見立ての8割は間違っている衝撃

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大学生や社会人のキャリア支援をしているキャリアカウンセラーの「たく」です。
「市井の人のナラティヴ・セラピー」の、日々のちょっとした奮闘をリアルにつづります。
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自分が学んできたキャリアカウンセリング(コンサルティング)の世界では「見立て」という言葉を使います。
「医者の見立て」とか言いますよね。何かを見て、「こうだろう」と判断すること、という意味で使われることが多いようです。
(自分はこの「見立て」というのがあまり好きな言葉ではなく、ホントに必要なのか、なんて思うのですが、今回はそれが本題ではなく・・・)

資格の講座や試験で、よく「見立て」という言葉が出てくるので、自然と「この人はこうなのだろうなぁ」なんて、出会った瞬間に漫然と思うことが多かったです。
自分の例でいうと、大学生の就活支援の場では、相談カードを記入してもらいます。
その相談カードに書かれていることから、「この人はこういう人で、こういう感じですすめようか・・・」なんて勝手に想像していたのが、ナラティヴ・セラピーを実践する前の状態でした。

ただ、ナラティヴ・セラピーをニュージーランドで学び、自分のできる範囲で実践していくと、なんとまあ、この見立てが間違っていること、間違っていること。
CMで当社比○○%、なんて出ていますが、自分の感覚では、8割以上はその「見立て」というのが間違っている感覚があります。

いかに今まで相手の話をホントに聴くことができなかったのか、愕然とします。
ナラティヴ・セラピーを学んだときに印象に残る言葉が「その人の人生を語る権利を持つのはその人自身」というのがあります。
その人の人生の(問題の)専門家として、教えてもらう立場でまっさらに聴かせてもらう。
そこには、わけのわからない「見立て」など存在しない。

すると、そこにはいかにその人生が、その問題が、ここまでたどり着いてきたか、その変遷が豊かで、もっともっと聴きたくなります。
自分が想像できるものなどホントにちっぽけで、今までちっぽけな想像の中でかかわってきたんだなぁと。
それは聴いている側が苦しくなるはずです。
自分の想像の中でもがいていて、現実には存在しない世界で戦っているのですから。

ナラティヴ・セラピーを身近にして2年近く。
自分は、「見立て(思い込み、という言葉のほうがしっくりくるかもしれません)」をすることなく、今フラットに相手の話を聴けている(耳を傾けようとしている)自信があります。
それが相手の役に立っているかどうかは別として、以前よりも興味関心好奇心をもって、驚きとともに豊かな物語を聴けています。
そのことは、自分を楽にして、きっと相談してくれる人も「もっと話してみよう」という会話へのいざないができているように思います。

そして、「市井の人のナラティヴ」は続いていく・・・。

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2年前にニュージーランドにナラティヴ・セラピーを学んで「これは身近なものにしてみたい!」と、日々のちょっとした等身大の奮闘などをリアルにお伝えできれば。
目標は「日常にナラティヴ・セラピーを」「市井の人のナラティヴ・セラピー」を目指して、週1回のペースで書いていくこの内容が、誰かの「ナラティヴやってみようかな・・・」という第一歩につながることを願って。
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