物語のメタファー

ここ数日、「メタファー」というものについてあれこれ考えています。
一つ目は、ナラティヴ・セラピーについての説明の中でたまに見る、「ナラティヴ・セラピーでは『物語のメタファー(おそらくnarrative metaphorの訳?)』を使う」という言い方について。このいまいち収まり悪く感じる、「物語のメタファーってなんだ」という感じ。あるいは『物語としての家族』では、「テクスト・アナロジー」と呼ばれているようなもので、ナラティヴ・セラピーが自身のことを説明するときに使っている言葉です。でも、解りにくいような言い方をするということは、そこに意図があったんじゃないかと思うので、ここでメタファーとかアナロジーという言い方をすることで、なにを言おうとしているのだろうかということを考えていたわけです。
そして二つ目に、もっと実際的な問題として、カウンセリングの中で出会う、様々なメタファーというものをどう位置づけることができるのかということについて。特に、クライエントが自分の体験を表現するためにメタファーを使う時、それは非常に重要な気がするものの、一方でそれをなぜ大事に思うかということを言語化したいということでもあります。また、ナラティヴ・セラピーでは、外在化の質問や考えは、非常にメタファーっぽさがあり、そういう表現をカウンセラー側から誘うようなこともあるように思います。そうすると、メタファーというものについて考えずにはいられないという感じです。
この2つのかたちでお目にかかるメタファーについてぐるぐる考えていると、この2つは、まず1つ目の大きい問いを、そこからつなげて2つ目の具体的な問いを論じることができるんではないかと感じています。

・メタファーとは何か
その議論に入る前に、そもそもメタファーとは何なのか。メタファーとかアナロジーという言葉を日本語にすると、「暗喩」とか「類推」とか、いわゆる比喩表現の意味を持つものだと思います。あるいは、カタカナのままでもニュアンスとして結構通じる言葉だと思います。何かを理解したり表現するときに、「例える」ような行為だと思います。ただ、「メタファーっていうのは比喩表現だよ」とか「例えるという表現のことさ」といわれても、それはトートロジーなので説明になっていません。
おそらく、その元の意味をもう少し正確に表現すると、「自分の考えや体験や理解を、何か別の形で表現・説明する」というもの、つまり「A(言及したいもの)を、B(別のもの)を使って表現したり、説明する」ということになるかと思います。とりあえずそういう形で定義してみたいと思います。まぁ、ちゃんと調べれば言語学とか文学とかでこの辺りの定義や説明もしっかり言われてるのかもしれませんが、今のところ、この定義は結構妥当ではないかと思っています。
つまり、「なんか最近絶好調で、漫画の主人公にでもなったみたいだよ」というメタファーは、「自分の絶好調な状態=A」を「漫画の主人公みたいな状況=B」という別の言葉で表現しているというわけです。

