ナラティヴ・セラピーとメタファー

この前メタファーについてあれこれ考えたことの続きです。
でも今回は、前以上にニッチな、そのうえ長ったらしい思考の羅列になってしまいました。

前回は、メタファーという意味を、単に日常生活での「物の例えや比喩」から、「A(実際のもの)というものを、B(別のもの)を使って表現したり、説明する」という意味に拡大して、私たちはある特定の世界観とそれを構成する言語セットを使ってしか、世界を見ることができないんじゃないかという話を書いてみました。そして、いわゆる心理学的な概念もその他の多くの言語と同じく広義ではメタファーに過ぎないということ、そして、たまに聞く「ナラティヴ・セラピーは物語(のメタファー)を使うんだ」という言葉の意味を、「物語という概念を中核に構成される世界観を採用しているけど、それが一種のメタファーであることには自覚的だぞ」ということを言いたいんではないだろうか、というところで落ち着けました。
そんな比較的大きい話をこの前したのですが、個人的には、そこを踏まえて、普段自分たちが日常でも使う「素朴なメタファー」がどんな意味を持つかについて考えたいなぁというのがむしろ本題でした。ここで「素朴なメタファー」と呼んでいるのは、「この世界の見方は全部メタファー的なんだ」みたいな抽象的なレベルの話ではなく、日常で普通に使う「今日は体中が”石になったみたい”に重いなぁ」とか「今の自分の状況は、昔に比べれば”天国みたなもん”だよ」とか、こういう比喩のことです。

なぜそんなことを考えたいかというと、日常生活を含め、カウンセリング場面でも、こういう素朴なメタファーがクライエントやセラピストの理解を助けてくれるような気がするものの、なんでそう感じるのかには説得力をもてないでいるというか、それを語る言葉を今のところ身に着けていないように感じるからです。つまり、自分がメタファーを大事に感じていることの、言い訳をしたいわけです。
また、メタファーの重要性について言及し終えたとき、ナラティヴ・セラピーというものがその重要性を十全に汲み取れる射程の広さを持つアプローチとして見えてくるような気がします。

✔「素朴なメタファー」とはどのあたりのことを呼ぶか
そもそも、どんなものを自分が素朴なメタファーと呼んでイメージしているかですが、いろいろな種類があると思います。前回の記事で「私たちの表現は全部メタファーだ」みたいなことを言いましたが、そうではなく、「素朴なメタファー」の中にもいろいろあると思うということです。ただ、「直喩」とか「暗喩」とか、その辞書的定義をしていると迷子になりそうなので、「こういうのってメタファーだよね」というところをあげていきたいと思います。
例えば「もう足が”棒”だよ」とか「”まるで地獄”だ」とか、一言でさらっと使う時もあると思います。「”物理的に”無理」なんて表現は最近よく耳にします。あるいは、「”八方塞がり”に感じる」とか「”とらぬ狸の皮算用”って感じ」みたいなイディオム、慣用表現もメタファー的です。「”遠足前にワクワクしてせっかくいろいろ準備してあれしようこれしようって考えてたのに、当日になって急に台風が来たみたいな”がっかり感」とか、あるまとまった物語全体でざっくりしたニュアンスを伝える表現も、ある種のメタファーだと思います。もっと行くと、童話や神話、小説などの物語を採用することもあると思います。「僕は”ホームズじゃなくて、ワトソンみたいな立ち位置”が好き」とか、「”シンデレラみたいな展開”がこないかなぁ」とか。また、自分の気持ちを色や音や天気で示したり、実際絵に描いて見せたりするのもメタファーでしょう。擬態語とか、擬音語とか、オノマトペも入るだろうし、数字を使う手もあります。「”100%”分からない」とか。
上げ始めるときりがありません。もっといろいろある気がしますが。どれも私たちが日常でも使いうる『素朴なメタファー』です。

