本書は、哲学者であり『中動態の世界 意志と責任の考古学』の著者である國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さんと、当事者研究に取り組む熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)さんの対談を書籍化したものである。
まず謝罪として、國分さんを「こくぶん」と読み、熊谷さんを「くまがや」さんと読むことを、この巻末の著者紹介を読んで初めてしりました。それまで「こくぶ」さん、「くまがい」さんだと思っていました。すいません。
対談のような場合、異なる領域で活動してきている人を引き合わせて、話をしてもらうようなことを想定してしまうことがあると思う。國分さんと熊谷さんの場合は、そうではなく、これまでもいろいろと対話してきているのが、それを今回公開の場でしてくれたと言うことである。
公開の場となるために、二人の間では不要な「説明」「解説」ということも語られることになったのであるが、慣れ親しんだ者同士が、遠慮することなく対話をしていくさまを共有してくれたことに感謝したいと思う。
当事者という領域において、熊谷さん自身と共にある脳性麻痺という症状、研究パートナーである綾屋紗月と共にあるアスペルガー症候群、そして、関わりのある薬物依存、そして統合失調症が断片的に取り上げられている。
当事者研究という領域において、この世にはさまざまな立場の当事者がいるので、常にすべてを網羅するという形で紹介することはできない。それでも、当事者の立場からの体験から導かれた考察を得ることは大変興味深い。
人を理解するのは、統計学に基づいた科学的手法とされる研究で得られたものよりも、当事者のそれぞれをしっかりと追っていくことによって、そして、それを積み上げていくことによってこそ、できるのではないかと思えるぐらいである。
実際のところ、私が臨床上必要となってきた発達障害や依存症に対する理解をしっかりともたらしてくれたのは、当事者の体験談である。そのため、この側面からの理解の重要性を理解できる。
具体的に言えば、日本にニキリンコさんがいたのは大きいと思ったし、AAのビックブックは私にとって大きな意味がある本である。
また國分さんの中動態についての語りも、『中動態の世界』で書いたときのものよりもしっかりと表現されるようになってきていると感じた。
多分、本を書くときには、自分自身に向き合いながらであったのだろうが、出版後いろいろなところで語る機会があり、そのやりとりを通じて、語り方が促進されたのではないだろうか。
それにしても、この書籍においては「中動態」があるものとして、議論されてしまっていることに興味を覚える。私は、『中動態の世界』では実際のところ、中動態という表現はどのようなものなのか、なかなか把握できないでいた。そして、中動態表現をもっと知りたいと思っていたのに、もうすでにあるかのように話が進んでいくのだなと思ったのである。
能動対受動の世界で生きる私たちにとって、中動態が大切になるということを、本書を通じてより深く理解できる。
そうであれば、私は、それをどのように使えるのかもっと知りたいの思うのだ。
本書の方向性で、行きそうで行かないために、私にとっては少しじれったくなるものがある。依存症であるとか、統合失調症への取り組みとして、中動態が大切になるのであれば、それをどのように使えるかということである。
この領域については、哲学者である國分さんと、研究者である熊谷さんの主たる領域ではないので、なかなか話をすることが難しい領域であろう。そうなので、私たち対人援助の者が取り組む必要性のあることであろう。
文章内で、べてるの家での実践における外在化という話に触れているので、ナラティヴ・セラピーの話が、一言でも出てくるのかなと期待したが、それはありませんでした。ちょっと残念。
外在化と中動態は、近いところもあるのですが、異なる概念であると考えている。この辺の区別については、もう少し説明できたらと思う。いつか書いてみます。
いずれにしても、中動態を利用することの可能性を大いに感じることができる本でした。おすすめです。