アウトサイダーウィットネス、リフレクティングチームで起こることの多様性について

 NPACCのカウンセリングでは、カウンセリングを申し込んでくれた方が希望したり、試してみたいと言った時、なるべくOW&Rチームを入れたカウンセリングを続けている。OW&Rチームは、マイケル・ホワイトの「アウトサイダーウィットネス」とトム・アンデルセンの「リフレクティング・チーム」の両方に敬意を払うためのNPACCが作った造語である。このプロセスは、簡単に言えば、通常のカウンセラーとクライアントのカウンセリングを、そばでOW&Rチームが聞いていて、切りのいい所で、話を聞いていたOW&Rチームが「それまでのカウンセリングを聞いて」それに反応して出てくるところを会話し、その後、それに耳を傾けていたクライアントとの会話に戻っていくというものである。この基本的な枠組みやプロセス、原則などをトム・アンデルセンが「リフレクティング・チーム」としてまとめており、マイケル・ホワイトがそこから出発して、さらにナラティヴ・セラピーの持つ方向性に発展・再構成させていった実践がアウトサイダーウィットネスや定義的祝祭と呼ばれるものである。例えば、アウトサイダーウィットネスでは、マイケル・ホワイトは、より意味があり安全な枠組みとして、4つの構造化された質問を提案している。このプロセスは、非常に力強く、大きな意味を持つと感じていて、NPACCでは、相談に来られた方の希望に沿う形でこの形式のカウンセリングを導入したり取り組んだりしている。

 ただ、いかんせん、恐らくは日本ではじめてに近い取り組みだと思っていて、どんなプロセスを経たら入る人もカウンセラーも相談に来た人も安心で意味のあるプロセスになるかとか、実際的にどういう仕組みでどうOW&Rチームに入ってくれる人を徴収するかの仕組み作りとか、あとはそれ以前の問題としてカウンセラー自身がこの形式になじんでいくのにいっぱいだったりと、まだまだ安定して広く現実的な運用をするところには至っていない。まぁ、それは新しい実践の初期には仕方ないし、必要な過程の中にいるという気もしている。

 ただ、それでもそれなりに回数を重ねてきて、少しずつ慣れてきて、やっぱり経験を積むこと、回数を重ねることは大事だなと改めて感じる。最初はマイケル・ホワイトの4つの構造化された質問を単純に辿る(真似る)ところからしか出発できなかったのが、ようやく少し、工夫したり、調整したり、即興的に別の方向性に挑戦したり、OW&Rチームの会話に取り組めるようになってきた感じがある。

 もちろん、リフレクティングチームやアウトサイダーウィットネスのプロセスややり方、その意味については、多くの文献があるので色々と言葉にされてはいる。NZに留学していた時からこのプロセスに参加はさせてもらっていたし、比較的関係者の中で練習しても来て、こういうものかというのもなんとなくわかってはいた。ただ、やはり実際の実践のなかで得る経験というのは、それとは別の経験や知識を蓄積させてくれる気がする。練習は間違いなく大事だが、試合の打席に立たないとわからないこともあるんだなぁというか。

 ともかく、比較的頭の理解や、デモ体験のレベルで理解していたものが、少しずつ識別可能になっていく感じがあって、その意味や大切さや、定型の質問に頼るのではなく、ようやく即興的な応答を試み始める余裕が持てるようになってきた。例えば、以下のような意識が生まれてくる気がする。

・そのカウンセリングの会話でOW&Rチームに入ってもらうタイミングを意識する

・4つの構造化された質問を、その場に合わせた形に工夫することを試みる、その自由の幅ができる

・時に、内省と意図をもって、4つの構造化された質問から離れ、その場で意味がありそうだという会話に挑戦する

・OW&Rチームの会話の、全部を全力で追うのではなく、意図をもって取り組む

・カウンセリングのプロセス上、OW&Rチームのプロセスを無理にしっかり入れなくてもよさそうという判断もできそう

・こうしたことを踏まえて、ただ試みるのではなく、より意図をもってこのプロセスに取り組み始める

 まぁ、少しずつ力加減とか、定型を大切にしつつ形式に縛られないで取り組む余地が出てきているという感じ。一方で、その難しさや、結局アウトサイダーウィットネスが、どのような聞き方、応答をすることができるのか、脱中心化共有とはどういうことなのか、その見えてきたものを人に伝えるにはどうしたいいのかなど、検討事項としてさらに多くのものも見えてきたような感もある。

