ワークショップを企画するにあたって(その1)

ここ三年ほど、ニュージーランドから日本に戻り、ナラティヴ・セラピーを伝える機会をいただいています。しかし、私個人が伝えただけでは補えないものがある気がして、ニュージーランドでも日本人(日本語話者)のために、一週間のコースを企画し始めました。
これは、5名のナラティヴ・セラピーを教えたり実践しているカウンセラーを講師に迎えて、一週間、ニュージーランドのハミルトンという街に滞在し、ナラティヴ・セラピーを学ぶというプログラムです。
海外で、日本人のために企画されているプログラムはあまりないと思います。英語という壁を越えない限り、海外のプログラムや、学会、ワークショップに参加することはできません。これは、通訳をつけ、日本語でしっかりとディスカッションする時間を設けた、日本人(日本語話者)のためのプログラムです。
今、ニュージーランドで開催することの意義というものを考えています。わざわざ、高い航空運賃を払い、ホテルに滞在し、ワークショップ代金を払う意義があるのだろうか、という問いかけにもつながります。
ワークショップの企画、設計上、いくつかのポイントがあると思っています。

1.複数のナラティヴ・セラピストとの出会い

日本で、ナラティヴ・セラピーを実際に実践していますという人に出会うことはあまりありません。私は、これしかできないので、そのように名乗っていますが、他にどなたがナラティヴ・セラピーを主たる技法に据えて、セラピーあるいはカウンセリングに取り組んでいるのかよく知りません。
NZのワークショップでは、ナラティヴ・セラピーを実践している4、5名のカウンセラーと出会い、直接教えてもらえます。
教えてもらうことの内容も大切なことなのですが、複数のナラティヴ・セラピストに出会うことにおおきな意義がありそうです。つまり、カウンセリングの技法とは、単なる書籍上にマニュアル化できるようなものではなく、それを実践している「人」を通じて、私たちは接近する、身につけることができるのではないか、そんなことを考えています。
つまり、ナラティヴ・セラピーとはこのようなものだということを、ナラティヴ・セラピーを実践している人はこのような人たちである、ということを感じることによって(のみ)、可能ではないのかもしれないと、私は思っているところがあります。
同じ理論、思想を共有しても、実際にどのような実践、つまりは、どのような会話のやりとりになるのは、その人なりのところがでるとすれば、ナラティヴ・セラピーの、人それぞれの体現の仕方を目の当たりにする必要があります。そして、そのあり方が多様なものであると理解できるとき、自分のあり方、実践の仕方もその多様性の中に組み込める、と感じることができるのではないでしょうか。
これは、どのような自己流でも良い、ということではありません。
私は「ナラティヴ・セラピーの会話術」に次のように書きました。

デイヴィッド・エプストンとマイケル・ホワイトは、「書きかえ療法―人生というストーリーの再著述」(Epston, White, & Murray, 1992)の中でギアーツの文章を引用しながら次のように述べています。
テクストの不確定さと、テクストを演ずることに創造性が入り込んでくることに関して、ギアーツはトリリングの嘆きを次のように引用した。トリリング曰く「われわれはいつもオリジナルから出発するのに、何故コピーに辿り着いてしまうのか?」と。しかし、経験に意味を与え表現するには、まずコピーにストーリーがなければ始まらないわけで、はじめからストーリーに対して働きかけていると言える。だから、むしろこの言葉を逆さまにして「どうしていつもコピーから出発するにオリジナルに辿り着くことができるのか?」と質問すべきである。これに対してギアーツの答は実に心強い、「コピーを作ることこそ最初の仕事であり創作することなのだ」(Geertz, 1986)と。(野口&野村訳, p.147)

最初に良質なものをコピーし始める必要があるのでしょう。しかし、それに取り組み、それを実践しようとする過程において、その人が必ずたどり着く「オリジナリティ」も、ナラティヴ・セラピーの実践を豊かにするものの要素として認めていきたいのです。
それぞれのセラピストが実践するナラティヴ・セラピーの多様性に触れながら、私たちは、それぞれの根底に流れる共通項に気づかずにはいられないでしょう。そこが、ナラティヴ・セラピーを学ぼうとする人に、もっとも伝えたいことであり、もっとも取り組んで欲しいことなのです。
これは、テキストによって記述されることを拒んでいるのでいるのではないか、そんなふうに感じるほど、記述することがうまくできません。試みても、たいへんありきたりの表現に留まってしまうのです。つまり、相手に敬意を払うとか、相手を尊重するとか、などの言葉しか出てこないのです。
このような言葉が真に意味することをくみ取ることは、実際の人に接することによってのみ可能になるのではないか、そう思えるのです。