✔「素朴なメタファー」が出てくるとき
では、こういうメタファーをどういう時に普段私たちが使うのかと考えると、それは、自分の体験を自分で理解しようとする時や、他者に自分の体験を伝えようとする時だと思います。あるいは、「それってこういう感じ?」と相手の体験を理解しようとしたり、そのすり合わせをする時にも出てくるかもしれません。とにかく、ある人の体験(主に自分の体験)を、理解・表現しようとするときに出てくるものだと思います。特に、「型にはまったような表現、既製の言葉では理解しきれない、伝えきれない」ような感じが出てきたときに、よく使われる気がします。そのような時に、今自分が持っていて使用可能な素材(言葉)を組み合わせていったものが「素朴なメタファー」として出てくるような気がします(こうかくと、「あり合わせ」みたいな感じがしますが、「ブリコラージュ」というと少し高尚な感じがします)。
例えば、「恋人にふられて悲しい」という表現があったとします。もしそれで十全に気持ちが表現されていたり、相手に伝わったと思ったら、そこから新たなメタファーにはつながらないと思います。ただ、それを表現しきれてないと感じる時、”死んじゃいたいくらい”とか、”世界が真っ白になったみたい”とか、メタファー表現につながっていくと思うのです。
私たちが感情を表現するとき、辞書に載っているような一般的な感情表現の言葉だけでは物足りないということはよくあると思います。「楽しい」「悲しい」「うれしい」「怒ってる」という単語に、「とても」「少し」と程度表現を付けたとしても、あまり豊かな組み合わせとは言えません。ある人が自分の体験を表現するとき、こうした表現は、なにか出来合いの、あまりにも一般的すぎる表現に感じられることは、よくあると思います。また、聞いている側も、めちゃくちゃ落ち込んでいるように見える人が「悲しい」という言葉にとどまっているのを見たら、「どんな風に悲しいのか」をもう少し知りたくなると思います。メタファーというのはそういう時に登場して、もう少し細部の意味や、広い文脈、そのあたりのニュアンスの理解・表現を助けてくれるものだと思います。
ちなみに、ここではいったん、「悲しい」「うれしい」みたいな感情表現の言葉を少し下にするような言い方に便宜的になってしまいましたが、その表現を安易に軽視してはいけないというのも付け加えておかなければいけないと思います。例えば、自分の感情に気付きにくいような人や、自分の感情を表に出すことを避けてきた人が、まずそうした言葉を使えた時、こうした言葉に宿る意味は非常に重要なものだと感じます。また、こうした一般的な感情の言葉も、「一般的な感情表現に使用する言語セット」とみなせば、私たちの感情を表現する最初の足場掛けになるような重要なメタファーの一つであるとみなせます。ただ、それでも、そうした一般的、辞書的な状態の表現に加えて、あるいはそれに満足出来ず、素朴なメタファーが探索されていくということもまた、自分の体験をより表現・理解していくうえでの重要性を持つのではないかということです。

✔『言葉を探索するという』プロセス
ちなみに、こう考えると、メタファー表現は、それ単体ではなくプロセスとしてみる必要があるということが見えてきます。「自分の感情状態を表現できなかった人が『悲しい』と言えた」という時と、「自分の感情を『悲しい』という一言で表現していた人が、『お先真っ暗』とさらにメタファーを付け加えて表現した」という時では、『悲しい』という言葉が持つ意味や表情が変わってきます。前者では『悲しい』という言葉を獲得することが意味を持ち、後者では『悲しい』という言葉から『お先真っ暗』へと言葉をさらに探索することに意味があります。それはどちらも、今まで表現できなかった言葉・表現をさらに探索・発見していくプロセスです。そのように、自分の体験を言語化する、という探索をしていくために、私たちは素朴なメタファーを使うのではないかと思うのです。
ちなみに、なぜプロセス的であることを強調するかというと、「何か自分の『本当の』気持ちを過不足なく表す『真実的な』言葉(メタファー)にたどり着くこと」という考えは採用したくないからです。そのような見方をしてしまうと、『今ここで使われた言葉』はいつも重みを失います。なぜなら、それが「真実の表現」かどうかは誰にも知ることはできないので、相手の言葉自体ではなく、その先ばかり見てしまうことになると思うからです。まぁこの議論は、今回の「素朴なメタファーの大事さ」からは離れてしまう気がするので、今はやめておきます。
ただ、メタファーを使うということは、自分の体験を言葉にして構成し直してみて、それがしっくりくるかどうかを考えたり、あるいはその体験の意味をより理解可能な方向に押し進めたり、あるいはこれから目指したい方向に向けて体験を構成し直してみたり、そういうアクティヴなプロセスとして理解する必要があるんではないかということです。

✔メタファーがもたらしてくれる様々なもの
さて、この辺りでそろそろ「素朴なメタファー」がなんか大事な気がする、ということの内容について色々な可能性を考えることができる気がします。その大切さはいろいろある気がするので、議論が拡散するかもしれませんが、思いつくところをバーッと書いてみたいと思います。どれも重なっている部分もあれば、同じことの裏表じゃないかというようなものもありますが、そこはあえて分けて書いたりしてみます。

