オンラインWS「ナラティヴ・メディエーションの概要」に参加しました☆
メディエーションは、ナラティヴ・アプローチのセッションと同じはずなのですが、どこか苦手意識があります。。今回、複数を相手にするカップル・カウンセリングについての説明も少しあったことから、苦手意識がどこから来ているのか若干見えてきた感じがしました。
PCAのセッションでは、相手のストーリーについていくことを大切にするため、ナラティヴ程、面接を構造化しない側面があります。まずは、面接を構造化していくことへの馴染みの薄さが、私にはあります。
また今日のKOUさんの話しにあったように「クライアントとの2人の世界に入れない」こともあげられます。“相手に寄り添う”ことを大切にしようとすると、誰かを悪者にしたい話に取り込まれてしまうことがあります(もちろんそこを話すことが必要な場合は多く、その場合には「分離セッション」として、合同セッションに先立って、個別セッションを行うことも聴きました)。
対立関係にある人が同じ場にいる際、こちらがどのような言葉遣いをするのかが試されるのだと思います。例えば「そうですね」という相槌ひとつが、片方に加担している!と取られる可能性もあるわけです…。“相手に寄り添う”ことは大切ですが、そこが前面に出てしまうと、メディエーションとして成立しにくくなり、むしろ火に油を注ぐようなことになってしまうのかもしれない、というところに、みなさんの話を聴きながらたどり着きました。そして、ここが今までのPCA的な聴き方と、ナラティヴの大きな違いなのだということを思いました。
そうなると、外在化する会話法の重要性が際立ってきます。対立関係にある人だけでなく、そこに誰がいようとも会話を続けることが出来る言葉遣いについて、より注意深くなる必要性を感じました。
また、クライアントのディスコースに気を配るだけでなく、自分のディスコースについても自覚していくことの大切さも再確認しました。自分の立ち位置から見やすいモノ(例:女性が求められ易いモノ)には敏感に反応してしまうのですが、自分からは見えにくいモノ(例:家父長制、大黒柱の重圧など)は、具体的にどんなことがあって、どのような影響を与えていくのかについて、教えてもらう機会となりました。
さらにもしかしたらですが、女性へのディスコースは一種わかりやすいため、気づいた場合には解放されるスピードが速いかもしれません。一方で男性へのディスコースは根深く、気づいても解放されにくいのかもしれない…、ということすら想像しました。新鮮な視点でした。このような機会に、少しずつ視野を広げて貰いながら、様々なディスコースに目を配れるようになりたいです。
同様にブレイクアウトルームのセッションで、いろいろな職種の方とディスカッションできることも、貴重な体験でした。
またメディエーションWSがあるのならば(怖い気持ちもありますが…)、メディエーションのプラクティスに取り組んでみたいです!
1日、ありがとうございました✨