教えることの向かっている先

こんにちは。大串綾です。

先週、「異国で考える 学校における子どもの支え方」ワークショップに参加させてもらいました。
今度はコンテンツの報告中心じゃなくて、きちんとじっくり考えて、消化したものを出そうとしていたら、どんどん時間がたち、霧散していきそうになって、焦ってきたので、少し言葉にしてみます。

 

ワークショップの中で見たのは、ニュージーランドという違う価値観の中にある人たちの、教育、子どもの支え方でした。

学校見学に行くと、まず、部屋が色とりどりな、作品や、葉っぱや、貝であふれている、というのが目に飛び込んできます。
次に、授業体制が一斉授業ではなく、どのクラスもグループに分かれて、それぞれ少し違った作業をしています。

そこで価値を置かれているのは、創造すること、自分で考えることのようです。
そのための刺激の多い部屋、グループ学習だと思いました。結果の到達度は、あまり問われているとは思えません。答えを出す過程の経験を積んでいる、と言えるでしょう。

 

比較して、日本の教室が、目に映る範囲に刺激が少ないのは、先生に注目して、理解をし、覚えることを大事にしているからなんだ、新鮮な驚きとともに気づきました。
覚えた先にある(目指している)ものは、難関高校、大学受験、良いポストへの就職、だと想像されます。そこでは、多くの知識、記憶力、効率よく正確に作業を行う力が求められています。

一方で、ニュージーランドの過程重視の教育の先にあるものは、高校での勉強、大学での勉強、得意なことを仕事にして社会生活を送ることだと感じました。求められていることは、試行錯誤して作り出す力や姿勢のようです。
高校、大学、仕事ということは同じですが、そこで想定されている能力の種類は全然違います。
ニュージーランドの大学受験は難しくなく、ひとつひとつの課題をパスして卒業することが難しい大学、というのもひとつ大きな違いです。

 

 

少し話は変わって、私は今ハミルトンの日本語補習校の先生もしています。
日本語補習校は、少し、日本の学校に近い形です。
一斉授業を聞いて、言われたことをやる授業が多くなります。

保護者によっては、体験型のニュージーランドの学校に近いものを求めていて、
保護者によっては、日本式のたくさん知識ややり方を教えてくれるものを求めていて、日本とニュージーランドの狭間で揺れ動いている集団だと言ってもいいでしょう。

 

私は、その場にいるとき、ある程度、身につけてほしいことを意識しつつも、子どもが、これは嫌だとかこうしたいんだとか言うことを、否定する気にはなれず、「そうなんだ」「じゃあ、こういうことかな?」というやりとりになることが多いです。
というか、そういうやりとりのときは、自分として落ち着いていられます。

「今はみんなでこうするんだから、その通りして」と言ってしまうときは、なんとなく自分の言葉や態度を良いと思えなくて落ち込みます。

日本の教え方をすると、後者の関わり方「言うとおりにして」が多くなるでしょう。私は日本式しか知らないし、ニュージーランド式は難しいな~と思っていたのですが、前者の「そうなんだ、こういうことかな?」という対応を続けていくとニュージーランド式に近くなるかもしれません。

 

日本式をすることで、教養が身につきます。考える土台となる知識です。
だから、どちらが間違っているとは思わないのですが、日本式に加えて、頭を使って考える時間がもっとあればいいな、と思います。正解を覚えるのではなく、考える時間。正しさの存在しないジャンル。

今やりたい!という衝動、思いついた新しいアイデアを、潰さないで拾ってつなげること。
そんなことをやってこなかった、先生にやってもらってこなかった私(たち)にとっては、「きちんとした成果(たとえば○○をいくつ覚えた、など)が出ていないけれどこれでいいのか」と不安になるけれど、相手の「これ好き」「やりたい」「やりたくない」を受け止めるやり取りは、気持ちや衝動を大事にできる気がします。
学校での時間をずっとそうしたほうがいいとは思わないけれど、今の日本のバランスには、もう少し、そんな態度や時間が増えたら、子どもと先生の関係、子どもの全体的な能力にプラスだな、と、そんな感じを持っています。

週1の一時間半教えている私と、本職の教員の方とは、比較になりませんが、
もしかすると、先生が、生徒の将来のために「少し違ったやり方があるんじゃないか」、「総合学習の時間で、主体的な学びって言われてもどうしたらいいの」、と迷ったときに考えることは、今の私が考えたことと似ているのかもしれないなと思い、共有してみました。

 

コメントやグループを作ったりして、こんなことをもっと話し合えたらいいなと思います。