「どのように聴くのか」というところを越えて

ジム・ヒベル&マルセラ・ポランコの「耳の調律: ナラティヴ・セラピーのリスニング」と、「ナラティブ・メディスンの原理と実践」を読みながら、考えていることがあります。それは、対人援助の領域で、人の話を聴く実践の難しさと、それを訓練することの難しさを、教育という領域にいる人たちが共通して感じているということです。

日本でも、「傾聴」つまりは人の話を聴くということはどのようなことであるのか、どうしたらいいのかと言うことに、大変多くの時間を割いているので、聴くということの難しさ、教えることの難しさは、共感できるのではないでしょうか。

そこは、さまざまなエクササイズやワーク、そして、詳細な読解というような実践を通じて、すこしずつでも何とか身につけていけるようになる可能性がありそうです。つまりは、自分がどのように人の話を聴いているのかという理解、そして、それ以外にどれほど多くの話の聞き方があるのかという気づきが、大切になるのではないかということです。

また、どのように話を聴くのかということについては、自分はどのように聴いてもらいたいのかということも、1つの大きな検討事項になるとも思います。

この大切さを決して疎かにしたくないのですが、ここに留まりたくないと思っています。聴くという行為の先にあることは、発話するという行為です。つまり、聴いてから、次に待っているのは、相手に何らかの言葉を発するということです。どのように返すのか、どのように問いかけるのか、ということです。

その際に、何を聴きたいのか、何を伝えたいのかの思いや考えがあるでしょう。そのことは大切なことです。でも、多くの場合、その思いや考えを、うまく表現できずに、相手に不快な思いをさせてしまうこともあるのです。

会話という場面において、双方向のやりとりがおこなわれるところで、相手にどのように話しかけていくのかに、もっと取り組む必要があると考えています。それは、多くの書物を読み、多くのことを知っているからといって、会話の場面で、発話行為がうまくなるとは限らないからと考えているからです。

聴くことに取り組むことは忘れたくない。でも、そこだけに留まりたくないのです。そのことの一環として、「ナラティヴ・セラピーのダイアログ」という書籍プロジェクトがあるともみなしていいのかと考えています。