 ただ、今回このあたりのことを書くのは、あくまでも実践をし始めた中間地点的な位置からであって、全然包括的に色々なことが語れる地点まで来ていないだろうこと。また「かつてのクライアントをアウトサイダーウィットネスとして徴集する」というマイケル・ホワイトの結構代表的な形式の経験や機会は僕にはまだあまりなく、同僚のカウンセラーやトレーニングコースの受講生にOW&Rチームとして入ってもらって積み上がってきている経験であること。また、今のところ、OW&Rチームに徴集できるメンバーがかなり限られている中で、1~2人の比較的少人数の単位でのOW&Rチームの取り組みをしてきたことなど、そんな限られた経験の中で見えてきたものであるという所は述べておきたい。逆に言うと、まだいろいろと発見や多様性を開拓できるところもたくさんある気がする。でも、この地点でいったん、見えてきたものをまとめられるところにも来たような気がする。

・カウンセリングのプロセスとの応答の中でOW&Rチームで起こることの多様性

 マイケル・ホワイトは4つの構造化された質問「救出」「イメージ」「共鳴」「トランスポート」として、アウトサイダーウィットネスの大きな枠組みを示している。僕も、カウンセリングでOW&Rチームに参加したり、質問したりするとき、やはりこの地図を頭の中に置いている気がする。ただ、この比較的単純にも見えるプロセスを通しても、実はそこで起こりうること、OW&Rチームがどのような意味を持つかは多様であるという気がしてきている。つまり、アウトサイダーウィットネスや定義的祝祭という一つの枠組みで提示されると、そこで起こることがある一本のものであるようにどうしても見えてしまうが、実は、このプロセスで起こることも非常に多様であるだろうということだ。そして、当然といえば当然だが、OW&Rチームがどのようなものとなるかは、どんなことができるかは、その前のカウンセリングの会話とも切り離せない関係の中にあるような気がする。この部分というのは、実はまだそんなに言葉にされていない領域な気がする。

・OW&Rチームで起こるパワフルな「救出」「共鳴」「認証」について改めて

 カウンセリングの中で、やはり、その人のたどってきた苦闘の道のりが語られたり、その人の大きな思いが語られたり、あるいは会話を通してたどり着いた新しい好ましい発展やアイデンティティ結論が語られることがある。そのような時、それを聞き届けてくれ、応答してくれるOW&Rチームがいることは非常に力強いプロセスを産むことがある。

 カウンセリングの中でクライアントから語られた、クライアントがいかにしてここまでやってきたのか、そこまでにあった大変さや努力の過程、大事に手放さないできたもの、そしてまた見えてきた希望の側面や好ましい物語の発見など、そうしたものの「救出」「共鳴」「認証」というものの大切さが改めて感じられている。

 これらは、マイケル・ホワイトがナラティヴ・セラピーで使った言葉である。「(語られたことの)救出」とは、実際に語られた言葉、表現を拾い上げること。話し言葉に基づく「会話」では、出てきた大切な言葉や表現は、書きことばに比べてとどめておくことが難しく、どうしても流れていってしまう。そうしたものを、改めてアウトサイダーウィットネスが拾い上げることが、「救出」という言葉に込められたものであろう。そして、マイケル・ホワイトは、この「救出」の作業を、アウトサイダーウィットネスの構造化された質問の1つ目に置いている。また後で述べるが、この「救出」は、アウトサイダーウィットネスやリフレクティングのプロセスにおいて、最も重要でベースとなる反応で、「まずここから始まらなければならない」と言ってしまってもいいのではないかと思えるくらい大切なプロセスである気がする。

