志向…何が問題で、その原因や性質、維持要因等はなんなのかを明らかにして、その問題の現状理解をもとに解決方法を探していく。
 解決志向…問題の話は置いておいて、思い描くゴール(解決)を先に明らかにして、そこに至るためのステップを探していく。

じゃあナラティヴ・セラピーはいったい何を志向しているんだろう、という疑問が当然わいてくる。……とはいえ、そもそもそういうレイヤーで志向性を規定するということ自体が、ナラティヴ・セラピーっぽくないという気もする。
ただ、固定化する必要もないし、それを注意深く考えてみること自体が有用な気がするので、そういう方向で考えたい。

とりあえず、少なくとも自分の中で育ちつつあるナラティヴ・セラピーの感覚では、「問題志向」も「解決志向」もしっくりこない。そのレイヤーに志向を固定してしまったら、一気にナラティヴ・セラピー感がなくなってしまう気がする。「問題志向」は言うまでもなく、問題自体を志向してしまったら、質問は問題を固定化していく方向に閉じられていき、「さもなくばありえた会話」へたどり着くことは難しくなってしまう。
さりとて、「解決」を志向するのが、ナラティヴっぽいかといわれるとそんなこともない気がする。確かに、「問題をおいておいて解決を志向する」ということがもしも可能であるならば、少なくとも「問題にしばられていた時にすることのできなかった会話」に僕たちは誘われていくだろうと思う。ただ、一方で「解決」というものに縛られたとき、同じく閉じられてしまう「さもなくばありえた会話」があるような気もしてしまうし、それはナラティヴが志向するものとは異なったものとして感じられる。それに、「影響相対化質問」とか、時に問題の周辺をうろうろすることもあるナラティヴ・セラピーの質問実践からすると、それは「問題志向」という形ではないが、問題についての会話もしていくことになる。
似ているなと思うところは、どちらも「問題を志向してしまったときに閉ざされてしまう会話」の可能性を志向しているということだと思う。それによってうまく展開しただろう会話を妄想するに、確かにナラティヴの会話でも見られうる似たような展開も生じる気はする。ただ、ナラティヴ・セラピーにおいては、それは必ずしも「解決」という方向に固定されることはない。それに、むしろ、マイケル・ホワイトなら、その方向の固定化という権力構造によって閉ざされてしまう「さもなくばありえた会話」についても注意深さを持つのではないかと思う。

最近、ナラティヴ・セラピーのデモセッションや、会話記録、ケース報告などに触れさせてもらう機会が以前より増えた。その中での会話の進み方やうろつき方や終わり方は非常にそれぞれだと感じる。話をしに来た人が問題とするものについて、その問題の周辺をうろうろすることは割と多いと思う(ただしそれは、外在化された、人を問題としない聞き方や、影響相対化によってだ)。でもそんなにうろうろしないこともあるし、問題に会話がとどまるようなこともない。会話はあちこちへ行く。
「解決志向」の会話において生じるだろうような、その人が望む状態についての話が出てくるのもみたことがある。ただ、そうした後は、その解決へのステップを考えるよりも、たいていそれについての過去やアイデンティティという方向に向かっていく気がする。その望ましい状態がどんなことを物語るのか、その人が何を大事にしているか、価値を置いているのか、それについてこれまでどんな歴史があったか、そんな方向へ招かれていくのがナラティヴ・セラピーっぽい。あるいは、そうした状態やアイデンティティが発揮された過去の瞬間を探したり、そのことについての関係性(誰がそれを知っているか、誰がそれを教えてくれたのか、誰にそれを伝えただろうか)を探索したりもする。
それらのあと、その望ましい方向に向かうためのステップについての会話がなされることもあるだろう。ただ、その時点で問題というもの自体の見え方が変化して、セッションが終わることもある気がする。そうした時、ナラティヴ・セラピーは、別に「解決」スペクトラムのレイヤーにこだわって会話はしていないような気がする。それと、解決よりも、むしろ会話の中で確かめられてきた自分の好ましい性質について、観衆(アウトサイダー)を増やしたり、リ・メンバリングの方向に向かうことの方が多い気がする。それは、自分の中でその物語のつながりを増やしたり、あるいは他の人の物語とのつながりを増やしていくような方向だ。こんな会話の中では、もはや問題も解決も、あまり関係なく、少なくとも会話の中心からは外れている。そこではむしろ、その人とか、その人のアイデンティティ(伝統的な心理学的な意味ではない)とか、その人の物語の話になる。

