「 ナラティヴ・セラピー発祥の地 ニュージーランドで感じ、学ぶ ナラティヴ・セラピー・ワークショップ 2018」の5日間が終わりました。このWSに参加したのは2年前以来の2回目なのですが、前回と同じかそれ以上に多くのことに触れた気がします。前回に比べれば、多少なりともナラティヴについての理解が深まっていた(はず)分、より見える部分が増えたような感じでしょうか。単なる2回目ではなく、「初めての2回目」という感じ。
5日間で種をまかれたことが、最終日のGayleのセッションでいろいろ実を結んだような感じで、そのことについて少し振り返ろうと思います。今、特に、「外在化する会話 externalizing conversation」というものについての考えが一歩進んだように思います。
外在化する会話について、少し練習をしていった際、Gayleと参加者からの質問とのやり取りの中で、2つのフレーズの質問が出てきました。
「What makes you feel depressed?」
「What brings you depression?」
さて、どちらの方がよさそうでしょうか? どちらも形式上は外在化する会話で、似たようなことを聞いています。
しかし、Gayleは上の質問の仕方はあまり使わないというのです。また、一方で、下の質問については、そこまでおかしくはないと(もう少しindirecltyにした方がいいけれど)。おそらくこれを聞く前は、自分はどっちの質問もあまり区別できません。ただ、言われてみると、確かに下の方がいい気がします。それでも、その違いがクリアにならないので、ティーブレイクにGayleに質問をしました。その結果、以下のようなことが自分の中で理解できてきました。
簡単に言うと、「What makes you feel depressed?」は、直接的で、「you」と「depression」の関係が近くて強いし、あまり可能性に開かれていない質問という感じです。それに対して、「What brings you depression?」は、もう少し間接的で、「you」と「depression」の間に距離ができて、その可能性をいろいろと探っていける、会話が未知の空間に開かれていくような質問です。非常に微妙なニュアンスで、でもとても重要な違いが、この時に腑に落ちました。それをその時イラストにしてみたので載せてみます。
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自分の理解して腑に落ちたところは次の通りです。
「What makes you feel depressed?」は、息苦しくて、動きの少ない世界を作り出す質問です。
「あなたが鬱を感じる」という、「鬱」と「あなた」の関係性の部分は、ピタッとくっついて質問した時点で固定されています。しかも、その関係は「What」という何かわからないものによって、力強く固定されています。質問された人は「鬱を感じる人」としてしか答えることができません。その答えは「〇〇が私を鬱に感じさせるんです」といった答えを強く誘ってしまいます。そうした場合「〇〇が私を鬱にさせる」という物語だけ、それだけしかクライエントは答えるスペースがありません。そこから続く会話は、どんどん先細りして、問題に入り込んで行き、その他の物語の裂け目が出てきにくい、そんな会話になって繋がって行く予感がします。
「What brings you depression?」は、それに対して、クライエントがもっといろんな形で自分の体験を物語ることができるような世界観に繋がる質問です。
「鬱」と「あなた」の関係は決まっていません。「鬱」と「あなた」の間には、広いスペースができています。クライエントは「feel」以外の動詞でも「鬱」を語ることができます。つまり、「鬱」がそばに来たところでどうなるかは、まだこれからゆっくりとClの言葉で語られていく余地があります。それに「What」というものは「鬱」を連れてくる存在でしかなく、「あなたが鬱を感じる」というかたちにまで両者の関係を限定する力を持っていません。
また、さらにGayleは、もっとindirectな表現として「What is trying to bring you depression?」のほうがいいかも、とも言ってくれました。自分の理解としては、「trying」が入ることで、「what」と「bring」の間の関係性にもスペースのある可能性が開かれて、「what」の持つパワーの強さの解釈にもさらに幅が出て来ます。「what」は、鬱を持ってこようと「try」しようとしているけど、まだその結果も様子もこれから語っていく余地があります。
つまり、「What makes you feel depressed?」よりも、「What brings you depression?」の方が、質問された人が語ることができる物語のスペースに、広がりのある会話に繋がって行くわけです。
また、参加者のまなぶさんのおかげで、このことは3日目のJennyの話にもつながりました。フーコーの考えにおいて、支配の力が強まるほど、そこに生じる力の関係は固定的なものになっていきます。質問がもたらす世界において、支配的な力が強まるほど、人と問題の関係も固定的なものになってしまいます。もちろん語られている問題はあるし、そこにはそれが問題として存在する力もあります。ただ、その力や支配力は、少なくともその会話において、そのように語られる限りにおいて形作られるものです。だから、質問において、力を柔らかいものにして幅を広げ、Clが日常の現実生活の支配から一時逃れて、問題と自分の関係を物語れるような場を提供して行くことが、大切なのではないかというふうに考えられましたし、それが前日にGayleが話してくれた「私たちの専門性の一つが質問の中にある」ということなのかなと思いました。そして、そうした幅のある会話の中で、よりクライエントの生きられた体験に近い記述が語られていけば、その記述の厚さの分だけ、問題の招待や影響力を見えるものにして、また別の物語へ繋がる裂け目・可能性に開かれていく会話をしていくことができるのではないだろうかと。
そしてもう一つ、このことは、ナラティヴにおける「外在化」というものが、さまざまなレベル・質において考えることができることにつながります。昨日のディスカッションの中で「外在化する会話」の他に「外在化する言語」という言葉が出て来ました。また、ここ半年くらい、自分の中に「外在化する世界観」「外在化する姿勢」といった言葉が浮かんで来ています。
おそらく、これまで自分の理解は「外在化する質問」は単に主語を問題に入れ替え、比喩的に表現するもので、そうしたら内在化する表現よりいい、ぐらいのざっくりとした考え方だったと思います。具体的な質問と、「外在化する世界観」や「外在化する姿勢」は具体的なかたちでは繋がっていませんでした。別にそれは大きく間違っていたりはしなかったと思います。その時の自分に理解できる範囲はそこまでだったのだと思います。ただ、なんとなく、次により深く考えなければいけないステップが見えたような気がしたという感じです。
「外在化する質問」は、その表現のもっと細かいレベルで、哲学や世界観に結びついていて、その質を高めて行く必要がある、というように思います。単に外在化の文法を使ったり、外在化する対象を選ぶというレベルから、より語り手が自分の物語をローカルな形で十全に語れるように、そういうスペースを生み出すような表現の質問を身に着けていく必要があるんだと思います。なんとなく、ホワイトが書いていた「文学的に優れた治療(therapy of literary merit)」というのは、ここにもつながっている言葉なのではないかという気がふとしました。
それは、外在化する文法だけでなく、もっと広く、外在化する言語や、外在化する世界観、文化を学んで行く、そんな意識で行なっていくことで近づけるような気がします。
Katsuki