気仙沼向洋高校の新校舎落成式に参加するために訪問して(その1)

東日本大震災の後、宮城県気仙沼で、緊急派遣カウンセラーとして足かけに2年間、高等学校で勤務しました。勤務終了後、私はすでに移民の手続きを完了し、家族が移り住んでいたニュージーランドに行きました。しかし、現地の人びととの関係性は続きました。1年から2年に一度、現地を訪問し、現地の様子を見たりすることができたのです。

今回、気仙沼向洋高校の新校舎が完成したので、その落成式(11月22日木曜日)に参加するために、昨日から気仙沼に来ています。この記事は、朝、ホテルで書いているところです。ですので、まだ落成式には参加していない時点での記事です。

昨日、志津川高校の教員に出迎えてもらい、南三陸町の町並みを見ながら、気仙沼に入りました。道中、気仙沼向洋高校の前を通ってのことです。そして、気仙沼高校に入り、全日制と定時制の様子を教えてもらいました。そして、夜は、以前にいっしょに活動した西嶋さんという臨床心理士も島根県からかけつけてくれたので合流し、いっしょに活動した人たちといっしょに食事をしました。

いろいろな話を聞く中で、私は、震災被災地での心理援助職の活動について、いろいろと考えをめぐらせています。当時自分の勤務が終わった後にもしっかりと言語化する必要があり、「震災被災地で心理援助職に何ができるのか」という本を出版もしています。これは、自分の経験やそこから考えたことを、自分なりに語りきることができたと思っていました。ところがその後、この地を訪れるたびに何か別のこと、新しいことを感じ、考えています。そのことの一部を何かここで言葉にできないだろうかと思いながら、この記事を書き始めたという次第です。つまり、まとまっていないのですが、書きながら、どのようなことが私は書けるのだろうかということを見てみたいという気持ちから、書いているところです。

 

【わかりにくい状態に置かれていることがらに対して気づいていること】

被災者支援を実践することが、私の派遣される(つまりはお金を支払われる)ことの主な理由です。ところが、被災者は誰なんだろうかということを考えずにはいられません。それは、家を失った人、大切な人を失った人、仕事を失った人というような「代表的な被災者」がいることにすぐ気づくでしょう。この人たちに対応することの重要性は、けっして変わることはないのです。ところが、私たちがすぐに気づけるような状態ではないものに苦しんでいる人たちもたくさんいるのです。

支援という名の下で、わかりやすい状態に「だけ」対応することは、それ以外の人びとを周縁化し、その人たちの声を奪い、私たちが「それ以外」のことにはどのようなことがあるのか気づけないままに終わってしまうという連鎖に陥ります。

活動していながら、「それ以外」のことのひとつに気づくことができるたびに、自分が気づけないことが他にもどれだけあるのだろうかという懸念を持っていたような気がします。つまり、自分が見えていることだけ、気づいていることだけで対応しようとすれば、私の振るまい、言動、意見が、人びとを黙らせ、周辺化させてしまうことがある可能性に気づいている以上、「まだ知らないこと」に対してどうしたらいいのかと考えなければなりません。

ところが、私が気づけることがらは有限です。それも、非常に限られています。どんなに「それ以外」のことを知ろうとしても、全部を知ることはできないのです。これは、私の能力の問題だけではないはずです。そのような中で、私がせめて維持できるものは何かと考えると、「まだ知らないことがあるという姿勢」だけのような気がします。

勤務が終わってから何度か再訪していますが、私は、この姿勢が私と現地に人びととの間をつなげてくれているのだと思えます。今、現時点で聞く話は、実はわかりやすい状態のことについての話ではなく、その時にあまり言えなかったことなどが含まれていることがあります。もし私が、「まだ知らないことがあるという姿勢」を持っていることを相手に伝えることができていなかったら、今でもそのような声は拾えなかったと思うのです。声は聞こえてこないままだったでしょう。

私は、自分の臨床を大きく支えてくれるものは、実は教科書ではないと常々感じています。実際のところ最近はあまり心理学の本は読みません。それではなく、「まだ知らないことがあるという姿勢」からもたらされた、周縁化された声、つまり、通常そのことを表現することを推奨されない体験、意見、考えなどの蓄積ではないかと思うのです。

このことを私は実感として持っている以上、「まだ知らないことがあるという姿勢」をこれからも維持したいし、そのことによって臨床家として大切ななにかを積み上げられると、確信できるようにまでなってきています。