 そして、「共鳴」は、まさに会話を通して目撃した物語が、それを目撃したアウトサイダーウィットネスに響いていくことである。この共鳴は、構造化された4つの質問の3番目に位置づけられるが、最近思うのは、実は1段階目の「救出」というプロセス、つまり「こういう言葉が目に留まったんだ」「こんな言葉が大切に聞こえたんだ」「この表現、この人のこの道程を私は聞いた気がする」という、クライアントの語った言葉や表現の拾い直しという、この時点においてすらパワフルに始まっているという気がする。むしろ、ここを抜きにした共鳴は共鳴になりえないような気さえする。その先で、「こうした表現が、なぜ自分の人生に響いたのか」を述べていく、この3段階目のプロセスは、より発展的な共鳴を引き起こしうるが、やはり1段階目の「救出」でさえ、共鳴の最初の振動が始まっていると感じる。

 最後に「認証」であるが、これは別個のものではなく、こうした「救出」「共鳴」というプロセスの中で、静かに響いていくような、そんなものであるような気がする。この認証とは、語られたこと、その人が歩んできた道のり、抱く思い、新たに見つかった好ましい展開やアイデンティティ結論、そうしたものが認証されるということである。ただ、注意深くなければならないいくつかの点がある。例えば、「それは素晴らしい」とか、「ここまでやってきたあなたは凄い」とか、評価を伴ったり、その成果物だけに目を当ててはいけないということだ。そうではなく、その人が語った限りのこと、歩んできた道のりそのもの、その人が会話の中で発見したものがそのままに認証されることを指すのだろうと思うのである。そこを勝手に超えていってはいけない。しかし、そういいつつも、明らかにそこにありそうな、でもまだ半歩言葉にされていない物語をアウトサイダーウィットネスが捉えたと感じることもあるだろう。そのような時、そのことをその場に出す意味や影響、そうしようとしている自分の意図、そうしたものにも注意深くありながら、非常に慎重な出し方で言葉にすることも大きな意味を持つことがあると感じる。ただやはり、相手の言ったことや文脈を無遠慮に超えていってはいけない。

 そしてもう一つ、「認証」はOW&Rチームでは、多くの場合、密やかに行われているような気がする。つまり、「あなたはこれをやってきました!」と判をボンと押すような仕方ではなく、「あなたはそんな風にしてここまで来られたのですね」とか、「それでも、そんな未来が今見えてそちらに進もうとしている、と彼が言ったのを聞いた気がする」といったニュアンスのかたちで差し出されるような気がする。個人的にはこのために、ナラティヴにおけるacknowledgeの訳は、「承認」ではなく「認証」の方がいい気がしている。そして、この密やかさとはつまり、「救出」や「共鳴」という応答の中で、いつの間にか「認証」が静かに響いていくような、そんなものである気がするのだ。と言いつつ、もちろん、カウンセリングの会話の中で明示的に語られたのであれば、明示的にOW&Rチームで認証のプロセスが比較的確固とした形でも起こる気もする。あるいは、定義的「祝祭」という言葉に述べられているように、セレモニー的に行われることや、その意味もかなりあるような気もしてはいる。いつか、機会を見つけてそんなことにも取り組んでみたいものだ。

 この「救出」「共鳴」「認証」がクライアントにもそうと受け取られる形で起こるとき、OW&Rチームのプロセスは非常に力強い。こうしたプロセスを通して、クライアントは、カウンセリングの会話の中で発見し、自分自身で言葉にした(それ自体がまず大切だが)、自分の歩みや思いや価値観や新たな可能性について、一つ一つ拾い上げられながら、OW&Rチームというその会話の目撃者の口から、そのままに繰り返され、その上で少し異なる表現やバージョンや発展したイメージと共に響き合わされるのを聞く。それは、その語られたことを、より多くの人に認識され、確固としたものになるだろうし、ねぎらいや癒しのプロセスとなるだろうし、その人自身の道程や可能性や好ましいアイデンティティ結論が豊かなものとして認識されていくことにもなるだろう。これが、非常にパワフルな助けとなることは、やはり間違いないように感じられるのだ。

