「中動態の世界」に取り組んだ國分功一郎さんの思いを汲みたい

國分功一郎さんは、「中動態の世界−意志と責任の考古学」に取り組む時の動機を、巻末の「あとがき」で次のように述べる。

(小児科医で研究者の熊谷晋一郎さんとの出会いを通じて、薬物・アルコール依存をもつ「ダルク女性ハウス」の上岡陽江さんを知る。そして、二人と依存症当事者から話を聞く機会を持つ。その時の回想に続けて、次のように述べる)

 自分が書いたことについて「役立つ」と言われるのは不思議な経験であった。「あの本(注:『暇と退屈の倫理学』)を書いてよかった」という気持ちが起こったがそれだけではなかった。私は自分が緊張しつつあることに気づいた。自分が書いたことは既に世の中で起こっていることと結びついてしまっている。だからそれはもはや自分ひとりのものではない。それが原因となって何かまずいことが起これば、自分はそれを引き受けねばならない。

 そんな緊張感を感じながら、その場で熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分の中で次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきて手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。

 その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しく伺いながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた。「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにも出来なくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。

 しだいに私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。——そのような気持ちが私を捉えた。」

國分功一郎 『中動態の世界』 329頁

私は、カウンセラーとして、自分自身に責任があるということから出発して、それでも、自分にはそれを解決する意志の強さがないというテーマを持った話を幾度となく聞いてきた。ナラティヴ・セラピーにおいて、その語りから離れて、別の語りを促すためには、どのように問いかけることができるのだろうかということを、外在化する会話法という視点から検討してきた。それは、ナラティヴ・セラピーの文脈では、個人主義的な語りから離れるための試みと説明されるだろう。

通常の言葉では、相手が自責という視点から語ることを促してしまう。つまり、相手の内に責任の所在を位置づけてしまうと言ってもいいだろう。今回、國分功一郎さんの「中動態の世界」を読んで、この居心地の悪さが生まれる由来を知った。

 自動詞表現と受動態表現という兄弟関係にある表現を、われわれが現在用いている能動対受動の対立図式の中に持ち込むや、とたんにこれらの二つの表現は、能動態と受動態として対立してしまう。たしかに、“I appear”は能動態で、“I am shown”は受動態だからである。

 この事実は、能動対受動の対立図式がどれほど行為の帰属という観点に取り憑かれているのかを実に分かりやすく示すものである。もともと大差のない表現であるにもかかわらず、「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。同じしぐさが、行為の帰属をめぐる尋問を受けると、自発的に姿を現したのか、誰かによって姿を現すことを強制されたのか、どちらかを選ばねばならなくなる。

 そして言うまでもなく、この問いによって前景化されるのが意志に他ならない。

 私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば尋問する言語である。

國分功一郎 『受動態の世界』 181〜182頁

能動対受動という言語が作り出す世界観の中で、私たちは、出来事(行為)が発生した根源の所在を〈誰かの中〉に言語表現として求めてしまうと言うことなのだ。これは、問う側の思いとか、願望の問題ではない。どのような思いを込めようとも、言語表現がそうなってしまっているという問題について論じようとしているのだ。

中動態が表現する世界は、出来事(行為)は、誰が作り出したのかという視点からではなく、出来事(行為)を語ることを許してくれる。それは、どのように?

そこが問題なのだろう。このような言語表現をすぐに思いつくことができないぐらい。私たちは、能動対受動という世界観に慣れ親しんでしまっている。

ナラティヴ・セラピーにおいては、能動対受動という枠組みの中でも、〈問題〉を擬人化し、外に出すことによって、人をその出来事(行為)の責任者として位置づけることがないように、会話を紡いでいく。それを、外在化する会話法と言う。ここで〈問題〉を擬人化し、外在化するのは、他の人の中にも出来事(行為)の責任者として位置づけることを避けるためである。それでも、『中動態の世界』を読むと、このような試みも、能動対受動という枠組みの中でのことであると考えられる。

以前にブログで「ナラティヴ・セラピーの「圧がない」質問」という短い記事を書いた。圧がない質問とは、私の意図や答えるべき方向性に気を取られるのではなく、自分のことをしっかりと自分の視点から考えれられるような関わり(問いかけ)というふうに理解できるだろうか。この時には、ここまで表現することができていないが、そのようなことと今は表現できる。

國分功一郎さんの『中動態の世界』を読んだ今、この「圧がない質問」をもっと発展させる可能性に対するヒントをもらったような気がする。これは、新しい言語の創造、または、まったく古い言語の発掘というプロセスが必要になるが、方向性は十分に示唆してもらったような気がする。

『中動態の世界』の世界は、私が馴染みのある対人支援という領域、特に、アディクションという領域で、義を感じて書いてくれたものである。この義に答えることが何かあるはずだと今強く思っている。それも、ナラティヴ・セラピーに取り組んで来たからこそ、より強く感じているのだと思う。対人支援の専門職に就く者として、このことを検討するのは、倫理的な問題だと考えられることができるからでもある。

「しだいに私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。——そのような気持ちが私を捉えた。」

私は、「どのように答えられるのか」というところから、始めるしかない。でも、このことを、しばらく念頭に置いておきたいと思う。まずは、もう一度再読してみたい。