世間への謝罪と自己責任

フリージャーナリスト安田純平さんの謝罪会見がニュースになっています。facebookでも何人か取り上げているので,このことについて書きたいと思います。

ここで,謝罪する相手は世間という見えないものです。この出来事を阿部謹也さんの世間の考え方を用いると次のように説明できます。

まず,「安田さんは今回の解放に対して何も恩返ししていないし,今後もできないだろう」と世間は見るでしょう。これは「贈与・互酬の関係」というディスコースから出てきます。そして「自分だけずるい」というねたみ,そねみが生まれます。

そもそも安田さんは他者に助けを求め,生きる権利があるのではないかと思う人もいると思います。しかし,残念ながら世間では権利は重要視されないことが多々あります。なぜなら,世間にはそもそも個人という概念が希薄だからです。「他者からどのようにみられているのか」が最重要ですので,欧米でいう個人とはかけ離れたものです。もちろん,現代の日本では法に基づいて権利を主張できますが,「自分の権利ばかりを主張する身勝手なやつ」などと言い出して,世間は権利を平気で無視します。

もう一つ「共通の時間意識」というディスコースが問題になります。世間には共通の時間意識があり,「今後ともよろしくお願いいたします」という言い方がされます。過去も現在も未来も,世間で暮らす人はお互いに同じ時計を見て生きているという意味です。これを実現するためには,全員で共同生活すれば良いことになります。そうなると,この共通の時間意識は「何もかも同じ」という状況を作り出します。人と違う事,目立つことを徹底的に嫌います。これを守らないと「ソト」の人間とみなされ排除されるか,ひどいいじめをうけたりします。

ねたみを避け,排除・いじめを避けるためには謝罪という儀式をしなければなりません。世間が持つ「呪術性」というディスコースでは儀式を重要視します。今回の謝罪は,世間が安田さんに求めた「みそぎ」なのかもしれません。

以上のようなことから謝罪会見を説明できると思いますが,もう一つ気になることがあります。それは「自己責任」という言葉です。

私はキャリア開発を日本に普及しようとしてNPOで活動したり,最近では大学でキャリア教育を行っています。キャリアという言葉が広まるまで(2000年頃まで)は終身雇用が当たり前の時代でした。この頃,社員は自分の人生を自分でコントロールするというよりは,会社の言う事に従っていれば間違いないと思う人が多かったと思います。こうした人たちに対して,「これからは自分のキャリアに関する事は自分で選び,決める必要がある。そしてその結果が良くても悪くても人のせいにせず,自己責任を取っていく時代です」と言っていました。でも,世間が言う自己責任は,どうやら違うようです。これはベネディクトの「菊と刀」の記述が参考になります。

ベネディクトによると,日本人は心の中の刀を輝かせることに価値観を置いています。ところが,それは簡単ではありません。他人から受けた恩を返さなかったり,日頃の生活が荒れたりして刀が曇ってしまうと「身から出た錆」と言われます。そして,ベネディクトが指摘した大事なことは,日本人には,「身から出た錆」は自分で始末するという自己責任の態度があるということです。この記述から,私なりに考えたのですが,身から錆が出ているということは刀の内側がボロボロになっているということだと思います。そんな,すぐに折れてしまうような刀を持っている人がどうやって始末をつけるのかと言うと,自分で自分の刀を折ることではないでしょうか。これはなんとも辛い事です。

だから,世間において「自己責任」という言葉を使うことは,かなり怖い事を意味するものであり,不用意に言えないなぁ,と思うようになりました。