さて、メタファーというものをそう理解して考えていくと、実は「私たちはメタファーを用いないで世界を理解したり、表現・説明することはできるのか」という問いにぶち当たると思います。
そのことを考えていくために、メタファーを便宜的に2つの種類に分けて考えて見たいと思います。ただ、これは全く別種のものというわけではなく、レベルの話のような気がしますが、とりあえず分けてみます。
①私たちが普段の生活で使う、一般的な意味でのメタファー。例えば、自分が苦しい状況というのを、人に説明するときに「なんか、体に重たい鉛が巻きついている感じ」とかいって説明する、そういう次元でのメタファー。これを、いったん「素朴なメタファー」と呼んでみます。
②私たちがこの世界を理解したり、説明する時に、ある特定の「言語セット=世界観」を採用する、ということも、一つのメタファーなのではないか、ということ。いったんこれを、「抽象のメタファー」と呼んでみます(あんまりしっくりくる名前が思い浮かびませんでした)。②の方は正直、言葉で辞書的に説明するのが難しいので具体的な例を出して順に考えていきたいと思います。
今回の問いについて考えるには、やはり②のやや抽象的な大きいメタファーを考えたいと思います。さて、このことを考えていた時に頭に浮かんできたのが、ある先輩の言葉でした。日本にいたとき、初めて大学の非常勤講師で心理学について教えるとき、そもそも「心理学とは何か」ということを最初の授業でどう学生に伝えるかという問いに直面しました。そのときに、その先輩から、「心理学っていうのはみんなメタファーだから」みたいなことを言われました。心理学には様々な概念、「認知」「人格」「感情」「集団心理」「記憶」「社会」「環境」と様々な言葉があるが、それらは全部メタファーだというのです。つまり、人を「認知」というメタファーでみればそう見えるし、「感情」というメタファーを使えばそう見えて来るものがあるし、「集団心理」というメタファーを使えばそんな説明ができる、というわけです。
これは全くもってその通りだと思いました。一見、「認知」とか「感情」とか「集団心理」とか「人格」とか「行動」とか、そういうおかたい心理学的な言葉は、聞く人に対して「なるほど、そうかも」と、あたかもそれが本当にあるもののような錯覚を与えます。ただ、よくよく考えてみると、私たちはその実在を確認する方法はありません。「義理」とか「人情」という概念と一緒で、「人格」も「認知」も「感情」も単なる概念であって、手で触れて重さを確かめたりすることはできないわけです。
そもそも心理学は、私たちが行動したり考えたりすることに関係しているらしい、「心」といういまいち訳の分からないものを何とか学問してみようという試みなわけです。なので、人の行動を観察して、ある行動を「適応行動」とよんでみたり、あるいは「反社会的行動」と名前を付けて分類してみたりするわけです。あるいは、アンケートや質問紙を使って「こういう感情は怒りと呼んで、こういう感情は妬みと呼ぼう」とその違いを記述してみたり。つまり、自分たちの普段の行いとか、意識に浮かんで来るものとか、そういうものを説明しようとしたとき、僕たちはそれを語るための言葉から作らなければいけなかったわけで、それは心理学の以前からも素朴に行われていたと思いますが、改めてアカデミックにおかたく体系づけていこうとしたのが心理学なんだろうと思います。そう考えたとき、私たちがある現象を説明するときにある概念・言葉を採用するというのは、何かそれっぽい名前を付けてそう呼んでみただけ、という側面があるわけです。

・例:言い合いになって人を殴った
例えば、「言い合いになって人を殴った」という現象を説明するとき、その説明の仕方には様々な可能性があります。仮に「認知」という言葉を使うなら、「だれそれの認知は、言い合いになるという状況で『バカにされた』という自動思考が浮かんで来るという特徴があるから、それで人を殴るという行為につながった」ということができるかもしれません。でも、「感情」というメタファーを使えば「言い合いの中で彼の怒りの感情のボルテージが閾値を超えたから、手が出ちゃったんだよ」とか、あるいは「人格」という言葉を使えば「彼はナルシスティックな人格の持ち主だから、言い合いの中で自己愛を傷つけられて殴らずにはいられなかったんだろう」とか、そういう説明の仕方をすることができるかもしれないわけです。
ここで注意したいのは、こうした言葉・概念というのは、それぞれがある世界観を構成していて、その世界観には、そこに属する言葉の集まり(言語セット)があるのではないかということです。例えば、最初の例でいえば「人の行動は認知に大きく媒介されている」とみなす世界観に属する言葉だし、次のものは「人の行動には感情というものが大きくかかわっている」、あるいは「人間の持つ人格がその気持ちや行動に大きな影響を与える」という、それぞれ別の世界観に属する言葉なんだと思います。
これらは、重なるところもあると思いますが、基本的には異なる世界観に属する言葉と考えることができると思います。そのことをわかりやすくするために、昔の日本だったら、ということを考えてみることができます。もし、かつての妖怪的なものが現実を構成していた時代に、言い合いで人を殴ってしまったという現象を説明するとしたら、もしかしたら「あれは疳の虫にやられたんだなぁ。和尚さんのところに行こうや」となるかもしれないわけです(疳の虫が実際こんな使われ方をするかは知りませんが)。そこでは、「人間の行動には時たま妖怪が介入する」という世界観が採用されていて、そこに属する言語の集まり(言語セット)を使った説明が行われているわけです。おそらく、妖怪とかいう話を出すと、「それは科学が発達してなかった時代の非論理的な説明だ」とか「現代の学問が扱っている概念はもっと確かなものだ」みたいな話が出るかもしれません。妥当性みたいな言葉を持ち出して、「確からしさの程度」の話をするならば、そうなのかもしれません。ただ、そこに「学問的立場の基準からみた確からしさの程度」の差異はあっても、「ある現象を説明するための概念」というくくり方をするなら、「妖怪」も「認知」も「人格」も同じ次元に属するものだと思います。
DSMにある人格の種類だって時代によってどんどん増えたり減ったりしているでしょうし、感情を表す言葉は文化によって千差万別で、しかもその言語圏ごとに感情の感じ方も変わっているだろうし(日本人の、甘えとか恥とか)、認知という言葉だって、語感は非常に科学的でもいまいちなにを指している言葉なのかわかりません。「現象を説明するための概念群が、増えたり減ったりしている」という意味で言うなら、妖怪の種類が増えたり減ったり、その生態が変化しているとか言うのと、そんなに変わらない気がします。
これはもちろん、別に妖怪がいると言いたいわけではなくて(個人的にはいてほしいですが)、私たちはこの世界を見るとき、なんらかの世界観を採用して、その世界観に属する言葉を使って物事を理解・説明・表現するということです。妖怪が馬鹿らしく見えるのは、単に「妖怪」という言語の属する世界観が、現代の科学的な世界観では説明する力を失っているというだけなわけです。(ウィトゲンシュタインの言語ゲームとかいう話になるのかもしれません。あまりちゃんと知りませんが)

