ナラティヴ・メディエーション WSに参加して-カウンセラーが行っていたこと-

12月21日、大阪でナラティヴ・セラピーの勉強会をしている「ナラアティヴ・アコーナ」がkouさんを迎えて「ナラティヴ・メディエーション」のワークショップを開いてくださり、それに参加してきました。ロールプレイでのデモセッションがあり、そのプロセスについての参加者による討議とふりかえり・わかちあいを通して、カウンセラー(kouさん)が行っていたことについて、気づいたことを書き留めておきたくなりました。

Kouさんが行っていたことというのは、kouさんの言動が及ぼしていた影響ということであり、そこで生まれた、「クライエント役割の人との間で起こっていたこと」という方が正しいかもしれません。セッションの中で、カウンセラーのkouさんは、実に様々な役割をされていた(影響が起こっていた)ことに驚きました。以下に、その働きを書き留めたいと思います(kouさんはカウンセラーとして書きます)。

  • 場を作り、セラピーの枠組みとなる

カウンセラーはまず、メディエーションを行う「場」作りをします。メディエーションを行う必要がある人たちは、何らかの葛藤状態にありますが、カウンセラーは最初に「それぞれの立場からの話を聞きたい。それからどうしていくかを、3人で考えたい。」と提示しました。カウンセラーの存在は、彼らが陥っている日常の関係性から離れ、「非日常」の場へと誘います。さらにここではどのようにふるまい、ともに何を目指していくのかという「規範」を示すことになったと思います。クライエントは「ここではカウンセラーに向かって、自分の立場から話をしてよいのだ」ということが保証されたと思います。カウンセラーの存在は、その場をホールドしていく「枠」となったと言えるでしょう。

  • 発言の内容を整理し、その場に示す(リフレクトする)

カウンセラーは順番に、それぞれの人の思いや考えを聞いていきます。カウンセラーはクライエントが使った言葉をそのまま取り出し、そのエッセンスを確認します。クライエント役割の人が述べていたように、それはまるで「お盆の上に、ひとつひとつ、その人にとっての事実や思いが並べられていくよう」であり、「ここにこれがある」と共有する働きがありました。

またこのカウンセラーの動きは、クライエント役割の人にとっては「黒子のよう」な感じがしたと述べられていました。カウンセラーはまるで壁打ちをする時の壁のように、クライエントの発言を受け止め、返す、というリフレクティングの働きをしており、クライエントは自分の語りをもう一度、カウンセラーの声を通していくことになります。

このやり取りにおいては、クライエントに「同じ分量だけ発言の機会が与えられている」ということがポイントとなっていたように思います。

  • 一歩先に誘う

カウンセラーは、それぞれの立場から見える事実と、それに対する本人の思いをその場に提示していきますが、そのことをもう一方の当事者に返す時、「相手の発言についてどう思うか」という問いかけをしませんでした。カウンセラーはもう一方の当事者に対して、「今の話を聞いて思ったこと、見えたことについて聞いてもいいですか?」と問います。この問いかけは、一見よく似ているようで、異なった影響を及ぼすものだと思います。

「相手の発言についてどう思うか」という問いは、日常の関係性からの発言を誘発させ、相手をこれまでの関係性に留める働きを持つのに対し、「聞いて思ったこと、見えたこと」を聞く問いは、お互いの関係性を一歩進める可能性を開くものだと感じました。カウンセラーは「これまでに起こっていたこと」を明らかにする一方で、「今、ここで起こっていること」を扱っていました。

  • クライエントの表現と理解を助ける

クライエント役の人の発言を、カウンセラーが自分のことばで言い直す場面がありました。その時のクライエントの発言内容は、もう一方の当事者にとってはすぐに受け入れがたい内容であり、話をしているクライエントも言葉を選びつつ、うまく話せていないもどかしさが伝わってくるものでした。その時、カウンセラーは「自分の言い方で言い換えてしまうかもしれないけれど…」と前置きしたうえで、クライエントが言おうとしていたことを言語化しました。このことは、クライエントの表現を助けることだけでなく、もう一方の相手自身にも受け入れやすい表現を提示するものでした。カウンセラーは片方の表現に注目するだけでなく、それを聞いているもう一方の理解も同時に視野に入れ、相互理解のための橋渡しをしています。

