以前より、オープン・ダイアローグで有名になったヤーコ・セイックラが、自身の論文の中で(Seikkula, 2008)、ミハエル・バフチンことを引用していたところが気になっていた。それは次のところである。
バフチンによれば、自分自身を知るのは、他者の目を通じて自身を見ることによってのみ可能なことなのである。私は、他者の目を通じて私自身を見る(Bakhtin, 1990)。バフチンの考えでは、私たちが、存在している人として自分自身を見たければ、鏡に映った自分を見る際に、他者の目を借りるしかないのだ。
このことについて、結構いろいろと考えていたのであるが、先ほど「ナラティブ・メディスンの原理と実践」に収められている論説を読んでいて次のところを見つけたので、ここに転記しておく。
以下は、引用。
ドストエフスキー作品のもっとも偉大な文芸評論家の人であるミハイル・バフチンは、地下室の男のモノローグを孤立感と関係性との間でくねくねと練り上げられた相互作用であると示している。バフチンが示すように、地下室の男は実際誰かとの対比でしか自分のことを定義できない。(その場その場で)明確であろうと、暗黙であろうと、責任転嫁であろうと、期待されようと、無視されようと、拒否されようと、その誰かが必ず存在する。地下室の男は、実体のない聴衆に向かって呼びかけている。
おそらくあんた方は、おれが笑いを狙っているとでも思っているんだろう? ところが、それも間違いさ。俺は、あんたたちが思うように、あるいは思っているかもしれないような、やけに明るい人間とは、およそ訳が違う。とは言え、あんた方がこの長ったらしい駄弁にイライラしているとしたら(イライラしているのは、俺も既に感じているさ)、いったいお前は何ものなんだ? と尋ねたいだろう……[13]。
バフチンが述べているように、「主人公の自分自身に対する態度は、他者に対する態度や、自分に対する他者の態度と不可分に絡み合っている。彼の自意識は、自分に向けられた他者の意識の背景に対して常に感知されている……」[14]。バフチンは地下室の男のモノローグがより抽象的な哲学の部分さえも含めすべてが、実は関係的であると示している。彼が説明しているように、「世界についてのかれの言葉は、自分自身についての言葉と同様、深く対話的である。世界の体制にたいして、あるいは自然の機械的必然性にたいしても、かれは、あたかも話しているのは世界についてのではなく世界とであるかのように、生き生きとした悲鳴を投げかける」[15]。こうして、テクストのあらゆるレベルにおいて、「モノローグ的な言葉は一つも存在しない」のだ[16]。
(Spiegel, M. & Spencer, D., 2017/邦訳28-29頁)
Bakhtin, M. (1990) Art and Answerability: Early Philosophical Essays of M. M. Bakhtin, trans. Vadim Liapunov. Austin: University of Texas Press.
Seikkula, J (2008). Inner and outer voices in the present moment of family and network therapy. “Journal of Family Therapy, 30: 478–491
Spiegel, M. & Spencer, D., (2017). Accounts of self: Exploring relationality through literature, In The Principles and Practice of Narrative Medicine. Oxford University Press. 斎藤清二・栗原幸江・斎藤章太郎 訳 ナラティブ・メディスンの原理と実践 2019 北大路書房
[13] ドストエフスキー「地下室の手記」 安岡治子訳 2007 光文社
[14][15][16] ミハエル・バフチン「ドストエフスキーの創作の問題」 桑野隆訳 2013 平凡社ライブラリー