このように理解したとき、ある世界観とそれを構成する言葉セットというものを整理してみることができると思います。
世界観X:「人間は思考によって動く人間である」
言語セット:「認知」「思考」「自動思考」「認知のゆがみ」「行動」「環境」
世界観Y:「人間の行動は感情に媒介される部分が大きい」
言語セット:「感情」「情動」「気分」「衝動」「怒り」「EQ」
世界観Z:「妖怪が人間に悪さすることがある」
言語セット:「疳の虫」「妖怪」「おまじない」「取り憑く」「運が悪い」
おそらく、この言語セットと世界観の関係は、相互依存的というか、どっちが先でどっちが後ということはないと考えられます。ある世界観を持つにはそれを構成する概念(言語セット)が必要だし、ある概念(言語セット)があるということはそれが属する世界観がないといけません。

ここで、もう一つ留意すべきことをつけ足しておくとすれば、もし同じ名前、同じ表記の概念であっても、属する世界観が違えば、その使われ方や他の概念との関係は変化するということです。例えば、「感情」とか「認知」という言葉は、世界観Xにも世界観Yにもあるはずだといわれたら、その通りだと思います。もしもこうした概念を、単に辞書的な意味で理解するのであれば、確かにその違いはないことになります。ただ、その概念単体ではなく、その言語セットの中で概念同士がどのような力関係や結びつき方をしているか、またそれによってどのような世界観が構成されているのか、というのは世界観ごとに異なっており、その意味で同じ名前の概念が果たす役割や使われ方、その意味も異なってくるはずです。例えば、認知行動療法(CBT)と感情焦点化療法(EFT)という2つの心理的なアプローチの理論があったと思います。おそらく、どちらも「認知」みたいな言葉も、「感情」みたいな言葉も持っていたと思います。ただ、おそらくその言葉が果たす役割と、採用している世界観は異なるのではないかと思います。CBTならば、最も重点がおかれるのは「認知」であり、ある「認知」が「感情」を呼び起こすと考えるのだと思います。ただ、逆にEFTならば、重点が置かれるのは「感情」であり、むしろ「認知」的なものは「感情」に影響されて生じるものとして位置づけられるのではないかと思います。つまり、「認知」「感情」という同じ言葉であっても、2つのアプローチごとに、その2つの言葉の関係性や使われ方は異なるわけで、そこにはそういった言葉が属す世界観に違いがあるということです。(浅い理解なので専門の人から見たら怒られるかもしれません)
あるいはもっとわかりやすい例を出すなら、「分析」という言葉を一般の生活世界で使う時と、理系の専門家が使う時と、臨床心理(特に精神分析)の人が使うときとでは、結び付く概念のあつまりも、採用される世界観も異なるわけです。

