再び書けない理由を考える

少し、ナラティブからは離れてしまうかもしれませんが…。こういう場(誰かこの文章を読む人が存在するという場)に載せる文章を作るということが、やはりとても難しいと思うので、再び書けない理由を考える回です。6日間のナラティブセラピーワークショップを終えた後、いろいろなことを考えていました。それをなんとか表現しようとして何度も(少なくとも5回以上)挑戦しましたが、結局最終的に破綻してしまうということを繰り返しています。さすがに段々情けなくなってきたのですが、何がそんなに難しいのか考えていたら少しだけ希望が見えてきたのでシェアしてみようと思います(要するに長い言い訳です…笑)。
前回、取り留めなく思ったことをとにかく書いて投稿したので、だんだん投稿のハードルは下がってきています。今、私を悩ませているのは、考えがまとまらない問題です。具体的には、一つのことを書いている途中で「あれ?」「これってなんでそう思うのだっけ」「あ、あの時気づいたことを関係するんじゃないか…」といった具合に謎が謎を呼び、どんどん話が違うところへ伸びていってしまう現象です。とりあえず、引っかかったことを一つ一つ検証して文章にしていくのですが、そうすると今度は最初に考えていたことから最終的にたどり着いたところまでをまとめていくことが大変困難になります。読む人のことを考えて道筋を説明していくと、それはそれで冗長な文章になってしまいます。そうやって、今私のパソコンにはたくさんの考えのかけら(途切れた文章)が溜まっていっているところです。
こんな作業をしていると、小学校の時に課せられていた宿題のことを思い出しました。私の通った小学校では、毎日自由帳一ページ分、自分で好きにテーマを決めてまとめるという課題が出されていました。これが、私にとっては大変時間のかかる作業でした。一応テーマを決めて取り掛かるのですが、まとめたり調べたりしているうちに次々に疑問が出てきて、それについてまた調べて…とどんどん横道にそれていくのです。最終的には自分の調べたことはこのテーマではまとまらない…と一からやり直すこともありました。けれど、今思うと、「わかったつもり」や「覚えただけ」で済まさずに、そんな風に時間をかけて自分が納得いくまで考えて理解して積み上げる経験ができたのは大変貴重なことでした。そういう作業から、純粋に“わかる面白さ”を学習していたように思います。それは宿題という側面はありましたが、日記や漢字帳よりはずっと主体的な活動でした。
今回の6日間のナラティブセラピーワークショップを経て、私はやっと自分がセラピストとして実践することについて考えるようになりました。そこまで来てようやく、これまで聞いたり見たり体験したりして「分かったつもり」になっていたことも、(当然ですが)自分が実際にやってみると全然わからないことがわかってきました。たぶん、わからないことが多すぎて、思考が散漫になるのだと思います。けれど、そういう一つ一つのわからないこと、いまいちピンときていないことについて考えることが、今は楽しい作業です。それがいつかつながっていくという期待や、疑問を掘り下げていくこと自体の面白さは、小学校の宿題から教わっていたようです。
今の私にとって、アセンブリへの投稿はそういう苦労と楽しみを味わう作業です。うまく形にまとまらなくても、とにかく納得いくまで消化してみる時間をもつことが重要に感じています。そういう意味で、「投稿する」というちょうどよいプレッシャーとチャレンジの機会があることはありがたいことです。こういう機会が与えられたことやちょくちょく刺激をもらえることだけでも、NZに来た甲斐があるように思います。
さて、こうして書いてみると、思ったよりナラティブのことを考えている自分にも気づきます。(ホームステイ先で大好きなオペラを見せていただいても、ストーリーの中に権力の働きを見つけて気になってしまうような状態です。)これだけ長々と言い訳をしたので、いつか、今ため込んでいる文章が何かの形につなげられるように、諦めずに挑戦してみようと思います。

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