「アセンブリに書くのが難しい問題」はとりあえず解決

ある事情で、ナラティブセラピーのセッションをクライエントとして受ける機会を得ました。この体験についての詳しいことは別の機会でまとめることができると思います。が、今日は、この体験と、今私がだらだら読み進めているマイケル・ホワイトとデビット・エプストンの『物語としての家族』の中の記述から、しばらく私に付きまとっている「アセンブリに書くのが難しい問題」につながるかもしれないと思う発見があったので、それをここに書いてみます。
クライエント体験で感じた不思議の一つに、「何度も自分の中で考えてきたことのはずなのに、質問されると語るのが難しいと感じたり、セッションを終えたときに今までにない感触を感じていたりするのはなぜなんだろう」というものがありました。とても大事にしたい感覚なので今後も考えていくと思いますが、ここから一つ浮かんでくるのが、「人に語って考えることと、一人で考えることは何が違うんだろう」という疑問です。なんでだろーと思いながら、ちょっと大きすぎて(あまりに大雑把な疑問なので余計に大きく見えて)しばらくほっといていました。そんな中、『物語としての家族』の中に、この疑問に響く記述を見つけました。ページで言うと、158p~160pの辺りです。“「専門家的」な手紙”のことと、“ストーリーだてる治療において”用いられる手紙について書かれている部分です。

“私が「専門家的」な手紙というのは、人間についての専門家と問題についての専門家の間のコミュニケーションのことである。典型的には、この種の手紙の主人公となる人々は、たとえ彼らの将来がその記録によって形作られることがあっても、それに触れることは許されていないのである。ストーリーだてる治療において、手紙は治療と呼ばれる現実をともに構成するひとつのものであって、治療に参加するすべての人々の共有の財産となる。手紙は症例記録の代わりとなる。人/家族は、これらの手紙の作成にあたって、想像上の聴衆である。これとは対照的に、推測上の専門的権威者は、症例記録のための見えない聴衆として登場する。多くの症例において、そのような記録は自己との会話である。”
“そのような手紙を使えば、まず第一に、セラピストは、人/家族に対して説明ができることになり、第二に、専門家の間でも説明可能となる。これが可能になるのは、手紙やそれに含まれる情報が、専門的ダイアローグというよりは、共有されたダイアローグであるからであり、誰にでも見せられるので、誰にでも簡単に修正され、競われ、そして確認されえるからである。”
“物語化には、いくつかのとても明らかな利点がある。第一に、人/家族の経験が時間の流れの中に位置づけられる。科学的な説明とは異なり、経験を永久化することは試みず、むしろ、一時的なものとしてとらえるのである。…中略…第二に、ストーリーは、説明図の経済性と比較して、豊かで、より複雑なので、遥かに広範な出来事とか意図が、その中に組み込まれえるし、意味を持つことができる。ストーリーがすべてをひっくるめたinclusive傾向にあり、その結果、人々の人生の出来事を豊かにするのに対し、説明は排他的exclusiveであり、それらの範囲を超えた出来事は無視される傾向にある。”

など…まだ全体を読み終えていないし、一読目なので著者の意図を理解できているわけでは全くありません。それでも、こういうことなんじゃないかな?と読んでいたときに、クライエント体験で感じたことと、アセンブリに書けずに困っていたことがなんだかつながってきたのです。
私は、もしかしたら、この“「専門家的」な手紙”のように、何か、完結した、論理だっていて整然とした「説明」を試みていたのかもしれない。だから、何か書こうとするときに同時に浮かんでくるいろいろな思いや疑問をどうにか全部整理しようとして、果てしない旅を続けていたのかもしれない…。(それはそれで楽しかったけれど…)
一人で何かを考えて、自分の状況を理解するために今の状態の「説明」を試みるとき、私の思考を後押しするのは大体今までに学習してきたような言葉です(ADHDだの、発達段階だの、血液型がB型だからだの…)。それをもとに、どうしたらいいのか、と、なんとか解決する方法を探っていることがほとんどです。これが上手くいくことも役に立つこともたくさんありました(ほとんどは、解決を諦めるための言い訳に役立つ)。けれど、私がクライエントを体験して感じたものは、これとは何か違うものでした。私は、質問の妙につられてグダグダと思いを語り、そのどれも、とにかく出してみた…というレベルの言葉になっていました。だからこそ、それはいつでも言い直せる仮定のもので、まだ変化する途中の話で、全体を通しても何か起・承・転・結で「こういうお話でした」とまとめるのとは違う感覚が残るものでした。このあたりのことはもう少しちゃんと言葉にしていけたらいいなと試行錯誤中ですが、先に引用した『物語としての家族』の中に、共鳴する言葉をいろいろ発見しているところです。
私が一人で考えているとき、私の思考はいつの間にか解決へ向かうベルトコンベアのようなものに乗せられているようです。そして、ぐるっと一周するだけのベルトコンベアを一生懸命手動で動かそうとする。ご苦労様です。一人でやっていると、ぐったり疲れてからようやく手を止めることになります。けれど、一緒に私の物語に参加する「聞き手」がいるという状況は、ほかの様々な可能性を作り出します。一人で自分のベルトコンベアを回すことばっかりに集中しなくて良くなる感覚です。さらに、セラピストが聞き手だと、そもそも、このベルトコンベアはどういう作用をしているんですかなんて尋ねられることもあります。そうすると、一人でやっている間はただの徒労に感じていた作業にも、そうしていたことの意味が何かしら見つかったりします(それが自分にとって好ましいものかどうかはまた別の話ですが)。なんて不思議。ここまで考えると、ベルトコンベアというたとえはちょっと安直な感じがしてくるのも興味深い感覚です。この感じは、クライエント体験を通して感じた感覚の変化にも少し似ている気がします。
さて、この投稿の場がどんな場なのかという少しの心配はありますが、ナラティブ・アセンブリなのだからいいんじゃないか?ということで、“聞き手”の存在を頼りに、こういう考えの経過をそのまま投稿してみようと思います。ここまで来てなんだか少し、「アセンブリに書くのが難しい問題」は落ち着いた気がするのですが。これでまた書けないと悩むようだったら、それはまた別の理由(他のことが忙しいとか、ちょっと疲れて考えるのが億劫だとか)じゃないかと思います。