‘いじめ・暴力に向き合う学校づくり’

’いじめ・暴力に向き合う学校づくり’

早いもので、再来週には「異国で考える学校における子どもの支え方」のセミナーに参加させていただきます。
課題図書である表題の本をお借りして読んでいて、ナラティヴセラピーの態度の本質に、少し触れることができた気がしています。

印象的な文章がありました。「何かを表現するということは、その人の本質的な自己が表れるということではなく、その人がそのナラティヴ(語り)の中で取る立ち位置が作り出されるということだ」。その人の本質的な自己というものが、その人の言動といった表現に現れるわけではなく、あるひとつのナラティヴのストーリーの中での立ち位置が、表現される、と。
そして、問題は、誰かの個人特性に帰属するのではなく、関係パターンから見ていこうとします。
だから、悩んでいる本人とは別の存在として問題を扱おうということになる(外在化)。

これらの考えの根本は、言葉や態度によって主張が表現されたり、問題が発生したりしていても、それはたくさんある中のひとつの現象のひとつの捉え方にすぎず、しかも簡単に変化しうるものだ、という世界の捉え方にあると理解しています。効果があるからそうするのではなく、本気で、上記のように思っているから、外在化したり、他のストーリーを探したりするのだと、改めて思いました。そして、それをどれだけ本気で思えるかどうかが、Thの態度に実は大きく影響しそうだと感じています。
効果があるから、と言って取った態度は、ときにその打算が透けて見えて、信頼しにくいものです。「問題が問題であり、人が問題なのではない」と本気で思っていて、Clの力と可能性を信じることができるかどうか。そのためには、本当に「人が問題ではないのか」ということを、自分が納得することが必要だと思いました。
自分でその命題と向き合ってみることが、今できることかな、と思い、考えてみています。

たとえば、上司のAさんと折り合いが悪い。派手に言い合うことはないが、会議でいつも違う意見で衝突が多く、分かりあえないので、煙たく感じている。
→人が問題だと、考えると、
Aさんは、人の気持ちに共感できない人、変わった人、であり、そんなAさんが問題だ、という結論になりそうです。
あるいは、自分自身が上記のような人であり、そんな自分が問題だ、ということになるでしょう。
書いてみて、こんな風に、人を「○○な人」と言い切ることは、どうも「真実」ではなさそうだ、と、あっさりと単純に思いました。
よく「立場が違っていたら関係も違っていたかもしれない」というようなことを言いますが、Aさんと上司としてではなく、ご近所さんとして、あるいは高校の同級生、なんなら兄弟として出会っていたら、全く違うAさんが見えるということは想像に難くありません。「いつも気持ちよく挨拶をしてくれる気のいいご近所さん」「自分とは関わりがないが、高校の友達の大好きな彼氏で、友達は幸せそうなので良い彼氏だ」「たまに一緒に両親へのプレゼントを選ぶ親思いの兄」ということもあり得るかもしれません。(だんだん妄想っぽくなってきましたが。。。)どれも、「人の気持ちに共感できない」「変わった人」像とは、違う像があります。
そして、Aさんの他の姿は想像することしかできませんが、自分の他の場面での姿は、自分で描写することができます。長年の友人と飽きることなくしゃべって笑い合っている自分、同僚に意見を言ったときに何人かが熱心に同意してくれた自分。「人の気持ちに共感できない」「変わった人」ではない、エピソードです。
場合によっては、もしかしたら、「変わった人」エピソードに数えられるものが多いのかもしれません。でも、無数にある経験の中で100パーセントはありえない、他の要素がたくさんある、ということは確かです。
そして、その一人の人間の他の要素というのは、上記で出てきたように関係性や他の人からの言動によって、作られています。
だから、新しい要素、オルタナティブストーリーに目を向けるときには、周囲に変化を認識してもらったり、言語化してもらうことが助けになる、ということのようです。
他の側面の自分を知っている人ならなんて言うかを想像したり、実際にその人に尋ねたり、カウンセリングに参加してもらったりする、というやり方は、そのためのものなんだと思いました。

稚拙な例で、自分なりに考えてみただけですが、まるで自分がナラティヴセラピーのやり方を考え出すように、その道筋をなぞることができた気がします。
「問題が問題だ」の言葉の意味を、響きが心地良いから、カウンセリング場面で効果があるから、と真に受けて取り入れるのではなく、地道に例に照らして考えてみることで、少しずつ腑に落ちて、身になっていくと思っています。