ビデオ講義「ナラティヴセラピー入門」を見て考えたこと

こんにちは。
ひさしぶりに投稿をします。
大串綾です。
国重浩一さんの日精研ビデオ「ナラティヴセラピー入門」第1章1~6までを見て、さらに葉子さん、克貴さんとディスカッションを経て、私の感じたことをまとめました。
浩さんのこのビデオは、しっかりとボリュームがあり、第1ー3章まで約2時間ずつあります。今回は第1章の前半を3人で見て、ディスカッションをしました。
私が、この数ヶ月、何冊かナラティヴセラピーの本を読み、5月のワークショップに参加させてもらったなかで、すでになじみのある言葉や考え方だな、とまず感じました。この数ヶ月の間に、ナラティヴセラピーに少しなじんでいる自分を知り、少しは学んでいるのかなと安心しました。また、聞いたことのある言葉であるにも関わらず、「あぁ、そういうことかぁ」と、新鮮な驚きが生まれたので、その課程を共有したいと思います。

被災地に支援に行った人が被災された方に「辛かったですね」と言ってしまう、
統合失調症と診断された方に、被害的な人だとあらかじめ想像して関わってしまう、ということ。
そして、自分が想像したものが見つけられないと、カウンセラー側が混乱して、想像したものを見つけようとする。
そんなことを、支援するはずの人が、してしまうことがある。
善意で、問題を作ることを支援してしまう、というのは、とてもインパクトがあって、私もやりかねないことで、これだけは気をつけておかなければ、と思いました。
一方で、想像したり予測をたてたりすることも大事だよな、というのが、ディスカッションしながら思ったことです。いくつかの可能性を予測したり、Clの話を理解するための土台となる知識を持っておくことは有用だと感じています。
たとえば、Clに「○○症なんです」と言われて本当にその症状を自分が知らないのであれば、それを調べて知識を入れておくことは必要。そしてそれを、Clと共有することも悪くないと思う。
同様に、既に自分が知っている「うつ病」などの病名の知識、アセスメントの結果、発達段階などの知識を共有することも、良い方向に働くことがある。そのときは、知識を提供することが「違う文脈に誘う」という働きをしているのかもしれない(ナラティヴの用語は、まだ確信がなくて、使っていいのかためらいがあります。。。)。
知識の提供によって、ものの見方が限定されるなら、提供しないほうがましで、提供によって、広いものの見方が現れたり、ひとつの見方を作るとっかかりになるのであれば、それは良い方向に働くのではないかと思います。
それは、その知識の内容にもよるし、知識の提供の仕方にもよってくるでしょう。
葉子さんはとても、提供の仕方に気を使っていて、専門的な知識を提供することで、親御さんの今までの経験から培ってきた知(’Savoir’=local knowledge)を奪ってしまうんじゃないかということまでも考えていました。
私も、そういったきめ細やかさを忘れずに、きちんと知識の力を意識しながら、それでも必要なときには伝えようと思います。
克貴さんが「ナラティヴ原理主義みたいになったらだめってことかな」と言って、私も、すべてを「ナラティヴっぽい」かどうかで良いセラピー悪いセラピーかを決めていたら、それはおかしなことになるな、と改めてバランスを意識しました。
マイケルホワイトの事例を見ていても、とてもクリエイティブで、自由な発想をつかってセラピーを進めていて、その考え方やエッセンスをまとめるとこうだよというのがナラティブセラピーに過ぎないんだものな、と。
こんなことを、ビデオ講義から影響を受けて、考えました。
これだ、という結論を出しているわけではありません。
私たちがナラティヴに思いをめぐらせた過程を、追体験していただけたとしたらうれしいです。
ちなみに浩さんのビデオ講義は以下からご覧になれます。(有料)