 だからこそだろう、ナラティヴのテキストで、アウトサイダーウィットネスや定義的祝祭の例が出されるとき、多くはこのような比較的劇的なプロセスであることが多い気がする。しかしながら、このようなプロセスが比較的起こるのは、その前のカウンセリングの会話の中で、その「素材」となるもの、その人の道程や思いや価値観や新たな好ましい発展や可能性といったものが、しっかりと見つけられた時に起こるような気がする。あるいは、そうしたOW&Rチームの反応を受け取れる足場までクライアントを招き入れることができているかどうか、ということも当然あるだろう。

 このような準備の整っていない時に、この劇的な作用だけを目指してしまうと、OW&Rチームのプロセスはクライアントやそれまでの会話を置き去りにし、噛み合っていない歯車を勢いよく空転させるような形になってしまうような気がする。

 でも実は、OW&Rチームで起こることは、この劇的なプロセスだけでは決してないということも、この1年の実践のなかで同時に感じている。そこを言葉にして整理することは、今後、OW&Rチームの取り組みをしていく中で大事な気がする。以下は、そんな所を書いてみたい。

・逆に、OW&Rチームがそこまで必要とはならないタイミングもある気がする

 例えば、逆に、OW&Rチームのプロセスが、そこまで必要ではないかもしれないタイミングというのも見えてきた気がする。例えば、カウンセリングの初期に、話したい多くのことが、そんなにストーリーとしてまとまることもなくどんどんと言葉にされていく過程はよくあるが、そのような時、クライアントがまだ話したいことを話し切っていないだろうタイミングでカウンセリングの終盤まで来てしまうこともある。そんな時は、OW&Rチームのプロセスに時間をかけるタイミングではないかもしれないとも感じる。

 あまりじっくりとした反応をOW&Rチームが返しても、まだ話し切っている感じがない状態では、クライアントもそんなに落ち着けてOW&Rチームの会話も聞けないのかなという気がする。また、反応の「素材」となりうるものが十分にない中では、OW&Rチームもそんなに反応をすることを困難に感じるかもしれない。考古学に例えるなら、色んな所を少しずつ掘り返している段階のところで、まだ片鱗も見えていない土器や化石に思いをはせてあれこれと議論してしまうような? そんなときは、クライアントが語る時間をとることを優先的に取って、OW&Rチームのプロセスを無理に入れなくてもいいかもしれないし、あるいは最後に、出た話の簡単な振り返りや、話を聞いての感想をちょっと共有するくらいでも、ちょうどいい時もある気がする。

 とはいえ、OW&Rチームの何がどう反応するかというのは、いつも未知の可能性を残していて、そういう段階とカウンセラーの方が思っていても力強い相互作用を引き起こす可能性もある。また、「今はOW&Rチームのタイミングじゃなかったかもな」と気づくのは往々にして後知恵的でもある。ただ、このようなタイミングがあり得ると知っておくとや、そこに意図の糸をつなげておくことは意味がある気がする。でないと、僕らはいつもパワフルなOW&Rチームを目指してしまう危険性があり、それはまさに、それを行うカウンセラーやOW&Rチームの側も疲弊させてしまう。

・会話やカウンセラーを助けてくれる「救出」

 さて、先ほどは、OW&Rチームが一番力強く機能するのは、会話を通して語られたクライアントの道程や好ましい展開の物語に対して、「救出」「共鳴」「認証」というプロセスが生じる時のような気がする、と述べた。

 でも、毎回毎回そんなことが起こるわけではないし、カウンセリングにつきものの行きつ戻りつしたり、混乱してクライアント自身もカウンセラーの方も焦点や筋がなかなか定まらない会話になってしまうようなとき、この「救出」のプロセスに助けられることが大いにある気がする。

 なかなか焦点が定まらなかったり、少し新しい話が出ても「そうはいっても」と何度も戻ってしまったりする、そんな会話はカウンセラーにとって身近な気がする。そういう時、カウンセラーも(おそらくクライアントもだが)途方にくれたり、終わってからどうしても「もっとできたのではないか」という感覚を持ってしまったりすることもあるだろう。