〇体験により近い表現・理解のためのアクセス可能な領域を増やす
言葉を当てるということは、自分の体験を理解することだと思います。「とても悲しい」と言語化され、他の表現が見つからない時、その体験の理解は「とても悲しい」というものになると思います。もしかしたらそれで十分かもしれませんが、もう少し自分の体験(lived experience)に近い言葉を探すこともできるかもしれません。別の表現への可能性は常に開かれています。メタファーは、その別の探索可能な領域への可能性を豊かに開いてくれると思います。
自分で口に出した「とても悲しい」という表現をより豊かにするために、「”この先なにもいいことが起きない”ような気分」と、悲しみの質を探索できるかもしれません。あるいは、その表現がしっくりこず、「んー、悲しいというより、”やりきれない感じ”かな」と別の言葉を当てはめてみるかもしれません。そのようにして、自分の体験によりしっくりくる表現を探したり、より具体的、詳細に自分の経験を理解する上で「素朴なメタファー」は非常に重要な位置を占めると思います。自分の体験という「わけのわからないもの」を、すこし「わけのわかるもの」にする探索というのは、わざわざ理由をつけなくても、重要であることはわかると思います。そこを掘ると、全く別の哲学的な議論に行ってしまう気がするので、今回はしないです。

〇体験からの距離を漸増させる可能性
「素朴なメタファー」を使っていくことは、説明しようとしている体験と、説明している自分自身との間に、ある種の距離を置いてくれるように思います。この前、メタファーというものの定義を、「A(実際のもの)というものを、B(別のもの)を使って表現したり、説明する」と広く設定しました。ただまぁ、ここまでの議論から考えると「実際のもの」という言葉も使いたくないので、「A(今言葉にできてきた体験)を、B(これから手に届くかもしれない言葉)で表現・説明しようとする」としたほうがいいかもしれません。そうすると、「AをBに置き換えた」分だけ、その体験からの距離が増すと思うのです。これは、「素朴なメタファー」の結構重要なところだと思いますが、論理的にだけはうまく説明できる気がしないので、例を使って直感に訴えたいと思います。
例えば、「学校にいるのがつらい」といった子供がいるとします。果たしてそれはどんなつらさなのか、話をしていくうちに「学校に行っている間は、”水の中でずっと息を止めていてどんどん苦しくなるような”感じなんだ」という素朴なメタファーが出てきたとします。この時、その子供自身、あるいはそれを聞いている周りの人が、「そうか、そんなにつらかったのか」とより思えるのは、おそらく後者の表現においてだと思います。なぜなら、その体験が帯びる細かなニュアンスがより豊かに包含された表現だからです。そして、「そんなにつらかったのか」というのは、ただ「つらいんだ、つらいんだ」と言っている時よりも、自分の体験を外から、あるいは別の角度から眺めることができています。そして、「学校つらい、やだ」という理解から、「そうだ、自分はそんな風につらいんだ」という少し距離のできた見方で理解とつながるものだと思います。体験との間に距離ができる、というのはこの意味においてであり、そのように自身の体験を見ることができるというのは、自分の体験を振り返ったり、全体を見まわしたり、そのことを意味づけたりするスペースを与えてくれるものです。
ちなみに、これは、「自分の体験に近く表現・理解する」ことと「体験からの距離ができる」という言葉の間で矛盾があるようにも見えますが、別に矛盾しないと思います。「体験を近く理解する」というのは、「体験をより具体的に、豊かに理解・表現する」ことであり、そうしたより豊かな理解が、体験を別の角度から見たり、ちょっと距離をとってみたりするようなスペースを作ってくれるという話ですので。

〇体験の多様な理解を可能にする
メタファーを使うということは、より多様なかたちで自分の体験を理解することを助けてくれることにつながります。つまり、「素朴なメタファー」が許容される場では、そうでない場に比べて、色々な言葉を使う可能性に開かれると思います。「調子が悪い」という言葉を、”体中が鉛みたい”とか、”頭にもやがかかった感じ”とか、”ずっと疫病神に付きまとわれてる気分”とか、いろいろ表現ができるわけです。これは「体験からの距離を漸増させる」「自分の体験に近く理解する」というここまでの部分ともつながります。いろいろなメタファーを通して体験を見てみることは、それだけいろんな角度から自分の体験をみる視点、つまり体験を距離をとってみることと関係します。逆に、ある程度体験から距離をとれないと、表現可能なメタファーの領域も小さく限られてしまう、という意味では相互的に思えます。そうして多様なメタファー表現を当てはめていくことで、「この表現は、ぴったりくるぞ」とか、「この表現だと、この部分はぴったりくるけど、この部分は説明できないな」など、自分の体験に近い表現へと探索していくことができます。
それは、自分に合う服を選んでいくような作業に見えます。最初はとりあえず外れのない、「悲しい」というフォーマルな服の売り場にいるわけです。その売り場にいる限り、自分の体験にはスーツしか着せてみることはできません。とりあえず変な格好にはならないけど、自分の個性を表現したりするという意味では、物足りないかもしれません。そういう時に、フォーマル服のコーナーから出られれば、古着屋にも行けるし、ユニクロにも行けるし、セレクトショップにも行けるわけです。そこで、「あぁ、今日の体験はエスニックな服があうなぁ」となるかもしれないし、「ジャケットとボトムス、それぞれはぴったりくるんだけど、合わせると変なコーディネートになるなぁ」みたいなことだってあり得ると思います。そうして、今の自分の体験に近い服を物色することができるわけです。
それと「体験を近く表現していったら、どんどん正確になって、ある表現に収束していくんじゃないの」というのは、「何か自分の『本当の』気持ちを過不足なく表す『真実的な』言葉(メタファー)がある」という見方を採用して考えた場合だと思います。もしそういう見方をすれば、確かに、表現の精度をどんどん上げて、真実の言葉へ表現を収束させていくことが大事になります。それは多様な表現の可能性とは逆の方向へ向かいます。この方向は、素朴なメタファーの重要性をしっかりとらえていこうとするときには、アクセス可能な表現領域を狭めてしまうように思います。もちろん、「今日は緑系の服かな」とか、「このズボンには無地のTシャツだな」と、あたりをつけていくことはあると思います。ただ、それでもふとした時に「あれ、なんか白系も意外とあうかも」とか、「Yシャツも意外といけるな」とか、そんなことはよくあると思います。「この体験を本当に近く表してくれる唯一の表現があるんだ」というよりも、「この体験をいろいろな言葉を使いながら表現・理解していける」と考えた方が、個人的には生産的だし創造的な方向に向かうような気がします。アクセス可能な表現領域を増やすということは、その分だけ自分の体験の理解の仕方への多様性を開くような気がします。

