国重浩一さんの特殊性とはなにかと考えることがある。今回、インタビュー記事を読んで、改めて経歴を知り、彼の考えを読み、なんとなく「臨床心理士の言わなさそうなことだな」と感じ、何がそう感じさせたのだろうと思った。
私は、日本のクリニックで臨床経験をしばらくした後、浩さんから学ぼうと思って、はるばるNZくんだりまできたわけだが、何を求めてきたのか、改めて考えたい。そうすることで、改めて自分の得たいものと向き合ってそのためにより有効に行動したいという気持ちと、浩さんと接するなかで学んでいるものがなんなのかを明らかにしたいという気持ちがあり、以下に少しまとめてみた。
浩さんの特殊性は、私は「カウンセラーらしからぬところ」だと思っている。もっと正確に言うと、日本のカウンセラーが持っている価値観や倫理観とは少しずれたところから人を見ていると思う。
臨床心理士である前に、1人の人としての判断をしていて、人としての判断なので、人情味があり、柔軟だ。それは、一般の人の価値観と合致していると思う。ふつうに人が人に求めること。ふつう人が困っていたら助けるよね、助けたいよね、というような素朴さがある。そこに価値がある。
でも、それは彼が素朴な人だから自然とやっているのではなく、日本で暮らした経験から、縛られやすいルールを知っていて、意識的に、それを取り外そうとしているのだろうと、私は思っている。そして、そのやり方は理にかなっている。
彼は、日本の精神科で臨床心理士として働いたのではなく、さまざまなジャンルから学び、NZで教育を受けてカウンセラーとして働いている方なので、実際、日本の病院では、彼の理想通りにいかない現場もあるだろうと思う。
ただ、それをふまえても、日本の臨床心理士が縛られているものに縛られていない浩さんの視点は、患者さんに必要だ。言葉にすると、なんということはない、「普通に、人と人として関わること」。
裏を返すと、私が日本の臨床心理士業界に対して感じた動きにくさというのは、臨床心理士がふつうの人としての視点から外れている点なのかもしれない。「精神科はこうだ」「カウンセリングではこうでなければならない」というような根拠があるんだかないんだかわからない規範によって行動が制限されているのだ。少なくとも私は、患者さんにカウンセリング外で接することは控えていたし、ナラティブセラピーで行うような手紙を書くようなことはやってはいけないことだと思っていた。その枠を守らないと、いつでもどこでも患者さんと接することになって抱えきれずにつぶれてしまうから、と教わってきたし、それも一理あると思う。でもその手加減をしているような関わり方は好きじゃなかった。プライベートとはっきり区別された、すごく職業的な関わり方だと思う。(病院ではなく教育現場や福祉であれば、もっと全体的に相手と関わっているかもしれない。)
私は、自分の縛られてきた臨床心理士のルールではないルールで臨床活動をしている人たちがいて、うれしかった。ほっとした。やはり、これは絶対的なルールではなかったんだと、自分で本当に必要なのか考え直してもいいんだと思い、今後、自分がもっと思う通りに動けるような気がしている。
これを書くまで、せっかく来たのだから、もっと心理学を学んだり、カウンセラーと交流しないと、と思っていたけれど、こうして文字にしてみると、既に1人のカウンセラーの働き方を見たり、話したりする中で、こんなことを学んでいた。こうした学びも、悪くないと思う。