 でも実は、それなりに60分とかの会話をしていると、色々な話は出ていたりするわけで、よくよく思い返してみると、そういう時には、カウンセリングの中で以下のようなことも起こっていたりする。例えば、クライアントからぽろっと出た小さな表現がなぜか重要な気がして、でもその場の会話の流れやタイミングでそこを聞けずに流れていってしまうといったこと。あるいは「こんなことはできたんだ」とか「自分が悪いと思ってたけどそうじゃないかもしれないと思う時もある」とか、なんか好ましい展開につながりそうな表現出てきたのに、やっぱりそこに留まれずにつかめずに流れてしまうこと。あるいは、そうして一つの新しい物語を見つけても発展させても、「でも、結局ダメなんだ…」という大きな流れに抗えず、それを手放さざるを得ないこと。こうしたことは、後々カウンセリングの記録を読み返したときや、SVを受けている時に、唐突に「やっぱりここは大事だったんじゃないか」とか「なんでここが目に入らなかったんだおれは」となったり、「そこをつかまえて質問をしたらどうなるだろう」となったりする。

 もちろん、カウンセラーはこうしたことに何とか取り組もうとするわけだが、多くの可能性と選択肢と会話の流れがある中で、どうしたって流れていってしまうことはある。そんな時、OW&Rチームの「救出」がこうした表現を拾ってくれることがある。「あの時のこの言葉が印象に残ってます」とか、「このことは、そこでは触れられなかったけどもっと聞いてみたいと思いました」とか、「あの話は、やっぱり今の困難の大きさの前に流れてしまったけど、それでも何か大事なものがあるような気もしてしまいました」とか。そうすると、カウンセリングの会話の中で、生まれたものの流れていってしまっていたものたちが、少し整理されたりマーカーをつけられたりした形で、会話のテーブルの上にもう一度戻ってくるのである。それは、カウンセラーが見過ごしていた別の会話への入り口となることがある。

 OW&Rチームのようなプロセスは、一対一の対面する会話の中に埋め込まれているクライアントが、少しそこを抜け出して距離を取って落ち着けるプロセスでもあるが、実は真剣勝負の舞台の上に立ち続けているのはカウンセラーも同じで、少しそんな風にこれまでのプロセスから距離を取ることができて、しかも他の人がもう一度大切なものを整理してくれた中で戻る機会は非常に大切な気がする。

 それを聞いていた時点で、クライアント自身が、もう一度テーブルに載せられたものに対して抱くものが出てくるかもしれない。あるいはカウンセラーに、それについてもう一度改めて、質問や文脈の置き方が少し違った地点から質問する機会を提供するかもしれない。

 このOW&Rチームのプロセスは、比較的混乱したり行きつ戻りつした会話となった時に、「共鳴」「認証」という所まではまだ足場の足りないそんな時でも、会話やカウンセラーを助け、ひいてはクライアントを助けてくれる可能性がある気がする。

・じんわりと響かすような「救出」「共鳴」「認証」

 「救出」という反応が持つ、もう一つのベーシックなありがたい点として、カウンセリングの会話を通して生まれたそこまでの発見や成果を、もう一度再認識させてくれるということがある気がする。これは、先ほどの混乱したなかなか焦点の定められない会話ではなく、大事なところも確認しながら進んだものの、しかし「共鳴」「認証」というプロセスでクライアントが力強く何かを見つける、という所まではいかないような、そんな中間的なプロセスにおいて、地味ながら大事な形で機能する気がする。

 例えば、カウンセリングの中で、いくつかの重要なエピソードが話され、大事なことも同定され、その意味も確認され、しかしながら、やはりまだ話す余地を残しているとクライアントもカウンセラーも感じながら、次のカウンセリングにその期待を託して終えるような、そんな会話もまた、カウンセラーにとっては馴染み深いものだろう。多くのカウンセリングにおいては、こうした、じりじりと歩を進めていくような、そんなプロセスもありうる。

 こんな時、OW&Rチームは、会話を通してその時点までで語られたり発見されたりしたことについて、「救出」「共鳴」「認証」といった応答をする機会を持つだろう。そして、このような時には、こうしたプロセスは、劇的に機能するというより、比較的じんわりと、静かな重低音を響かすようなものとなる気がする。それは、マイケル・ホワイトがプルバックカーのメタファーで示したような、景色を一変して見せる契機となったりするような、そういう劇的なものではないだろうが、それとはまた異なる次元で大切な価値を持つプロセスであるような気がする。