〇好ましい体験の理解・表現へと進める可能性
「何か自分の『本当の』気持ちを過不足なく表す『真実的な』言葉(メタファー)がある」という世界観から離れ、自分の体験を近く表現する様々なメタファーに開かれるという世界観へ移行した時、そこには様々なメタファーを選択する余地が生まれてきます。それは、「体験の近さ」とはまた別の、「好ましさ」という視点でメタファーを眺めることができる視点を提供してくれます。
例えば、自分の「非常につらい」状態に対して、「”何をやっても100%うまくいかない”気分」と「”疫病神にずっと付きまとわれている”気分」という2つの表現が出てきたとします。私たちが一度に言葉にできるのはどちらかの表現だと思います。そして、どちらも同じくらい自分の体験に「近い表現」だと思えた時、どちらの表現の方が「好ましいか」という視点で考えることもできると思うのです。なぜそれが大事なのかというと、選択できる表現によって、その人の体験の理解は変わるのであり、そこから続いていく理解の可能性の方向性や幅もまた異なっていくからです。これは、前回の「メタファーについてのあれこれ①」の記事で、メタファーを抽象的に考えたとき、それぞれのメタファー・表現を用いることは、そのメタファーが属する特定の「世界観ー言語セット」を用いることだということと関連します。つまり、あるメタファーを採用するということは、その体験を表す特定の「世界観ー言語セット」を採用することでもあるのです。
例えば、”何をやっても100%うまくいかない”という表現を採用した時、そのメタファーは、数字とパーセンテージという言語セットと、数学的な世界観を採用することになります。そのような世界観では「100%」というメタファーはとても強く、他の可能性が入り込む余地を許さない地位を与えられている気がします。お先真っ暗です。一方で、”疫病神にずっと付きまとわれている”といったとき、その体験を理解する世界観は、もう少し余白のある理解、表現です。疫病神にずっと付きまとわれているのはとても嫌ですし、結局何をやってもうまくいかない感じもしますが、100%という表現より、例外的な可能性を探しやすくなる世界観=言語セットの会話につながるかもしれません。そして、そうした世界観―言語セットで会話を行うことを好ましく思ったとき、自分の体験を説明するときに、後者のメタファーを選択するということができると思います。
また、このようにして、「体験への近さ」だけでなく、「そのメタファーの持つ世界観の好ましさ」という視点を手に入れたとき、もしかしたら「体験への近さ」よりも「好ましさ」を優先させることも可能かもしれません。「本当は100%無理って感じるけど、なんか貧乏神につかれてるって考えた方が少しだけ楽な気がする」という理由で、後者の理解を優先しても良いかもしれません。言語実践という意味では、「言語」と「世界」の関係は相補的です。「ある体験に言葉を当てはめる」という方向性に加えて、「ある言葉で体験を構成し直してみる」という理解をしておくことは、このような可能性を開いてくれると思います。
とはいえもちろん、これは「どんどん救いのある方向に行くべき」というわけではありません。「好ましさ」はあくまでも、本人が「あぁ、そっちにいってもいいかなぁ、いけそうだなぁ」という意味での「好ましさ」であり、他者の「好ましさ」が優先されたり、それによって「体験への近さ」が損なわれては本末転倒です。「体験への近さ」もメタファーにとってとても重要な要素です。どんなに「そっちの方がいいなぁ」と思える表現でも、自分の体験からかけ離れていれば、それを選択したり、その先に生産的な会話を続けることはだいぶ難しい気がします。また、「好ましさ」よりも「近さ」を探求したい時だってありますから、これを否定してはいけません。あくまでも可能性に開かれているという話であり、「好ましさ」という基準を増やすことで、素朴なメタファーによって作られる世界の持つ可能性の幅が広がるのではないかということです。