それらのセッションは、あまりにもさまざまな領域に足が向かっており、そうした展開については、当初から問題や解決という志向性が念頭に置かれていたら探索の可能性が閉じらてしまう領域のことに見える。あまりに色々なものを包含するので、本当に何かを志向しているのかという気さえする。とはいえ、質問の背景にはセラピストの何らかの考えがあるのだから、もし「志向」という言葉を使うなら、セラピストは何かを志向しているのだろう。いったい何を志向しているのだろうか。
そのことに、「alternative oriented」という言葉が個人的にはしっくりくる。
alternativeが何かといわれると非常に言葉にしづらいが、まだ語られていないもの、これまで語られてこなかったもの、さもなくば探索されなかった領域とか、そういうものについての言葉だと思う。また、マイケル・ホワイトがよく引用する、「absent but implicit(欠落しているもののそこに包含されている)」という言葉もそういうものを表していると思う。ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」について話すとき、その見出しに「既知の身近なものから、人々が知ることができるかもしれないことへ」と書かれていた言葉も印象的だ(『会話・協働・ナラティヴ』pp.231)。そもそも、オルタナティヴという言葉は、「今あるもの」に対する関係性が包含された言葉だとかんがえると、何に対するオルタナティヴなのかということもある気がする。例えば、ドミナントなものに対してのオルタナティヴなものというのはもちろんあるだろう。「好ましい」ものを探すという意味では、今あるものからより好ましいオルタナティヴを探索しているともいえる。薄い記述に対する厚い記述も、ある意味でオルタナティヴなものかもしれない。マイケル・ホワイトの本を読んでいてよく出てくる言葉で「さもなくば」というのを見かける。それが意味するところは、「さもなくばなされなかった会話、見つけられなかった物語」みたいなものだから、やはりオルタナティヴなものだ。
オルタナティヴなものとは、今そこにあるものがなにかによって姿を変えるものだし、発見されて会話されるまではそれが何なのかわからない、可能世界の領域に属するものでもある。だから、オルタナティヴを志向するといったとき、それはある意味ではまだ語られていない多様な方向を指し示しているともいえるし、ある意味では出てくるまで分からない、そもそも志向すること自体ができないものとも言えそうだ。多分、ナラティヴ・セラピーが「志向」しようとしているのはそういう性質のものだ。
だから、そういうオルタナティヴな領域を探索していったときに、もしかしたらオルタナティヴな問題との関係性や、問題の見え方の領域に足を踏み入れることもあるかもしれないし、あるいはオルタナティヴな解決の方向性や、解決というゴールの在り方といった領域に足を踏み入れることはあるかもしれない。しかしそれは、決して最初から問題や解決に固定化された志向性ではない。そもそもそことは関係のないその他の多くの領域へと歩を進めていくかもしれないのだし。
「alternative oriented」とはそういうものではないかと思う。
ここまでこれを書いてきて、この議論が助けになるのは、ナラティヴ・セラピーの会話がどんな類のことを、alternativeというものとの関係でしようとしているかについての記述を増やしてくれるということだと思う。
その会話はたいていの場合、alternativeなものが会話に生まれる余地を作るということから始まるだろう。その人はどうも困っていて、その人が今探索できている領域では好ましい方向を見られないのであれば、ナラティヴ・セラピーではalternativeな方向を探索していきたい。ただ、alternativeを見つけたいけど、それはこちらが決められないし、出てくるまでわからない。だからこそ、厚い記述というものが求められる。薄い記述では、alternativeなものへの隙間や余地がない。厚い記述によって、alternativeな領域への切れ目が生まれる余地・可能性ができる。でも、どの領域でそれが見つかるか分からないから、今厚く記述している別の領域も志向しておかなければならないだろう。
そして、alternative(らしきもの)のかけらを見つけたら、それについての会話をすることができるようになる。そうしたら、今度はそれについての厚い記述がまた大事になるだろう。それがその人にとってどんなものか話される必要があるだろうし、これまで顧みられることのなかったalternativeなものだから、薄い記述ではすぐに流れてしまうからだ。厚い記述によって、alternativeなものが十分な力を持ってきたら、それによって変化が生まれるだろう。この変化を特定的に書くことは、またナラティヴな考えからはずれるだろうが、もしかしたら問題の見え方も変わるかもしれないし、なにかこれまで見えなかったゴールが設定されるのかもしれないし、あるいはその人のアイデンティティ(伝統的な意味ではない)が変化しているかもしれない。そういったものが再著述されていくのだろう。
また、alternativeなものは、さらに周りに流布され、関係性の中でより厚い存在となっていく。つまり、他の人に目撃してもらうということ自体もそうだし、それを通して自分のalternativeな側面が目撃者に影響を与えたということや、目撃者の個人的な物語との共鳴を通した繋がりによってさらに厚くなっていく。リフレクティング・定義的祝祭の中でなされたり、文書実践や、リ・メンバリング実践を通してなされるのは、そういったことだろう。
ある意味で、特定の志向性を持ってしまえないナラティヴな会話においては、迷子になってしまうようなことも多い気がする。最近は、実践に従事できていないということで、いざそうなったらどうしようという、それを怖がる気持ちもあったりする。
ただ、「alternative oriented」という言葉でこんな風に語りなおしてみると、会話における「迷子」というものを、少し違ったものに見ることができそうだ。

今回、「alternative oriented」という言葉はこういう議論を頭の中で行う余地をもたらしてくれて、それによってこれまでできなかった言葉の使い方ができるようになった気がするので、今度会ったらドナルドにお礼を言っていこう。