実際を見て学ぶという至極当たり前のこと

NZでカウンセリングを学んできて半年、最近自分のナラティヴとしての実践を始めたのもあって、他のナラティヴ・セラピストの実際のカウンセリングを見れたらなぁという思いが強まってきていたのがあった。

それで、何かの拍子に「他の人の実践とか見てみたいんすよね」と面倒見てくれてる先生に軽い気持ちで言ったら、「それは見た方がいいよ」とコースの卒業生にすぐ連絡とってくれた。聞けば、こっちのコースは、人の実践に同席させてもらうのはカリキュラム上必須だとか。

その人も「いいじゃん来なよ」と言ってくれたので、速攻で見学が決定。
スクールカウンセリングだったので、来た生徒に(「こいつKatsukiって大学の同僚で、日本からきてて、今日の話に同席したいんだけどいいかな?」「別に、いいよ。よろしく」みたいな)確認をとって普通に同席させてもらって、なんならたまに会話に混ぜてもらう。秘密いじめ対策隊に初めて召集がかかるところも生で見られたのもエキサイティングだったけど、それはオプションみたいな感じで、人の実践を生で見ること自体がいい体験になるなぁと実感する。
と同時に、人の実際の実践をちゃんと見るのも見られるのも当然という雰囲気は、日本では全くなかったし、なんなら受付面接くらいしか見る機会なかったなと思う。
それを帰りの道中にそのセラピストに話したら、「え、なんで見る機会ないの?」と素朴にいわれて、「そういやなんでだろうね」と思う。

 

カウンセリングを秘されるものにとどめておく、文化的なものがあるのか。

あるいは守秘義務を考慮したものもあるのかもしれないが、それを守ることが、カウンセラーが上達する機会を奪ってるならなら、それはそれで別の倫理が働来そうな気がするし。

逐語録の検討があるとか、ロールプレイはあるじゃないかというのもあるかもしれないけど、それによって実際を見る機会の意義がなくなるわけじゃないし、なにより何が起こるか分からない状況で会話を展開させていかなきゃいけないという、真剣試合みたいなところの感覚を育てるには大事だよなぁと思う。「そんなの実際にやって覚えていくんだよ」っていうのは、乱暴すぎるし。

来たかったらいつでも声かけてよ、って言ってもらえたので、また行こっと思う。