〇「余白のある世界観」「動きのある関係性」につながる可能性
より「好ましい」という基準を手に入れたとき、そこにはどんな「好ましさ」があるのか、ということも考える必要があります。ここで「余白のある世界観」「動きのある関係性」を、自分の体験に持ち込むことができる、ということが考えられます。この二つは、だいたい「遊び心」「創造性」「ユーモア」とか呼ばれるものとつながっている気がしますが、そう書いて満足してしまうのは癪なので、もう少し説明を試みます。
これはすでに、「”何をやっても100%うまくいかない”気分」「”疫病神にずっと付きまとわれている”気分」という2つのメタファーの違いに見たものと似ています。”100%”という表現は、なんだか静的で、別の可能性が入り込む隙間がありません。余白のない世界、動きのない関係性が提供されます。でも”疫病神が付きまとう”というメタファーは「動的な行動」です。それが失敗する可能性もあるかもしれないし、付きまとわれていない時間を探したり、他の神様(貧乏神の可能性もありますが)がやってくる可能性だってあります。そこには、例外的な変化が起こりうる「動き」や、他の可能性を探るための「余白」が、その世界観の中に多く含まれています。
では、「余白のある世界観」とはなんでしょうか。ニュアンスは伝わる気がしますが、もう少し書いてみます。例えば、「恋人が死んで悲しい」ということを、「悲しい」と表現するのと、「”世界が色を失って、砂をかむ”ような日々だ」という時、後者の方が、そのメタファーが構成する世界観に余白が生まれると思います。「悲しい」は、やや抽象的で、どんな状態も広く包んでしまう表現です。なので、そこから始まる理解・表現の幅は「大きい―小さい」「いつも―たまに」くらいにしか広がりません。でも後者のように、具体性を持った素朴なメタファーにおいては「今はどんな色なのか、セピア色なのか、灰色なのか、白黒なのか」「失う前の色はどんなだったか」「砂をかむというのは、じゃりじゃりするのか、味気ないという意味か」「少しでも色が戻るところはあるのか」とか、理解・表現の幅の射程が広がります。「余白のある世界観」と仮にここで呼んでいるのはそういうものです。
また、「動きのある関係性」というのももう少し書いてみます。動きのある関係性を提供してくれる、という意味では、擬人化のメタファーなんかは、この代表格だと思います。例えば、「イライラする」という表現と、「”イライラ妖怪がやってくる”」という表現を比べたとき、後者の方が、イライラと自分との関係性に動きが生まれます。「イライラする」は、そうでない状態から、イライラという状態に、漫画のコマがぱっと移るような表現です。イライラと自分の間の動きは、その一コマ分しかなく、非常に静的な関係性です。一方で、”イライラ妖怪がやってくる”であれば、自分とイライラの関係の間で、イライラ妖怪がうろうろしていたり、こちらに向かって移動してきたり、一つの動きが関係性の中に生じてきます。そして、動的なものは静的な状態よりも、1回ごとの不安定さのようなものを持ちます。「成功したり失敗したりする可能性」や、「素早いのか意外ととろいのか」とか、「どんな場所では襲来の成功率が上がるのか」といった、理解・表現の可能性を増やすかもしれません。
ちなみに、「近い表現というのは、ぴたっとした表現ということだから、余白や動きがない気がする」という声もちょっと考えてみることができますが、やっぱりそんなことはない気がします。より近い表現へ向かい、より表現が具体的になるほど、余白は増えると思います。「悲しい」とか「苦しい」とか、ぼやっとした表現は、やや抽象的で、比較的どんな状態のことも指し示すことができるからです。
「悲しい」という表現と、「”何かエネルギーを吸い取られてる感じ”」という表現を比べてみたとき、「悲しい」は感情の状態を表す表現ですから、一言で気持ち全部をぼやっと表現できてしまいます。しかし、ぼやっと表現できてしまうがゆえに、どれにもこれにも「悲しい」という言葉が当てはまってしまいます。でも、もう少し具体的に”何かエネルギーを吸い取られている感じ”というと、その表現は特定的です。「エネルギーの回復手段はあるのか」とか、「どういう時にエネルギーが吸い取られやすいか」とか、そういうことを考える余地・動きへの広がりがあります。もちろん、「悲しい」という表現も完全には静的ではないので、「悲しい時の対処法は?」とか、「どういう時悲しくなるの」という聞き方もできるでしょう。確かに、その世界観での探索で十分な人もいるかもしれません。でも、後者の素朴なメタファーの提供してくれる世界観の方が、より自分の体験を探索する余地が提供される可能性がありそうだと感じます。『神は細部に宿る』『差異の知らせ』という言葉を借りるなら、「差異」は「細」に宿ると思います。微細な表現にこそ差異が宿り、その差異を手掛かりにした探索が可能になるのです。