 カウンセリングの会話で語られ、発見されたものが、別の人に拾い上げてもらい、また響かせてもらうことを通して、それがなかった時よりも、おそらくもっとしっかりとした存在感をもって、それらはクライアントの元に残るだろうという気がする。

 どうしても、テキストに載せるような逐語や事例では、OW&Rチームのプロセスが持つ、比較的劇的な、インパクトのあるものが載ってしまう。そのためか、こうした「じんわりした」プロセスの後は、OW&Rチームメンバーが「これでよかったのか…」とか、「失敗したんじゃ」という印象を持つこともある気がする。あるいは逆に、劇的な反応をつい意識してしまったり、「新たな意味や視点の創出」のような見た目にわかりやすい効果の方向に無暗に向かうと、この「救出」の地道なプロセスは置き去りになってしまいかねない。新たな視点や少し文脈から外れた言葉の導入や、少し高すぎる足場への発展的な会話に向かってしまうと、やはり、クライアントやそれまでの会話は置き去りになり、比較的空回り感を残した会話となってしまう可能性が高まる気もする。この辺りは、書きながら自分にもあるなと感じ、自戒も込めて書いている部分であるが、ともかく、OW&Rチームの持つプロセスは、劇的なものばかりではないという、当たり前のことを言葉にしておくのが重要な気がする。

 そうではなく、多くのカウンセリングのプロセスが、地道に会話を重ねて、一つずつの検討や発見を積み重ねていく過程の上に成り立っているように、こうした過程において、小さな(でも大事な)発見や検討の積み重ねが、カウンセラーとクライアントの声だけでなく、より多くの聴衆の中で上演され、認められる中で響き合って、もう少し存在感のあるものになりうるという、そんな大切さもOW&Rチームのプロセスの大事さとしてちゃんと認めておいてあげる必要がある気がする。

 この時、大事になるのは、特にやはり「救出」のプロセスである気がする。語られたことを拾い上げ、もう一度、アウトサイダーウィットネスの口から言葉にしてくれること。それは、この過程で、地味だが大きな意味を持つと思う。

・カウンセリングの後にOW&Rチームが機能することも

 また、もうひとつ面白いこととして、OW&Rチームが、カウンセリング後の、好ましい物語の「流布」の過程において機能することもあった。例えば、カウンセリングで好ましい発展や物語が語られた後、たまたまそのことが日常の中でも展開しているのだという連絡をもらった時に、カウンセラーを介して、そうした好ましい展開がその時のOW&Rチームに共有され、また応答があり、といったプロセスが起こるということだ。

 日常で取り組む様々なことについて、例えいいことがあったり、好ましい発展があっても、それを語る場所がないと、それは日々のそのほかの数多の出来事の中に埋もれていってしまう気がする。しかし、誰かがそれを聞き届け、反応をもらえたら、それはもう少ししっかりした形で目に見えるようになるだろう。しかしながら、日常の中にはなかなか「適切な聴衆」がいないこともある。そうすると、一方では、日常の関係者の中に、この「適切な聴衆」を徴集することもできるし、もう一つの可能性としては、このようにOW&Rチームが機能することもあるようであった。つまり、その時のそのカウンセリングの会話の中でもう意味だけでなく、そのカウンセリングの後で別の意味を持つ可能性もあるのである。

・「救出」というプロセスが持つ大事なもの

 OW&Rチームで起こることは、テキストに載っているように、いつも劇的なわけではない。そこには、NPACCでやっているOW&Rチームとマイケル・ホワイトの定義的祝祭を語るテキストとの間の、取り組み方の違いもある気がする。マイケル・ホワイトが定義的祝祭の例を出す時は、比較的、カウンセリングのプロセスの中で、その人の道程や、特に好ましい展開やオルタナティヴなアイデンティティ結論や可能性が発見されたときに、そのことの聴衆を集める、という形で行われている。つまり、今回「救出」「共鳴」「認証」の最も力強いプロセスの「素材」といったものが、既にちゃんと集まった時に、クライアントもそれが大切だと思う中で行っているのだ。そんな時は、既に言ったような劇的なプロセスが起こる準備は比較的できている。

