ナラティヴは優しくない

今、ナラティヴセラピーとはどんなものなのか、を言葉にしてみようと試みています。



今の私のキーワードは、「ナラティヴは優しくない」です。



ナラティヴセラピーは、一見、Clに寄り添った優しいものに見えるけれど、別に優しく接するためのものではないし、相手の希望に沿うことをゴールとしていないようなのです。
相手が今ほしい答えを言うことよりも、物事を公平に見ることを大事にしていると思います。優しいことを別に目指していない、といった方が正確ですね。
なぜ、こんなことを思ったかというと、私が今まで基軸に置いてきたPCA(パーソンセンタードアプローチ)との違いを感じることが多いからです。
PCAは、「Clが、受容された、共感されたと感じている関係が、治療的人格変化を起こす」としているので、Clの気持ちに注目しています。私は、Clの気持ち至上主義と呼びます(笑)。

しかし、どうもナラティヴはそうではないようなのです。注目しているのは、Clの気持ちではない。ナラティヴセラピストには、Clと関係なく、持っている世界観があって、それのもとにClと話している。だから、ぶれない。だから、影響を与える。そこが私には大きなポイントでした。


PCAと言っても、セラピストそれぞれで大きく違うので、私個人が、PCAを意識しているとき、ナラティヴセラピーを意識しているときの違いを比較してみます。
葉子さんが、今までの私のやり方、ナラティヴを意識したやり方、2種類のセッションにつきあってくれました。個人的にすごく面白かったです。


私が、PCAを意識しながらClの話を聞いているときは、Clがどうしたいか、なんと答えてほしくて今の言葉を言っているのか、を強く意識しています。そして、「自己一致」するように、自分の気持ちをClの気持ちや考え方に近づけてみて、Clに寄り添った返答をします。決して、自分の思っていないことは言わないようにしていますが、Clが望むような方向性に、自分自身を寄せていっている気がします。Clの気持ち至上主義で、優しいのですが、Clの気持ちは、いじってはいけないように思って、とても受け身なセラピーになっていました。そうすると、Clがそう感じるに至った経緯とか、心のもようは、ある程度自分のものとして感じられる(共感)けれども、さて、その後どうしようというところでの行き詰まりを経験することが多くありました。Clが、自分から考え、新たなアイディアを生み出せる人であれば、このセラピストの在り方だけで、確かにセラピーは進んでいきます。しかし、そうではない場合、ClとTh、ふたりでその気持ちを味わうだけでセラピーの時間が費やされ、前に進むのにはかなりの時間が必要でした。


無藤清子さんが「ナラティヴ プラクティスとPCA」(『全訂ロジャーズ クライアント中心療法の現在』)で述べている通り、PCAはThが変化を起こそうとしない、Cl主導のセラピーであるため、セラピーの進みは、Clの力に依存していると言えます。Clの気持ちを第一に考え、寄り添ったものの、そこからの動きを生み出すにはどうしたらいいか、ということは、PCAでは見つけられませんでした。
ロジャースのセラピーの映像や逐語録を見ると、例の6条件だけでは全くなくて、かなりアグレッシブに質問を繰り出しているので、ロジャースはいろいろなことをやっていたけれど、たまたま言語化した要素が6条件だったのでしょう。
多くの、熟練したPCAセラピストは、自分のPCAを作り出しています。そして、そこに至るまでの過程は、それぞれがんばってね、ということのようです。多くの人は、他の療法ややり方を折衷しています。


では、ナラティヴは?
ここからが、大事なところであり、私にとって、まだまだ言葉にするのが難しいことですが、ナラティヴセラピーとは何なのか、ということを語ってみたいと思います。

語る上で、私の中にある材料は、自分が国重浩さんに話を聞いてもらったときの体験がベースで、他の講師陣(ドナルド、ジェニー、ゲイル、エルマリー)から聞いた話、本を読んで入った知識が見え隠れする、という感じです。

話を聞いてもらったあと、私がそのやり方を思い出してもっとも印象深かったことは、「骨組みを提供されている」という感じでした。私の人生の内容はいじられることなく、そのままでいながら、「こうやって積んだらどう?」「この横には何があるの?」「積んでみて今何が見えている?」ということを聞かれていた気がします。

そして、その質問は予想外で(知識としては知っていたはずなのに予想外と感じる質問でした)、結果的に予想外に「私の人生」というタイトルの作品ができあがって、なにか感動的でした。そして、その作品には根っこがあって(作品というより木と言えばよかったかな)、私の人生に影響を与えた他の人々、作品、環境ときちんとつながっていたのです。自分のうまくいかないことや、あまり好きじゃないところを、自分だけのものだと思うと、自分ってだめだな、と思うのですが、他の人とつながったものだとすると、だめもなにもないような気がしました。

このつながりに関しては、ちょっと壮大な話になってきて、まだうまく言葉にできていません。

これは、世界観そのものだと思うので、もしかしたら、社会構成主義の本を読んでもっと刺激を取り入れることで、はっきりしていくのかもしれないし、人生を生きていく上でだんだん固まっていくかもしれないな、と思っています。


さきほどのPCAとの比較に視点を戻すと、

ナラティヴセラピーは、その世界観に基づいた骨組みを、Clに提供してくれるものだと思っています。

だから、今、Clが語りたいところを語って、「語れなかったしんどいことを語れた」とか「受け止めてもらえた」という状態を目指しているのではないようです。骨組みを組み立てて、中身を入れていく作業を、一緒に行っているように思います。中身の言葉は、Clから出てきたもので、勝手に入れられることはないところもポイントです。Clの世界観や気持ちは、決して置き去りにされていません。でも、それは「たったひとつの真実」ではなく、いくつもある気持ちのひとつ、いくつもあるストーリーのひとつに過ぎないので、絶対視されていません。だからこそ、変化するんだろうな、と思います。


というわけで、(こんな書き方で伝わったかどうか、わからないのですが)「ナラティヴは優しくない」、「優しくあろうとなんてしていない」というのが、今の私のテーマです。

どうしても根がひねくれているので、ひねくれた言葉になっていますが、これが、私がナラティヴに惹かれているポイントなのです。



※以下は、連想した話で、わき道にそれていっています。悪しからず。。。

葉子さんのナラティヴ君への愛を語った文を読んで、私も擬人化されたイメージが湧いて、それぞれのセラピーを服装やタイプにたとえたくなりました。

ナラティヴは、「Tシャツにチノパン、などの動きやすい服、仕事道具の入った鞄」がドレスコード(笑)。わりと理性的な人で、いつでも、実用的な道具、あります、っていう感じ。

PCAは、「本当に人それぞれの趣味のはいった自由な私服」で、welcomeと書かれた応接室でいつでも待っているよ、と言っています。場合によっては、優しいけど優柔不断な彼氏みたいなところがあります。

精神分析は、絶対にスーツ!クラシカルな。たくさんの本が詰まった本棚の前に立っています。主導権を握ってくれる俺様キャラです。いい人だと主導権を握ってくれていいのですが、困った人だと主導権を握られると本当に困ったことになります。

CBTは、白衣ですね。行動分析表のバインダーを持っています。めがねもかけているかもしれません。親切な人、冷たい人いろいろいますが、基本的にはデータを基に話すのが好きです。

偏見を含みながら妄想しましたが、最後の部分が一番書いてて楽しかったです(笑)。