ワークショップをホストしていて、参加者が自分自身の言葉でしっかりと対話に参加できるためには、いくつかの要因があるのではないかと思っています。これは、ファシリテーションの技法などを学んだことからではなく、自分の経験に基づいてのものです。私がまだ知らない、あるいは気づいていないものの多数あるとは思いますが、現時点で気づいていることを述べてみます。
【知のヒエラルキーを作らない】
対話の場において、誰か特定の人(多くの場合、先生とか講師という立場の人)が、みんなよりもよく知っているということを意識させると、それぞれの考えや思いを口に出すことは抑制されます。
どんなに、みんなに発言してみましょうと促したところで、知のヒエラルキーと呼べるような様式がその場にあると、自分の考えを口にするのは難しいと思います。
ナラティヴ・セラピーや社会構成主義のことをテーマとしてしていると比較的作りやすいスタンスがあります。この周辺のことについては、私(講師・ファシリテーター)も含めて、すべて知っている言える人はまずいないでしょう。そのため、参加者には、私を含めてこの主題についてすべて知っている人はここにはいないということを明言できます。
よく使うメタファーとして、みんな「どんぐりの背比べ」「五十歩百歩」なので、みんなで知恵を出し合って、みんなで理解を進めていきましょう、と伝えます。
このことは、小グループのディスカッションにおいて、誰が一番知っているのかという不毛な探り合いから、人びとを離れさせてくれるのではないかと考えています。
【言葉を出すことによって、自分の理解の足場を作っていく】
対話が、生成的となるためには、人びとの発言の種類をあるところに留めておく必要があります。それは、その人の語りが、理論や知識のような借り物によっておこなわれるのではなく、その人が検討していることについて、自分自身の体験を足掛かりにして、前に進むためには必要なものなのです。
このことを考えるたびに次の引用を思い出します。
ハリー・グリーシャンがとても熱心に言っていたことだが、「僕らは、自分が考えていることを言ってみないことには、それが何かわからない」ということだ。彼は言った。「考えることを見つけるためには、話し続けなければならない」。表現が先で、それから意味が生じる。
トム・アンデルセン「会話・協働・ナラティヴ」邦訳75頁
つまり、皆に伝えるべきことは、「すでに知っていること」「分かっていること」「ならったこと」を表現するのではなく、「分からないところ」、「不思議に思っているところ」、「感じていること」などを表現してもらいたいということです。シェアすべきは、人それぞれの、作り上げようとしている足場なのでしょう。
この姿勢で発言を促されることは、大切なことだと思います。なぜならば、どんなに難解なものでも、どんなに不思議なものでも、自分が何を感じたのか、考えたのか、どのような体験と結びつけられたのかについてなら、何らかのことを語ることができるはずだからです。
【それぞれの学習到達地点をあらかじめ設定しない】
ナラティヴ・セラピーや社会構成主義を理解するためには、それぞれの本人の中に、一種のパラダイムシフトを体験する必要があります。つまり、自分が見ていた世界、当たり前と思っていた価値観が、揺らぎ、そのことを根底から揺らがされる体験を経験する必要があると思うのです。
このようなことは、カリキュラムとして狙ってできるわけではなく、さまざまな要因が重なり合って、生じるものです。
また、本人にとっては、パラダイムシフトを経験することは、なかなかしんどいので、それぞれのタイミング(時)が必要だと思うのです。
よって、対話によって、それぞれが持ち帰れるものを持ち帰ればいいんだという姿勢を持つことができると思うのです。これは、こちらからの「知識」の押しつけという姿勢を持つ必要がなくなりますので、たいへん楽になる気がしています。
【対話の場は、人びとのつながりを豊かにするが、人びとを「仲良しクラブ」に誘うものではない】
ワークショップの場で、私は、チームビルディングとか、人間関係をより良いものにしてみんな仲良くなってもらおうことを、主たる目的にはしていません。
ワークショップの場は、ナラティヴ・セラピーまたは社会構成主義を学ぶ、あるいは体験するためのものです。ですので、そのことをしっかり取り組むために、対話があるのであって、人間関係のためにあるのではない、というのが私のスタンスです。
ですので、ディスカッションをするために関係作りのためのワークをすることはありません。
ただ、それぞれが、自分の学びのための足場作りをしている発言をシェアし、それを敬意を持っていくことができると、自然と参加者間の関係性は良くなっていくと感じています。実際、みなさん仲良しにもなっていると思います。
しかし、主な目的と、副産物としての結果を、入れ違いにはしてはいけない気がします。
【おわりに】
現時点(2018年12月29日)で考えていることを言葉にしてみました。将来的には、変更したくなることも、付け加えたくなることもあると思いますが、今日は、ここまでにしておきます。