治療的会話の技術を向上させるために(その2)

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「その1(https://narrativeassembly.com/2018/792/)」では、治療的会話の技術もスポーツや習い事ことと同じように、「どのようするのか」を言葉で教えてもらっただけでは不十分で、①「熟達者が実際にするのを見て」、②「自分で実際に体を動かして体感していく」ことでしか身につかないのではないかということを述べました。

 

具体的にこのことを、どのようにしてアウトサイダーウィットネス(OW)とリフレクティングプロセス(RP)で提供できるのかについて検討する前に、言語のことについてすこし述べてみたいと思います。

 

「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」

「5.61 (前略)思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない」

(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 2003 矢野茂樹訳 岩波書店)

 

心理学という文脈において、より限定的にいえば、異常心理学、精神病理のような文脈において、人という存在について語る言語を発展させてきました。これは、その人がどのような人であり、どのような問題を抱えているのかということを語るための言語であると考えることができます。

 

私は、心理療法という文脈において、このような言語だけでは、不十分だと考えています。

 

「ナラティヴ・アプローチの理論から実践まで——希望を掘りあてる考古学」の翻訳者まえがきの冒頭で「カウンセリングの鍵は、会話そのものである」と述べていることの延長上にこのことがあります。この時点では、実際の会話についてしっかりと検討していく必要があるという程度に考えていました。ところが、単に検討するというだけでなく、この領域の言語を発展させないといけないという考えに発展してきました。

 

「人となり」「アセスメント」「診断」についての重要性については多く語られています(言語が発展しています)が、では、実際にそのような人々とどのように対話を進めて行くことができるのだろうかについては、あまりその重要性を主張している文章に出会うことがありません。

 

その重要性を語られないままに置かれてしまっていることとは、「相手の発話をどのように取り上げ」「どのように問いかけていくか」ということです。これは、心理療法という文脈においては、その人が抱えている苦悩や問題の袋小路から抜け出る小道を見出すために、「相手に合わせて、その時々の流れを考慮しながら、具体的にどうすればいいのか」ということになります。

 

つまり、動的な(その都度変わるような)状況において、私たちはどのように発語することができるのかという、まったくもって具体的なことについて取り組む必要があるのです。

 

この領域に対する対処方法として、マニュアル化して質問例を用意するということがよくおこなわれます。しかし、この方法では、その場の状況に合わせて、臨機応変に対応するためにはどうしたらいいのかということが抜け落ちているのです。

 

これは、マニュアルに、いざということを例示することによって対応するということをすぐに思いつきます。この対応方法の限界は、想定されたことには対応策があるのですが、想定されていないことについては何もできないということです。想定され得ないことにも対応できるようにする技術を身につけることが、日々の実践では必要なのです。

 

この側面に取り組むためには、実際のやりとりを語るための言語の発展が不可欠なのではないか、そんなことを今考えています。心理療法の会話のやりとりについて、しっかりと理解させてくれるような言語(解説・説明・描写)です。

 

これは、スポーツなどおいて、「勝った・負けた」「得点を入れた・入れられた」というような、素人でもできるような解説をするような、単純な言語ではありません(これは言語と呼ぶに値しないレベルのものだと思います)。

 

これは、質のよい、そして視野の広い目で解釈してくれるような、そしてそのことによって、実際にプレイしているプレイヤーだけでなく、これからその技術を身につけようとする人も、益を得ることができるような描写である必要があります。

 

そして、治療的会話についてより豊かに、より多面的に語ることができればできるようになるほど、その質を向上させるためのヒントをより多く得ることができるのではないでしょうか。

 

この時点でどこに焦点が移っているのかにも気づいて欲しいと思います。実際の会話をしている人の質の話ではなく、そのことどのようにしっかりと語ることができるのかという解説者(指導者、スーパーバイザー)の説明の質の話に移行しているのです。

 

治療的会話の質を向上させるためには、それについてしっかりと語るための言語を発展させる必要があるということです。それが、どのような描写になるのか想像できないということであれば、それは「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」が意味することです。

 

一方で、「言語」の意味することとは、誰が表現に長けた人たちが、そのことの描写を発展さえしてくれれば、私たちは、その言葉を利用することができるようになるということです。

 

また、「言語」としたいのは、みんなが共有できるような、みんなで育んでいけるようなものとして扱いたいのです。

 

このような言語を発展させることは、短期的には難しくても長期的に見れば、それほど難しいことではないかもしれないと想像しています。条件として必要なのは、そのことが大切であるということのコンセンサスだけです。つまり、それが大切だとみんなが口をそろえて言い始めれば、そのことに取り組んでくれる人たちが現れるということです。

 

もう一つ大切な前提があります。治療的会話について語る言語を発達させるためには、語られる会話がたくさん出てくる必要があります。一つの模範的な会話だけではダメなのです。いいものから、そうでもないものも含めて、多くの治療的会話が共有される必要があります。

 

これに、取り組んで行きたいと狙っています。

 

次もすこし脱線して、スーパービジョンのプロセスについて、すこし考えたいと思います。

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