  • 相手に聞いてもらいたいこと・聞かせたいことを引き出す

葛藤を抱える二者の関係においては、それまでの関係性があるからこそ、伝えられない(伝えることができない・伝えるチャンスがない・伝える気になれない・伝えるすべがない)でいることがあると思いますが、カウンセラーの問いによって、日常生活の中では語られることのない思いをクライエントが言葉にしていくことが可能となります。そしてナラティヴ・メディエーションにおいては、カウンセラーの問いによって当事者の一人が語ることは、もう一方の当事者に聞かせることでもあります。

メディエーションでは、このことがとても意識されているように思えました。カウンセラーは、これまでの二者の関係性の中では出てこなかった、もう一方の当事者に聞いてもらいたいこと・伝わってほしいことに焦点を当てた問いを重ねていました。

カウンセラーに語る中で、クライエントはこれまで表明できなかった相手に対する自分の思いを言葉にし、直接、隣にいる相手に語り掛けたくなることも起こりました。この時、カウンセラーは二者の直接対話を促すでしょうか?このセッションの中では、カウンセラーは直接対話を促しませんでした。それは、片方の当事者が直接対話を望んだとしても、もう片方の当事者にその準備が無かったからです。セッション後のふりかえりにおいて、kouさんは「場合によっては直接対話もありうる」とおっしゃっていましたが、ここで、1で述べた「ここではカウンセラーに向かって、自分の立場から話をしてよいのだということが保証されている」という枠が守られていたのだと思います。

メディエーションの中で、二者の関係性はダイナミックに変化していく可能性があります。その時、カウンセラーは何を大事にして動くのかが問われていることを感じました。

  • クライエントのストーリーを表面化することを助ける

メディエーションの場は三者の関係を持ちながら、対話はカウンセラーとクライエントの二者で行われていきます。そこで行われていることは、通常のナラティヴ・セラピーと同様に、相手のストーリーを厚く、豊かに描写することを助け、「問題となっていること」の影響が明らかになることを助けるものでした。対話の中では、クライエント自身が自分のストーリーを紡ぐことが大切にされていたように思います。さらにそのことが言葉としてもう一方の当事者に届くことで、お互いの関係性に変化がもたらされていくプロセスがあったと思います。

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ワークショップの最後に私がとらえた上記の点を述べたとき、kouさんは「やっていることはとてもシンプル。相手の語りをちゃんと聞けることを大切にしている。」と言われました。それを聞いて、「なるほどなー」と思うと同時に、心の中では「いやいやいや、そんな簡単なことのわけないやろー」と、どこぞの漫才師のように手の甲でツッコミを入れている私がいました。

私はまだジョン・ウィンズレイドとジェラルド・モンクによる「ナラティヴ・メディエーション」を読んでいませんので、ここに書き留めたことは、もしかしたら焦点がずれたことかもしれません。kouさんご自身は、このナラティヴ・アッセンブリに、「ナラティヴ・メディエーション(デモセッションを通じて)」を投稿されています。その中で「このメディエーションのプロセスは、ナラティヴ・セラピーのセッションとあまり変わることはありません。ほぼ同じような姿勢で取り組むことができます。ただ、メディエーションならではの、工夫どころ、配慮のしどころはあります。」と書かれています。

Kouさんがしていたことが「とてもシンプル」なことであるならば、そのシンプルなことがこのような複雑な動きになりえる、そこの「工夫のしどころ・配慮のしどころ」というものを、いつか身に付けたいものだと思うワークショップでした。