人の話をストーリーとして聞くこと

「フリードマンとコームズは、セラピストとして学ぶのが最も難しいことの一つは、「人々のストーリーをストーリーと して聴くことである」(Freedman & Combs, 1996, p43)と述べた。

(Hibel & Polanco, 2010)

ジム・ヒベル&マルセラ・ポランコは、「耳の調律:ナラティヴ・セラピーのリスニング」という論文の中で、フリードマンとコームズを上のように引用して、人々の話を「ストーリー」を聞くことの大切さとその難しさを論じています。

私は、これがどのようなことなのだろうかと言うことを考えてきました。逆に人の話をストーリーとして聞かないことがあるのだろうか、という疑問にもつながります。

上に引用した箇所に続くところは、次の部分です。

「私たちがセラピーとは何かについて知っている 物語が、『臨床的に重要な事柄』(私たちがどうすべきかを知っているもの)を見つけた時に、私たちに耳をそばた だせて「これだ!」と言わせるように仕向けるのだ」(p.43)と、二人は述べる。」

(Hibel & Polanco, 2010)

つまり、私たちが習った介入のポイントを見つけようと、人の話を聞いてしまうということがあると言うことです。相手がどのようなプロットで話を進めているのかなんて、(極端な言い方をあえてしますが)どうでもよくて、反応できるポイントで返してしまうということになります。

1つの例を挙げて見ましょう。
人からの仕打ちによって、傷つき、苦しみ、落ち込んだ人がいるとしましょう。その人の苦しみや落ち込みは長く続くことになり、うつ病と診断されているか、そう診断されてもおかしくはない状態です。カウンセリングにおいて、何があったのか、何が辛かったのかを延々と述べてくれるでしょう。それでも、その話は、そこから抜けたいという意思、そこから抜けるための試みに向かっていこうとしているかもしれません。

その時に話の聴き手は、どこに耳を傾けるでしょうか? 人によっては、起こったことの傷つき体験を表現することを薦めるかも知れません。または、そのようなことをした人に対する非難を表現することを薦めるかも知れません。他にも、いろいろなポイントがあるでしょう。それぞれに、そのようにすることの意図もあり、大切さもあることでしょう。

しかし、上の例を、人の話をストーリーとして聴くという視点に立てば、違う聴き方の可能性も見えてきます。それは、その話がどこに向かっているのかという話の流れに沿って話を聴くということです。

上のような単純な例であれば、わかりやすいのですが、そこから抜けようとしている話として聴くことになるでしょう。そちらに向かいたいのだということを汲んで話を聴くことができるということです。

時に、人の話をこのような展開に沿って聞くのではなく、せっかくそちらに向かっていこうとしている腰を折ってしまい、過去に巻き戻してしまうような聴き方や問いかけをしてしまうことがあります。

それは、ストーリーの展開上、過去に戻すことの必要性を感じてのことであれば、そうすることも大切なことでしょう。ところが、時に、ストーリーの展開に注意を向けることなく、聴き手の興味や関心だけで聞いてしまうことがあるのです。その場合、相手のストーリーの展開を妨げてしまうことになりそうです。

この件を論じるのは、もっと具体的な事例を考えて、人によってはどのように聴いてしまうのだろうかということを、検討する必要があると思っています。これだけでは、ちょっと抽象的すぎる気がします。

いずれにしても、人の話をストーリーとして聴くということはどのようなことなのか、人によってはどうしてそれが難しいのかについて、もっと考えてみたいと思っているところです。

Hibel, James and Polanco, M., “Tuning the ear: Listening in Narrative Therapy” (2010). CAHSS Faculty Articles. 602.
Freedman, J., & Combs, G. (1996). Narrative therapy: The social construction of preferred realities. New York: W.W. Norton & Co.