ナラティヴ・セラピーの「圧がない」質問

先日、対人援助職に就かれている人にSVを提供して、私の姿勢でありがたいと思ってくれたところは「圧がない」ことであるというコメントをもらいました。

「圧がない」ということは、話を私の考えている方向に持っていかないということであり、また私という人と話をしながら、自分自身のことにしっかり向き合えることができるということである、と私は理解しました。

これは、私にとってたいへん興味深いコメントです。なぜなら、私は常に相手に質問を問いかけています。相手が何かを話せば、そのことを受け取り、そこから想起させられる質問を相手に返します。

できるだけ、カウンセリングのデモンストレーションをワークショップなどでするようにしているのですが、それを第三者から見た人の中には、それを「共感がない」「質問攻めにしている」と感じる人がいました。

その都度、私の相手をしてくれた人に、共感されていないと感じるのか、質問攻めにされていたと感じるのかを確認するのですが、そのように感じる人は今のところいませんでした。(ホッっとします)

つまり、いくら質問したとしても、そのように感じないのは、それは「圧がない」質問だからだと理解することができそうだ、と気づかせてもらいました。

それでは、どのような種類の質問が「圧がない」というのでしょうか。

まずは原則として、相手の言葉を下手に変えないことが必要となります。「落ち込む」と言っているのにこちらが勝手に「うつ」に変えてしまわないということです。たとえ、相手の言葉が、文法上あるいは辞書的に、間違っていたって、下手に修正しないということです。いくら子ども相手でも、下手に修正しません。なぜならばそれはその人の世界観を担ってる重要な言葉であるかもしれないからです。

そして、何か違った視点から、相手が自分に起こっていることを考えることができる性質の質問であるということも重要だと思います。つまり、私たちが容易にその質問の答えを想定できるのような類いの質問ではないということですね。

また、こちらが意味づけを勝手にしないと言うことも大切になります。「辛かったでしょう」、「それは苦しまれたのですね」、「立派ですね」、「良かったですね」などのことは、相手に私たちの価値判断を提示して、それを受け取るように強要してしまうことがあります。素直な人ほど、自然に受け取ってしまうでしょう。そうではなく、相手がどのような意味づけをするのかをしっかりと聞くのです。

興味深いことに、このような一件何の変化も促進しないようなやりとりが、たいへん大きな飛躍を相手に提供することがあります。この飛躍の大きさには、私も戸惑うことが多々あります。その段階になると、その飛躍についていくだけで精一杯の状態になるのです。そして、そのときが、ナラティヴをしていて本当に良かったと思える瞬間です。

今、ナラティヴ・セラピーをより多くの人に伝えようとしているのですが、多くの人にこの瞬間を味わって欲しいと思うからだと、思い当たりました。

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この投稿は、以前に、「 カウンセリングにおける「圧がない」質問 」として、私のサイトに投稿したものです。NFACRのサイトは、デザイン共に古くなってきているので、どうにかできないのか検討中です。そのため、いくつかの投稿は、ナラティヴ・アセンブリのサイトに移行したいと思っているところです。