正義あるは絶対善というところから、非常に危険な発言、時には具体的な行為に及ぶことがある。このことについて、國分功一郎さんの「中動態の世界」から引用したい。
☆ 以下引用 ☆
アレントはアメリカ独立革命とフランス革命とを比較して論じた『革命について』という著作で『ビリー・バッド』を論じている。(中略)
アレントがまず注意を促すのは徳が善とは必ずしも一致せず、悪徳が必ずしも悪とは一致しないという事実である。徳とはここで、人間の社会の中で通用しうる、そしてまた通用している道徳規範のことを指す。大半の人が同意できる手本のようなものだと考えればよい。
ルソーやロベスピエールはそのような徳が、不運で貧しい人々の心に自然と現れるものだと考えていた。というのもルソーやロベスピエールは、富める人々のすさまじい利己主義を目にしていたからである。(中略)
アレントは彼らのこの確信に根本的な異議を呈する。アレントによれば、ルソーやロベスピエールが分かっていなかったのは、「絶対善は絶対悪より危険が少なくない」ということ、そして、徳を超越する善、悪徳を超越する悪があるということに他ならなない。これは言い換えれば、善と徳には、人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない過剰さがあるということに他ならない。
その過剰さを知っている人ならば、善が徳に背く場合があることをわきまえているだろう。あるいは、悪徳と言われているものが善の機能を果たす場合もあることを。しかしこの過剰さを知らない人、この過剰さに目を向けようとしない人は徳に絶対的な善の役割を与えようとする。その時、一般的に通用しうる、そして通用している規範は、ひとつの通念に過ぎないにもかかわらず絶対性を手にすることになる。人々の同意を根拠とする徳が、人々の同意を必要としない善の性質を身にまとう。相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する。
一言でいえば、アレントはこの徳と善の混同に、ロベスピエールが陥った恐怖政治の一因を見ている。たとえば彼にとって「愛国心」は革命を支える徳である。そしてそれは徳に過ぎない。ところがロベスピエールはそこに善をみる。だからこそこの善を追い求め、偽の愛国者を狩り出そうとする。國分功一郎「中動態の世界」286〜288頁
ロベスピエール自身が述べているように「愛国心は心の問題である」。したがって真の愛国者と偽の愛国者を見分けることなどできない。いや、疑いをかけられたならば、どんな人間も偽善者とならざるをえない。こうして偽善を排しようとする終わりなき闘争が始まる。疑わしき者を次々にギロチンにかける恐怖政治が始まる。
☆ 引用終わり ☆