〇メタファーの世界の中で探索する可能性に開かれる、それは体験を探索しやすくなるかもしれない
これは一つ前のこととだいぶかぶる気もしますが、また少し違う部分のことです。ある体験を理解していくときに、メタファーの表現が与えてくれるニュアンスや世界観を手掛かりに、自分の状態を理解することもできるわけです。
例えば、前に出した、「学校に行くのがつらい」というある子供の体験に対する、「”水の中でずっと息を止めていてどんどん苦しくなるような”感じなんだ」という表現を考えてみます。その子供の体験を探索する一つの可能性として、そのメタファーが提供してくれる世界観の中で、そのニュアンスを手掛かりに探索を行える可能性が生じます。「それじゃあ”もし息が続かなくなってしまったら”どうなってしまうの?」とか、「”どこか息継ぎできる場所”はあるんだろうか?」とか、「”どのあたりから、息を我慢してるのかな”?」とか。つまり、先ほど説明した動きや余白のニュアンスを手掛かりに、その世界観の中で相手の体験を理解していくことができるわけです。また、「少しでも助けになる、酸素ボンベみたいなものは用意できないか」とか、「息継ぎポイントを作ることはできないだろうか」とか、そんなメタファーにインスパイアされてその子のこれから体験可能になるかもしれない領域の探索につながるということもあるかもしれません。
また、「息継ぎできる場所」「息が続くなったら」「息を我慢する」というのは、「”水の中でずっと息を止めていてどんどん苦しくなるような”感じ」という表現を受けて生じる会話ですから、本人の体験に近い世界観・表現を足掛かりに、さらにその体験に接近することに役立つ気がします。これは、その子の体験に近いところにとどまって話をしようという意味で、相手とその表現・体験を尊重することでもあります。また、メタファーによって自分の体験との間に距離が生まれることで、少しそのつらさから離れて体験を振り返る距離が生まれるとも言えます。この距離が取れないような世界とは、つまり「わかんないけどとにかくつらいんだ」という状態にあるので、そんな状態で探索や振り返りという行為は難しくなります。また、素朴なメタファーは、余白や動きを含む表現ですから、その余白を探求したり、動きの関係性を精査したりという形で、体験を探索することができるという意味でも、アクセス可能な表現領域につながりやすくなるかもしれません。

〇何か他の物語につながることができる。その力を借りることができる。
これまでの議論とは少し違う次元で、もう一つメタファーの持つ可能性を考えてみます。それは、この世界にある別の物語につながったり、その物語の中にある関係性とつながることができる可能性です。例えば、自分がどんな人間かというのを表現するとき、「”ハチ公みたい”な感じ」という表現ができるかもしれません。その時、その表現は、ハチ公にまつわる様々な物語とつながるかたちで、自分自身というものを理解することを助けます。もちろんそこで、「忠誠心が強くて、忍耐強くて、思いやりがある」という要素だけを抽出した表現することもできるかもしれませんが、その表現は、そこだけにとどまるのであれば、「薄い」記述に思います。あるいは、ある人は、周りに理解されないという状態を、「”うつけと呼ばれた織田信長”みたいな状況かな」と、偉人と歴史物語になぞらえるかもしれません。これも「周りには理解されないけど、自分はそれが正しいと思ってるからやれる人」とだけ表現することもできはします。でも、前者のような表現を使うことは、織田信長とその物語とつながることは、「自分が周りに理解されないながらも何かを推し進める」という苦境を乗り越えるための支えとなるかもしれませんし、誇らしさをもたらしてくれる可能性もあるかもしれません。また、苦難からの再起を果たしたアニメの主人公を捕まえて、「こんな人になりたい」とあこがれる時、その自分の獲得したい強さを「これこれこんな状況でも絶対に心は屈しない」という風に、より豊かに描写することも可能になると思います。自分の追い詰められた状況への抵抗を「ネズミだって追い詰められれば猫をかむんだ」という、慣用的な物語とつながることもできるかもしれません。それは自分の抵抗を認める手助けになるかもしれません。
この世界には物語というのはあふれているわけで、「AをBを使って表現する」時、そのBのメタファーが有意味な物語に埋め込まれている表現だったりしたら、その表現は字義的な意味を越えたつながりをもたらしてくれるかもしれません。それは小説や神話の登場人物や物語かもしれませんし、アニメや漫画のキャラクターかもしれません。また、現実の偉人や、逆に身近な人のストーリーかもしれません。ことわざや慣用句、都市伝説みたいな話や、他の生物の能力、この社会にある制度など、メタファーを通じて、「すでにある現実の物語」とのつながりを持つことは、自分の体験を理解したり認めたり、あるいはそこから何か別の可能性を探っていく際の足場、支え、つながりをもたらしてくれるかもしれません。