 NPACCのOW&Rチームでは、比較的、それ以前のいろいろな段階からも、OW&Rチームが入っている。もちろんそれはクライアントが希望したり、カウンセラー側も大丈夫かなと思う時にではあるが。それは、そのような段階からでも、カウンセリングが複数的なものに開かれていることが意味を持つだろうとも思うからである。だから、文献の代表例となるような、素材も集まって実際に劇的なプロセスが起こる以外のタイミングやケースなども、当然起こるわけだ。やはり、実際の実践のなかで、そこが見えたことは大きいし、少し整理しておきたいところでもあったので、書いておいた。

 そして、書きながら、経験しながら思ったこととして、この「救出」のプロセスは、OW&Rチームで(実を言うと、カウンセリングにおけるカウンセラーの在り方としてもなのだが)非常に重要でベーシックな、そこを抜きに進んでしまってはいけないもののような気がしている。それは、こうした比較的地道なOW&Rチームの時に重要であるばかりでなく、パワフルなことが起こるときにも、そのことの底が抜けないための大事な過程であるように思われる。

・クライアントの物語を聞くことと、カウンセリングの会話を聞くことと

 また、もう一つ言葉になりつつあることとして、OW&Rチームは、クライアントの語りを聞きながら、カウンセリングの会話をも聞く耳を持っていることに意味がありそうな気がする。つまり、聞いているのは、クライアントの物語であると同時に、それがカウンセラーとの応答の中で、その場で語られ、発見され、筋立てられているものでもあるということだ。OW&Rチームは、クライアントの物語だけではなく、カウンセリングの会話のプロセスにも応答する側面を持つといったらいいか。たとえば、もしクライアントの物語を会話とは離れた独立したもので、会話はその物語を再生するだけのものとなってしまえば、OW&Rチームは、そこまでの会話のプロセスは意識の外において、反応してしまうことになる。例えば、カウンセリングが比較的混乱した過程の中にあるのに、OW&Rチームの側が捉えてしまったものへの、力強いプロセスに勝手に向かっていってしまうかもしれない。

 書きながら、この辺りはまだうまく整理しきれていない気もする。もっと経験が必要な気もする。よく考えれば、カウンセリングのプロセスとOW&Rチームの応答がどのように関係しあっているかについては、ほとんど論文なんかも出ていないのではないか。検討できる大事な点である気がする。

・さらなる検討点「OW&Rチームの意図への取り組み」「好奇心」「『物語』を聞くこと」

 また、今回書いてきたことは、OW&Rチーム側が提供した物語にクライアント側が反応しうるという、そちらの側面についてはあまり触れていない。ただ、どちらかというと、OW&Rチームの物語が出されるよりも、今日書いてきた、クライアントに語られたことを「救出」するという側面の方が、このプロセスでは基礎・土台として大事な気がして、それ抜きにはそっちの方向性には舵をきれない気がしている。

 あと、カウンセラーやOW&Rチームの反応を考える時、「好奇心」「意図」「物語として聞くこと」といったことを改めて考える必要性を感じている。「救出」を強調するだけでは、乗り越えられないものがある。例えば、クライアントが、「悲しいけど、前に進みたいんです」という物語を語った時に、「悲しい」という表現だけを救出してしまう、といったようなことが、その人がせっかく同定した好ましい展開から問題のしみ込んだ物語へ連れ戻してしまうような形で、会話の結果に影響を与えてしまう可能性はないのだろうかとも思う。つまり、「救出」が大事というだけでは、こうしたことまでは考えられない。そこには、「どんな表現を救出するのか」という好奇心の在り方や、意図の持ち方と繋がってくるのではないかと思うのだ。そして、最近、「耳の調律」が述べることを理解する中で、「救出」ということの大切さは、「何を救出しようとしているのか(耳を傾けようとしているのか)」ということとセットで考える必要がある気がしている。そのあたりはまた書きかけなので、今後また投稿したい。