診断名をつけられることと、自分で名乗ること

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大串綾です。

ニュージーランドはきっと湿った冬ですが、日本も湿った梅雨ですね。

最近思ったタイトルについての考えを、ナラティヴ周辺の方々に言いたい、と思ったので、すっごくひさしぶりなんですが、投稿します。


高校生に心理学を教える、というのを月二回しています。そこでは通り一遍の知識を教えることをすっ飛ばして、私が関心を持っているセラピーや、その姿勢やメッセージを伝えています。
この前、HSPについて話をしました。最近流行ってきた名前で、「Highly Sensitive Person とても敏感な人」のことです。私も授業のためにはじめてきちんと本を読んだのですが、その本は自分自身も敏感である著者が、同じように敏感さを持った他の人に向けて書いたものでした。とても、当事者、という感じのものでした。
科学的だったりなんかだったり、何か外の基準によって規定されたものではなく、自分たちで、「外向的な性質に比べてわかりづらいけれど、こういう性質にも目を向けて!」「否定的に思われがちだけど、繊細ってことは深く幸せを感じることなんだよ!」など、当事者から当事者そして外に向けたメッセージ発信でした。
だから、これを高校生に伝えることは、繊細さの価値というふだん語られないことを語る、焦点を当てること。だから良いなぁと思って、気持ちよく話せました。(高校生たちはどう思っていたのかは、聞いていないのでここでは置いておきます(笑))


ところが、別の回で、発達障害の解説をしようとすると、なんだか、嫌になってしまいました。ADHDの回は、まだましで、当人たちは忘れたり、遅れたりして、困っているから、どんな工夫ができるかな?と一緒に考えて楽しかったです。ところが、じゃあ次にASD 自閉症スペクトラムをしようかな、と準備をしていると、なんだかいやな気分になってしまいました。

参考にした本に書かれていた例では、本人は、自分の世界に没頭して、恋人も作らず、決まった時間に自分なりのルーティン行動をして、落ち着いて生活している、というのがありました。(他の例もありましたが)なんか、そういう人を、横から(上から?)「それは○○だ。だからこう困っているんだ」と言うことに加担したくありませんでした。診断された人は、まるで、それを否定する権利がなくなってしまうようです。

「自分はアスペルガーじゃない」と言っても、それはたぶん受け入れられません。医者という特別知識のある専門家だけしか、名付けることは許されていません。こんなに性格に近い特性について付けられた名前なのに、自分でそのラベルは剥がせない。すごい力で、押さえつけられている。やっと、それが私を嫌な気持ちにさせていたんだと思い至りました。
なんで、そんな風に、勝手に自分のことを名付けられなきゃいけないんだろう、と私は感情移入して、イヤになったのです。結局、その授業の内容は別の物に変更してしまいました。

発達障害などの名前を付けることで共通理解ができて、対処できたり、配慮できたりすることもわかっているので、診断名などいらん!けしからん!、と言うわけではありません。
でも、それは、こんなに、ある意味暴力的なことなんだ、とわかっておきたいと思います。


ちなみに、「会話のできない自閉症の僕が考えていること 飛び跳ねる思考」という本は、自閉症の男の子が会話としては表現できない自閉症としての自分の思考を教えてくれるもので、刺激的な感性の知性を感じて、すごく面白いです。これを授業に使っても良いなぁ。。。


参考図書

「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」イルセ・サン

「飛び跳ねる思考」東田 直樹

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