NPACCナラティヴ・メディエーションWSに参加して

6月14日(日)NPACC主催のナラティヴ・メディエーションのWSに参加した。約10年前に翻訳出版された『ナラティヴ・メディエーション―調停・仲裁・対立解決への新しいアプローチ』の中から、8章に掲載されているシナリオ・ロールプレイが上演された。シナリオは3回に分けて演じられ、その都度小グループでのディスカッション、全体でのシェアを行った。配役毎に演じて下さったおかげで、会話が臨場感を伴って迫ってきた。この日は1日タップリとメディエーションについて学ぶことができた。

このようなWSに参加するといつも思うことは、自分ひとりではとても到達できないところに連れて行ってもらえることであり、とてもありがたい。頭の中での考えや思考は勿論のこと、その時々の体験や喚起されたイメージもまた同様である。その時に見えた(つもりの)景色はあるのだが、まだ自分と馴染みがないせいか「大事なことをつかんだ気がしたのに…。はて、なんだったっけ?」となってしまうことがしばしば、ある。消えてしまうには勿体ないような気がして、振り返りを書こうと思う。

[追記:この文章は書いたものの、それっきりになってしまっていた。先日の仲間との勉強会で、このエッセイを書いていたことを思いだした。やっぱり自分ひとりではなかなか到達できないことが、誰かからの影響やお陰で辿りつけることに感謝したい。]

対立する2人が同席する、ということ

これは、一方(A)が調停者と会話する内容やそこで起こっている作用を、もう一方(B)が聴いたり体験したりすることを可能にする、と考えられる。例えばAは調停者との会話において、Bには話せなかったこと、実は以前から思っていたこと、考えていたけどできなかったことなどが語られる。それをBが聴くというのは、単純にBから見てAへの理解が増えていく過程となるだろう。これが内容に関することだと思う。ただそれだけでなく(むしろこちらの方が重要な気がしているのだが)、Aが調停者と話しながら、調停者の言葉を取り入れ、言葉遣いが変化していくのを目の当たりにする。

以下に細かく説明したい。まず、調停者はAの意図や考えについて、Aへの敬意を払いながら質問し、Aの話しを聴いていく。そこに応えるかのように、Aもまた調停者の質問の意図や考えを汲み取りながら、会話が進む。時にAは、調停者との調和を図るかのような言葉遣いを選びながら表現していく。Aが調停者との会話を通して言葉が変容していくプロセスを、それは些細なことかもしれないのだが、Bは見ることになる。すなわちBとしては、Aは自分との関係性においても調和的に変化し得る可能性があるのかもしれない、という微かな希望をイメージすることができる。このように、会話の内容というよりも会話のやり取り自体から、構造上の作用のようなものを生じさせ、それが伝播していくような感じであろうか。

つまりBにとってAは、「話しても無駄」というところから「話していったら少し変わる可能性があるかもしれない」というところに導いてくれる。関係性の微々たる変化がAと調停者の間で生じ、次に調停者とBの間でも生じていく。この小さな小さな積み重ねの先に、AとBとの関係性への変化の可能性が見えてくるのではないか、と考える。

調停者によってプロットが変更される

会話に変化が起こっていくためには、調停者の姿勢というか立ち位置が重要だということが、何度も話題に上がった。調停者は何を目指して会話をしていくのか? という大きな問いがそこある。

ナラティヴ・メディエーションも、当然ながらナラティヴ・セラピーと同様、「人が問題なのではなく、問題が問題なのである」という立ち位置を目指す。まず、2人に対してこの場への希望を尋ねる。外在化する会話によって、それぞれが〈問題〉だと感じていることをそれぞれから距離を置くように誘い、そこからどのような影響を受けてきているのか、〈問題〉によって何が蔑ろにされているのか、教えてもらう。会話の方向性としては、2人の希望を邪魔している、2人の関係性に入り込んでしまった〈問題〉に対して、2人はどうしていきたいか? という文脈に招き入れていく。こうなると、もう対立のストーリーを話すプロットは用意されていない。調停者からの問いによって、2人が話していくプロットは、〈問題〉との関係性や今後の希望について話すことしか残されていない、という地点におのずと運ばれる。

ここで考えてみたいことは、2人は希望も持ちながらも、スタートは「対立のストーリー」を話しに来たはずである。お互いの言い分や正当性があり、そこも聴いて貰いたいと思って来てたのではないか、という視点である。しかし調停者の方は、2人の言い分は勿論聴くがそこに留まるのではなく、“それから”に力点が置かれれていく。<その関係性に入り込んでいる邪魔を、2人はどうしていきたいのでしょう?>というような、その先の道を一緒に進みませんか? という誘いを大切にしているのだと思う。このような誘いかけは、丁寧さやタイミングを欠いてしまうと、一気に反感を食らう可能性があるのではないか…という不安が、正直なところ頭をよぎる。でも、おそらく対立の先に進むためには、関係性に入り込んでいる〈問題〉が、必ず2人の外にあり、2人はその〈問題〉に対して、どう関わるかの術を持っており、扱っていけるはずだ、という信念のような視点が必要なのだと思う。人に対する強い信頼感をこちらが事前に持っておくことの重要性を感じている。

