日本でカウンセリングしていくのに必要な事

小倉です

ここ最近,日本で生き苦しさを感じてる人のことを考え,いろいろと調べてきました。特に,参考になったのがルース・ベネディクトの「菊と刀」と,阿部謹也の世間に関する複数の本です。
私は,最近になって大学生を対象としたキャリア・カウンセリングに,マーク・サビカスのキャリア構成インタビュー手法を取り入れました。この手法は社会構成主義をベースとしたもので,ナラティヴ・セラピーのスキルを一部利用しているものです。しっかりと学びたいと思い,昨年,サビカスらが主催するセミナーに参加しました。すると,ナラティヴ・セラピーをほとんど知らない事に気づき,じっくり学ぶ必要があると感じました。
そこで,今年はNZに行ってナラティヴ・セラピーについて学びました。そこではマオリの人たちの文化について,ほんの少しですが触れることができました。異なる国の文化に触れるのは大変ですが,自分のカウンセリングに幅を持たせてくれるように思いました。そして,あらためて日本人のことや,日本の文化を考えようとしたところ,「菊と刀」や「世間」という視点に出合いました。
私は「菊と刀」を次のように読み取りました。「菊」は日本人の生き方を象徴するメタファーであり,「刀」は内面を象徴するメタファー。日本人が大切にするのは「人為的に統制された自然」の中で菊の花を咲かせ,心の中の刀を輝かせること。これが成功した時「名誉」が得られる。逆に,菊が統制から外れて育ったり(堕落・不摂生),刀の輝きが失われること(汚名を着せられる)は「恥」になる。
「人為的に統制された自然」というのは私が表現したもので,ベネディクトは「偽装された自然」と,かなり痛烈な表現をしています。日本では菊の花を,針金で矯正し,まっすぐに成長させる。植木鉢に植えられていて,根はそこから外に伸びることはできない。菊が置かれる庭全体も,ほとんど全て手が入れられている。ベネディクトは,こうした様子を「偽装された自然」と表現しました。
日本人は,人前では常に姿勢を正すようにしつけられ,不合理な状況に遭遇しても取り乱さず,様々な場面で忍耐,自制することが求められてきました。ベネディクトは,こうしたことと菊の育て方とを重ね合わせたのでしょう。そして,鉢植えの植物が一度,真の自然に植えられると(日本の中から欧米に行って生活すると),再び鉢に納まることはできないと言ってます。私もNZに行って帰ってから,こんな感覚を抱いたようにも思います。
この偽装された自然を作り出しているのが「世間」ではないかと私は考え出しました。たとえば,障害者とかLGBTという表現がありますが,世間は,人にこのような名前を付けて特別視したり,差別的に扱おうとします。それは,こうした人たちが偽装された自然に納まらないからではないかと思います。でも,本当に私たちは偽装された自然に納まらなければいけないのでしょうか?
これまで,自分自身,世間で生きてきたため,何ら疑問にも思いませんでした。阿部謹也が表した「世間」は次の4つを全て満たすものとしています。それは,(1)贈与・互酬の関係,(2)身分制度,(3)共通の時間意識,(4)呪術性です。これらは,日本特有の支配的なディスコースだとも言えるでしょう。
たとえば,贈与・互酬の関係は,何かをもらったら恩返ししなければならないというものです。この考え方では,恩返しできないことは,借金を踏み倒すことと同様に恥ずべきことだととらえます。障害を有する人については,世間が,どうやら次のようにとらえているようです。「支援してもらう(恩を受ける)だけで,恩返しできない存在」。もちろん,この考えは大変差別的であり不適切なのですが,そのことに気づいていない人が多いようにも思います。
私は障害をかかえた学生と時々関わることがありますが,「障害が問題ではないし,本人も問題ではない。問題を作り出している世間が問題なんだよな」と思うことが多々あります。この「世間」は実体のないものですが,少なくとも複数の人々の関係から作り出されているものです。しばらくは,この支配的なディスコースを明らかにする努力をしていこうと思います。いずれにしても,世間に関しては,まだ書き足りないので,別途投稿したいと思います。

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