〇他者とのコミュニケーションの豊かな媒介となる
最後に、ここまで書いてきたようなメタファーの有用性は、第一に自分自身で自分の体験を理解するときの有用性につながる可能性ですが、それはそっくりそのまま、誰か他の人とコミュニケーションをも豊かにすると思います。自分の体験を誰かに伝え、それを共有したい時、あるいは誰かの体験をもっとよりよく理解したい時、お互いにできつつある共通認識をさらに進めたり、その体験から他の可能性を考える時、素朴なメタファーを用いることは、用いない時と比べてより広い可能性をもたらしてくれる気がします。
ただ、一つ注意しておきたいのは、これは「素朴なメタファー」は他者の理解を簡便にしてくれる、という意味ではないということです。なぜなら、「私は悲しい」ということを言われた時より、「悲しくて、なんだか”冬の山”みたいだ」といわれたとき、「どういうこと?」となるのは後者の表現です。前者は「そっか、悲しいんだ」となりますが、後者は「冬の山って…なに?」となります。ただ、疑問を提起させるということは、その分だけ探索の余地があるということです。単に「悲しい」という言葉を字義通り受け取って納得するよりも、”冬の山”というメタファーでいわんとすることの意味をつかめた先にあるものの方が、その人の体験により近づける可能性に開かれていると思います。素朴なメタファーを大切にするということは、そういうところにもつながると思います。

✔「ナラティヴ・セラピー」と「素朴なメタファー」
ここまで、私たちが日常で行ったり、カウンセリング場面で出会うような「素朴なメタファー」がどのような体験の理解・表現への可能性を開いてくれるのかを考えてきました。そして、今学んでいるナラティヴ・セラピーを振り返ってみると、やはり素朴なメタファーにおいて開かれるような可能性は、ナラティヴ・セラピーが採用し、実践しようとしている世界観と非常に相性がいい気がします。相性がいいというよりも、同じコインの裏表のような感じというか、もっと言えば、メタファーの議論をしながらナラティヴの議論もしていたような、非常にパラレルなものを見てきた気がします。
多くのモダニズム的アプローチは、その理論自身の強固な独自のメタファーを採用しており、他のメタファーやその有用性をうまく拾えなくなる可能性、さらにはそれを排除してしまう可能性に開かれてしまっている気がします(もちろん、個々の実践家レベルでそこを大事にしている可能性は否定しません。ただ、理論がある以上、その理論と競合するかということは考えないといけないと思います)。それに対して、自覚的に、テクスト・アナロジー、ナラティヴ・メタファーという世界観で、クライエントの物語を尊重していこうとするナラティヴ・セラピーの立場は、語り手の「素朴なメタファー」とその世界をそのままの形で尊重するものだと思います。また、「外在化する会話」の表現などは、積極的に素朴なメタファー的理解とその可能性を切り開いていこうとしている気がします。あとまぁ、発達の最近接領域とか、足場がけ質問とか、影響相対化とか、再著述とかにも、豊かな形で接続していくと思いますが、それを書き始めるときりがないし、元気もないのでもうやめておきます。
ただ、他者のメタファーに開かれているということは、探索可能な表現領域が広がるという点で、会話の豊かさへの可能性に大きなアドバンテージを持っている気がします。

