デヴィッド・ボーム「ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ」を途中まで読んで

自分に直接関係のない本を読んでみたいと思うのは、SNSでシェアされていたり、読んでいる本で引用されていたりするためです。デヴィッド・ボーム「ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ」もそのような本で、タイトルである「ダイアローグ」にも惹かれていたので、一度読んでおきたいと思っていました。

また、英語のサイトでも、日本語のサイトでも、レビューが非常に高いので、結構期待して読み始めました。

多くの人が良いといっているものを、自分ではそのように感じることができない、受け取ることができないのは悩んでしまいます。

本書もそのような本でした。

肝腎の対話についてのことですが、しっかりとした考察というよりも、ボームが想定する理想的な状態について述べています。そして、現実世界においてのことを、不十分なもの、偽りのものであるかのようにみなすのです。その理想的な状態がどのようなものであるかについて、追っていっても、そのことを十分に実現可能なものとして描くことに成功しているとは思えませんでした。ボームの用語を使うとすれば、ボームが理想とする「対話」に「コヒーレント」があるようには思えなかったです。

その混乱の源のひとつに、用語がいろいろな意味で使われていることがあります。たとえば、「思考」ですね。つまり、その文脈ごとに、その段落ごとに、ボームが用いている言葉の意味が異なるようなのです。そのため、あるところで用いている定義らしい言葉が、別の文脈では、覆されるという事態が生じます。

これは、言葉に厳密であろうとする哲学的世界の論文であれば、受け入れられないのではないかと思うのです。

私は、ボームという科学者に対して、あまり先入観もない一方で、読む前からかさ上げして読みたくなるようなポジティブなバイアスもありません。単に、ボームが記述したところを追ったつもりです。

しかし途中でもういいかなと思ってしまいました。私の解釈を助けてくれる誰かが現れない限り、本書を再び紐解くのは難しいようです。

評判のよい本ですので、私の感想に惑わされないようにしてくださいね。