「『共感的理解』の教育」が、気にさせること

上記のように「対立のストーリー」から、プロットを変更していくにあたって、どこか自分の中の違和感というか難しさを感じる部分があった。そこについてもう少し考えたい。

わたしは長くPCA(クライエント中心療法)を学んできている。そのため「相手の言葉を使うこと、相手の言葉を伝え返してこちらの理解を示すこと」が、それこそカウンセリングの最重要なこととして刷り込まれている。このことは最重要なこととして大切にしたいと今でも思っている。しかし、KOUさんが少し話して下さったように、「それだけではメディエーションは乗り切れないのではないか?」ということを考え始めている。

対立する2人がいる、とする。それぞれの言い分を、それぞれの気持ちや考えに沿って丁寧に聴いたとしよう。それをお互いが見ていたとしよう。果たしてそれだけでメディエーションが進むかと問われれば、おそらく進まないだろう。むしろ、どちらにもいい顔をしている調停者として、どちらからも愛想をつかされる可能性だってあるだろう。調停者はどういう立ち位置で何を聴くのか? 調停において、2人の間のオルタナティヴ・ストーリーを探していくためには、繰り返しになるが、いわゆる〝共感的理解″だけでは、乗り切れない、乗り越えられないところが多分にあるのだと、現時点として書いておきたいと思う。2人の希望に対して、2人の関係性にどのような〈問題〉が入り込んでしまっているのか、そこでの会話を紡ぐ立ち位置と、そこに留まる覚悟が必要となっていく。

そうすると、どちらかの会話が以前の〈問題が染み込んだストーリー〉に戻りそうになったとき、共感的理解を超えて、時に会話にストップをかける必要性があることも理解できる。“理解できる”というところまで来たが、ではやれるか? となると、もう少し時間と勇気が必要だな、と今は思う。克貴さんが少し話して下さったように、普段のナラティヴ・セラピーでも、同様な場面が想定できるとは思う。メディエーションだけに限定せずに、ここは広く考えながら少しずつチャレンジしていきたい。

当事者間の「文法上の一致をつくり出す」こと

さて、今回ここのわからなさをグループでも全体にも表明してみたところ、示唆に富むたくさんの反応を頂いた。みなさまに感謝している。

“ナラティヴは思想や姿勢だ”というが、それを目に見える形で体現しているのは、言葉遣いだと思う(もちろん雰囲気、表情、身振り手振りなどが伝えることがたくさんあるのは前提である)。外在化する会話に代表されるように、問題を人から離していくためには、主語を名詞化していくような、文法上の工夫が必要となってくる。わたしはもともと文法があまり得意ではない。日本語は、母語ということでなんとなく、なんとかなってしまっているが、英語がとても苦手である。おそらく文法への意識が薄いのだと思う。そのような中での私の理解である。

2人の中での対立のストーリーが「このすべてのこと」というまとまりをもって、名詞化された。そうすると、「すべてのこと」として主語に置くことを可能にする。そして「『すべてのこと』は、AさんとBさんとの関係にどのような影響をもたらしているのか?」という文章を作ることができる。すなわちAさんとBさんとの間の対立の物語だったところから、「すべてのこと」に影響されているAさんとBさんとが、並列に(横並びに)置かれる関係性へと変化する。ここから、様々な展開が待っていた。まず「すべてのこと」の中に巻き込まれなくなると、Bさんが「すべてのこと」対して、してきたこと・しようと思ったこと・しようと思ったが出来なかったこと、が語られやすくなった。Bさんの主体性が発動しやすくなったとも言える。そこから具体的なエピソードが語られることにつながっていった(行為の風景からアイデンティティの風景にもつながる可能性に拓かれる)。次に、名詞化することの意味である。「名詞化すると、言葉の構造上、動きがストップして凍るのだ」と教えて頂いた。語られてきた〈問題の染み込んだストーリー〉が名詞化されて凍ってくれれば、そこから再び問題として動きだすことが難しくなる、と理解した。これは「確かに!」という大きな驚きをもって入ってきた。さらにこの後は、文法上主語である名詞の後に、述語である動詞として置かれていくと、この〈問題の染み込んだストーリー〉からどのように動き出すか?(どのように変化していくのか?)というところに移行できるようになる。「動詞は継続している過程を前進させるものである」(p180,l26)を、何とか理解し得るところまで辿りつくことができた。

もうひとつ、「中動態」という「態」についても教えて頂いた。『中動態の世界』という本の存在は知っているが、いまだ読めていない。話に上がる度に、読みたい、読まなければ…と焦る気持ちが生じながら、ほかにも読むべき名著が、後ろから追いかけてくる。今の理解として、被害/加害に陥らない言語体系の可能性があること、ナラティヴとの関連が大きそうだ、というところで、ひとまず置いておこうと思う。

さいごに

今回のWSでは、メディエーションという側面から、ナラティヴ・アプローチへの理解を深めることができた。特に会話のやり取りが作り出す作用や、文法上の工夫など、普段あまり着目できていないところについて考える機会となった。イメージ的には、ちょっと荒々しく寒々しい海を、浮き輪を投げて貰って(人の力を借りて)泳いできた感じである。でもここまで泳いできてふと思うことは、文法上の工夫を含め、スキルとして使ってしまうことへの危険性である。なぜそのような工夫をするのかという理論的な背景を考えながら、取り組むことが大切なのだと思う一方で、学んだことに捕らわれすぎて、目の前の人の語りを見失うことが一番恐ろしいことであると思った。技法やスキルというよりも、より柔軟に「art」として、即興的に実践できるように学んでいきたいと、心から願っている。