✔「素朴なメタファー」から「言葉(メタファー)一般」へ
さて、ここまで「素朴なメタファー」ということで、私たちが日常で使うメタファーが様々な可能性をもたらしてくれるのではないか、ということを議論してきました。特に「素朴なメタファー」がもたらしうる有意味な特徴について、「体験を近く表現・理解を助ける」「体験から距離を漸増させる」「体験の多用な理解を可能にする」「好ましい表現・理解の選択可能性を開く」「余白のある世界観につながる表現」「動きのある関係性につながる表現」「メタファーの世界の中での探索を可能にする」「他の物語とつながる可能性」「他者とのコミュニケーションの豊かな媒介となる可能性」というものをあげてきました。よくこんなに書き連ねたものです。しかしながら、最後に身もふたもないかたちで議論をひっくり返してしまおうと思います。それは、こうした「素朴なメタファー」が開いてくれる可能性として論じてきたものは、実は「素朴なメタファー」を越えて、言語実践一般においても適用可能な議論なのではないかということです。
今回は、議論の出発点として、またその要点をわかりやすくするために、「素朴なメタファー」というものを設定しました。しかし、前回の記事で行った議論のように、私たちは、ある体験や現象の説明には、特定のメタファーと「世界観―言語セット」を用いずにはいられません。そう考えると、素朴なメタファーの特長として論じてきたこれまでの様々な可能性の議論は、言葉表現一般にまでその射程が伸びていきます。
例えば、「アカデミックなメタファー」や「医療のメタファー」を「素朴なメタファー」と同じ議論の俎上に載せることもできます。「私”うつっぽい”んです」というクライアントの言葉、「ちゃんと”寝れていますか”、”食欲はありますか”」という心理士のアセスメント的な言葉、「あなたは”双極性障害”と”診断されます”」という精神科医の言葉、もしくは「”疫病神につけられてるような”状態です」という素朴なメタファー。全ての言語表現は等しく一つのメタファーであるという観点に立った時、その表現はどの程度豊かなのか、アクセス可能な表現領域にどの程度開かれているのかという地平での議論が可能になります。「体験への近さ」はどうか。「体験との距離」にはどう影響を与える表現なのか。「体験の多用な理解」に貢献できるだろうか。「余白のある世界観」や「動きのある関係性」を導入してくれるだろうか。何か、その人の支えになる「他の物語」につながるだろうか。相手が用いた「世界観―言語セット」の豊かさを切り捨てていないだろうか。「素朴なメタファー」は、ユニークな形でそれらの重要性を包摂すると思いますが、他の言語表現におけるそうした要素を議論することができるようになることは、私たちが自分や相手の言語表現を扱う上での一つの議論のポイントだと思います。
最近になって思うのは、このような地平での議論というものは、あまり気にされていないのではないかという予感です。カウンセリングという場において、自分たちが使う表現について、あるいは相手が使う表現について、またその表現に導かれて進む会話の方向性について、自分たちはどれほど注意を払っているのでしょうか。それは同時に、会話の場に生じる言語表現というものについて、それを議論する言葉を、私たちがどれだけ持っているだろうかということでもあります。もし、私たちが、「なんかいいよね」「なんかちょっと」という言葉しか持ち合わせないのであれば、そのことを議論することは十分にはできない気がします。あるいは、そのような「なんかいい」「なんか悪い」という感じさえ持てないとすれば、議論以前の問題です。例えば、私たちの注意が、相手の状態の客観的な評価や、外部で確立された参照枠へと向かうような場合、このような言語の表現について議論可能な領域はことごとく無力化される気がします。
今回は、「素朴なメタファー」をちゃんと認めたいし、認めるためには議論をしないといけない、という気分で始まった記事でした。「素朴なメタファー」を認めることは、今回説明してきたような、ある体験の理解・表現の幅を増やすという点で、非常に有用だと思います。むしろ、それを認めなかったり、無視したり、注意を払わないというのは、会話を扱うものとしてどうなんだろうとさえ感じます。
最後に、この自分なりの理解とつながる気がする、最近出会ったマイケル・ホワイトの言葉を引用して終わりにしたいと思います。どれも、『会話・協働・ナラティヴ(金剛出版)』という本からの引用です。これらは、直接は今回の議論とは関係のない文脈での言葉だと思いますが、相手が使う言葉、自分が使う言葉というものにどれだけ慎重に注意を払い、それこそが倫理的責任だとまで言い切るほどに、『表現に与える形』というものに注意を払っていたマイケル・ホワイトの見ていた景色に触れられるような言葉だと感じます。

(ある会話のセッションの中で、マルサという女性が、自分のポジティヴな状態を心理学的な言葉を引用して説明したことに対して)「しかしながら、そこで、私たちが袋小路に行き当たったのは、マルサが彼女の大切にしてきたものごとの生き残りについて心理学的な説明をしたからです。この心理学的説明はあきらかにポジティヴであるものの、「薄くて」、豊かなストーリ展開や彼女が大切にしてきたものの社会的で関係的歴史にとっての障害だったのです。これに対して、私は、マルサに誰が彼女の人生への希望を実証したのかと問うことによって、袋小路を超える道を求めたのです(pp.246)」
「私が思うに、それは私たちがどの考えを表現するか、あるいはどの経験を表現するか、という単純な問題じゃないんだ。私たちがその表現に与える形に責任を持つということでもある。何が私たちに共鳴して何が共鳴しないかについて話すかどうかという問題ではなくて、その表現に私たちはどんな形を与えるかという問題だ。私たちは、私たちが行ったこと、言ったことの結果に責任がある(pp.154)」
私たちがそれにどんな表現を与えるか、その配慮の問題だ(pp.156)」
私たちが注意深いのは、会話の結果に対して重大な責任があるからです。会話が、人々の人生感覚やアイデンティティ結論、それにもちろん人々の行為を形作る影響力を持っているからです。セラピーという名の下での活動において私たちが言ったりやったりすることの影響に対するこの重大な倫理的責任を観察することの重要性は、あなたやトムやヤーコが話している時にも聞き取れる雰囲気です(pp.261)」
(下線は自分で引きました)