・世界をどう見るかという意味でのメタファー
ここでようやく、メタファーという言葉に戻って来ることができます。冒頭で、メタファーとかアナロジーといったものの定義を、「自分の考えや体験や理解を、何か別の形で表現・説明する」「A(言及したいもの)を、B(別のもの)を使って表現したり、説明する」というものに設定しました。そして、ここまで見てきたことは、ある現象を説明しようと思ったとき、僕たちは、ある世界観を採用してそこに属する言語セットをつかって表現する、ということが必要なわけです。つまり、私たちは「A:ある現象」を説明するとき、「B:ある世界観とそこに属する言語セット」を使わなければいけないのであり、その意味で、私たちが世界を理解して、表現・説明する仕方は、本質的にメタファー的なのではないかと考えられると考えたいわけです。「A:言い合いになって人を殴った」という現象を説明するときに、Bとして、先ほどの世界観XもYもZも、その言語セットと共に採用することができるわけです。
ここでもしかしたら、「いや、言い合いになって人を殴った、という文章があるのだから、Aをそのまま説明できてるじゃないか」という反応もあるかもしれませんが、厳密に言えば、この「言い合いになって人を殴った」という言い方もすでにメタファー的なものだと思います。なぜなら、その行為を目撃した時に、「太郎と次郎がお互いの顔が30センチほどの距離で向かい合う形で声帯を通常より強く振るわせ合った後、太郎がその右手を一度斜め上15度に10センチ動かした後、180度逆のベクトルに秒速15センチの速さで伸ばし、それが次郎の左の頬に衝突した」という、物理学的な世界観と言語セットを使った説明の方法もあるわけです。この点で言えば、「言い合いになって人を殴った」というのは、日常生活の人間関係を素朴に言い表す世界観とでもいうような言語セットを使っているのだと思います。厳密に考えるなら、ある現象を、全くニュートラルな、何の世界観も採用しない形で理解、表現・説明することはできない気がします。

・「ナラティヴ・セラピーが物語(のメタファー)を使う」とはどういうことか
このように理解したとき、ようやく「物語のメタファー」という言葉をちゃんと見ることができる気がします。ここをあまり考えずに、「CBTは認知を扱う」「EFTは感情を扱う」「行動療法は行動を扱う」とかいうのと並べて、「ナラティヴ・セラピーは物語を扱う」と書いてしまうと、なんとも変な感じというか、説得力にかけるような感じに見えてしまう気がします。でも、ここで、これまでの理解を使って考えるなら、正確には「CBTは認知のメタファー(世界観と言語セット)を使う」「EFTは感情のメタファー(世界観と言語セット)を使う」のと同じように、「ナラティヴ・セラピーは物語のメタファー(世界観と言語セット)を使う」ということになるんだと思います。「物語のメタファー」という言葉を使う時、それが意味するのは、おそらく「ナラティヴ・セラピーでは『物語』という概念を核においた独自の世界観を採用して、その世界観を構成する言語セットを用いますよ」というそういうことを言っているんじゃないかと思うのです。
そうすると、ナラティヴ・セラピーの世界観と言語セットも一緒に並べることができると思います。簡略化するなら、以下のような感じでしょうか。もちろん、(ほかの世界観のものも含めて)この言語セットにはもっと膨大な概念が埋め込まれているでしょうし、もっと複雑な世界観の説明が厳密にはあるんだと思います。
世界観:「人間は自分たちの人生を物語として理解している」
言語セット:「物語」「ディスコース」「エイジェンシー」「著述」
そして、最後になぜわざわざ「物語のメタファー」とか「テクスト・アナロジー」とか、それがメタファーであることを強調するような表現を使うのかという疑問がわきます。多分そのせいで、余計ぱっと見の分かりにくさが増している気がします。「テクストとか、物語とかだけでもニュアンスの壁があるのに、なんでメタファーってつけるの…」と。ただこれは単純に、ナラティヴ・セラピーは、その思想的な背景も含めて、「使っている言葉や世界がメタファー的であることを理解している」ということを自覚的に書いているからなのかなと、そんな気がしました。

長くなりましたが、ここまでが今回の一つの目的である「物語のメタファー」ってなんぞや、ということの今のところの理解になります。ただここまで書いていて、そもそも「物語のメタファー」というのを耳で聞いて、見たりもした気がするのに、いったいどこで見聞きしたのか思い出せず、もしもそんなこと誰も言ってなかったらどうしようという気分になっています。もしかしたら、不在の敵と戦っていたのかもしれません。
さて、実は最初に設定した問いでは、もう一つ、このことを踏まえたうえで、カウンセリングの中で出会う、クライエントが自分の体験を表現するためにメタファーを使うこと、あるいはナラティヴ・セラピーの外在化の質問や考えがメタファーっぽさを持っていて、そういう表現の大切さをどういう風に位置づけられるのかということを考えたい、というものをあげていました。実はそっちの方が書きたかったし、いっぺんに書いてしまいたかったのですが、ここまででも1つの記事として十分長い気がしたのと、まだそっちは整理がつききらないので、とりあえずここまでで終わりにして、続きはまた別に書こうと思います。
ただ、こんな風にメタファーという言葉を理解すると、「素朴なメタファー」は、専門知が提供してくれるメタファー(世界観=言語セット)以上に、実生活では有用な、自分の体験の理解、あるいは周囲の人がそれを理解すること、相互に理解を深めていく上での意義を持つのではないかと感じています。

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