書くことに響く多声1

「職場の人たちとも合わないし、仕事もうまくやれていない気がします。毎朝電車に乗るのがつらくて…」と話すことと、「職場の雰囲気にもなじめず、仕事も満足にこなせない日々の中で、電車に乗ることも苦痛だった」と書くことは、違った語り方であり、異なる現実を立ち上げます。誰かについて「聴覚過敏が顕著で、発達障害の可能性がうかがわれる」と書くことと、「彼の音に対する鋭敏な感覚は、彼の世界の鮮やかさを際立たせるようだった」と書くことは、彼と彼の世界をまったく違うものにします。
この数年、ナラティヴ・プラクティスの中で<書くことwriting>にとても心が傾くようになりました。

そもそもM.ホワイト&D.エプストンの最初の著作「物語としての家族Narrative Means to Therapeutic Ends」の後半(第3章・第4章)は、クライエントへの手紙をはじめとして文書documentsについての記述で占められています。一方、T.アンデルセンとの親交の中でリフレクティング・プロセスやバフチンの思想、なかでも多声性に開眼したP.ペンは、クライエントやその家族に手紙を書いてもらうことをセラピーの中に組み込みました。そして、R.シャロンによって創始されたナラティブ・メディスンでは、医療者(これを支援者として広くとらえることは、十分に可能です)のナラティヴ・トレーニングにおいて、<書くこと>が決定的に重要な役割を果たします。

<それまでとは異なる語り方>のためのスペースを拓き、支え、つなぐこと-ナラティヴ・プラクティスを私は自分の中でこっそりこう定義してきました。それを実践する者practitionerに求められる力量、すなわち物語能力narrative competenceとは、語られることの背後にはつねに語られないこと/語り得ないものがあることへの畏れと謙虚さを保ちながら、多重/多様な聴き方に開かれていられること(それはナラティヴ・セラピーの「質問」を可能にするひとつの土台だと考えます)ではないか、とも感じます。決して聴き切ることはできないという自覚と、それでもなお聞き届けようとする献身commitmentという物語倫理narrative ethicsが、そこには深く関わっているはずです。

<書くこと>は、<それまでとは異なる語り方>あるいは「多声化」のための魅力的なルートになるのではないか。あるいは、<書くこと>の訓練は、人(自分自身も含めて)と世界を多重/多様に受け取る力を高める上で、対人支援職に有効ではないか。文書が、記録、保存、共有、再読、認証を通して、語り直されたものを支え、厚くする上で強力なツールになることはナラティヴ・アプローチではすでに定石かもしれませんが、<書くこと>の可能性をさらに探求してみたい―
明日5月19日土曜日、サポーターズ・ライティング・プロジェクトがそんな気持ちの中から始動します。

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